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それぞれの傷

 フラッシュバックを起こした彩菜の話を怒号で遮った父親は、次の瞬間娘の顔に驚いた。一度も見た事のない冷えた瞳は、拒絶と恐怖を訴えていた。

「すまない、彩菜」

そう言って手を伸ばした彩菜の父親は、怯えて身体を引いた娘に僅かに苛立った。

「彩菜」

更に手を伸ばして髪に触れた瞬間、彩菜はその手を払った。

「いやぁぁぁぁぁぁぁーーっ!」

家中に響き渡る大声に驚いた父親は、彩菜の腕を捕まえ、思いっ切り噛まれた。怯んだ隙に自室に逃げた彩菜を追う。続いて真夜中の突然の大声に飛び起きた母親が、彩菜を追って部屋に入った。真っ暗な部屋の隅で彩菜は、血が出るほど自分の皮膚を掻きむしっていた。


「汚れてる、わたし、きたない、きたない……」


 言葉を失い彩菜を抱き締める母親と、何も出来ない父親。自らの余裕の無さを知りながらも、彩菜の父親は歪んだ怒りを抑えられなかった。

 何も言い返さず表情を消した妻が壊れているのを知ったのは、彩奈が交差点で複数の人間に噛み付き、措置入院した後だった。


「いないの……。彩菜がいないの!」


 深夜に叫び出す妻を持て余し、どうして自分一人だけ狂う事が出来なかったのだろうと思う日々。そしてその答えに気が付いたのは、先月の事だった。


「全部私が悪いの……」


 泣きながら許しを請う妻の姿に、自分が妻だけを責め続けていた事に気がついた。ずっと人の所為にして、娘と向き合う事を避け続けていた。もう、妻を解放しよう。そして今度こそ娘と向き合おう。そう思って久しぶりに娘に面会した父親は、落ち着いた様子の彩菜に驚いた。

 ドリルが一冊終わっている。薬も減って、深夜覚醒の回数も減ったと聞いた。フラッシュバックによる混乱は、一ヶ月以上起きていないという。最近友達が出来て、笑うようになった、と教えて貰った。

 これなら彩菜との関係を元に戻すのも早いかもしれないと思った父親は、この後、絶望した。


「お父さんとお母さんは、別々に暮らす事になった。彩菜は退院したら、お父さんと暮らす事になる」


 出来るだけ優しくそう言った父親は、娘が強い拒絶を示す事を予想していなかった。


「……い…………や……」


 絞り出す様に呟いた声に強い罪悪感が湧く。フラッシュバックを起こした時には辛抱強く話を聞くべきだった事を後で知った。

 娘が犯罪者に暴行された詳細を聞きたくないという理由だけで、あの時彩菜の話を聞く事を拒否した。今度こそ何が起きても向き合おうという強い感情を嘲笑う様に、彩菜は自分の皮膚を掻きむしり始めた。

「待って、彩ちゃん」

静止する母親を振り切って自分を傷つけ続ける娘の姿。けれど、その姿を見て妻が先に壊れた。

「彩ちゃんが……っ、ごめんなさい、ごめんなさい」

慌てて彩菜を止めようとした父親の手を振り払い、彩菜は叫んだ。

「殺される! 汚れてるから殺される!」

そう叫ばれた瞬間、娘が自分を拒絶したと、父親は思った。


 受け止めようと思ったのに。

 受け入れようと思ったのに。


 動悸と眩暈で身体を支えられなくなった妻を支えながら病室のナースコールを押す。慌てて入ってきた看護師が男だった事が、彩菜の混乱に拍車をかけた。


「いやぁぁぁぁぁぁぁーーっ!」


 目の前で蘇る悪夢。やはり娘は狂ったままだった。抑えようとした看護師の腕を噛んだ瞬間、父親の中で何かが壊れた。

 元はといえば、娘を壊したのは、あの猟奇犯罪者だ。私じゃない。私じゃないのに、どうして全てを負わなければならないのだろう。娘も妻も守れなかった私が、どうやって二人を救えるというのか!

 暴れる娘に背を向けた。もう限界だった。必死に守って来たものを、ある日突然滅茶苦茶に壊されて、どうやって組み立てなおせというのか。


 だから、苦しかった。


 彩菜と同じくらいの歳の子供が、背後で叫ぶ。

「彩菜が、呼んでいます!」

震える体で引き返そうとする妻を叱った。

「行っても何も出来ないと言っただろう。まだ分からないのか!」

力なくうなだれた妻を引きずって、病院を出ようとした。

「子供が呼んでいるのに、どうして戻ってあげないんですか!」


 ーーーー憤りに、理性が切れた。


「小娘に何がわかる!」


 戻っても何も出来ない親の気持ちが、子供に理解(わか)るか!

 娘を守る事も抱き締める事も出来ない父親の気持ちが、子供に理解出来るというのか!


「自分の子供を見捨てるのか!」


背後からの問いかけに、答えなど持ち合わせていなかった。


「見捨てるのかって聞いてるんだよ!」


もう、昔には戻れない。今あの病室に戻っても、暴れる娘を止めてあげる事も出来ない。


「要らないなら……」


 正面玄関を抜けて外に出た父親の背中に、少女の声が刺さった。


「要らないなら子供なんか作るな!」


 振り切るように車に乗り込み、病院のエントランスを抜ける。


「産むなって言ってるんだよ!」


 戻れるのなら、あの事件の前に戻りたい。それまで彩菜は世界中で一番大切な娘だった。


「ーー捨てるくらいなら、産むな!」


 今は、もう、よく良く分からない。


 無力感に押し潰されそうになる心をどうにか支えながら、彩菜の父親は病院を去っていった。

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