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悲劇の始まり

 憂鬱な気分で閉鎖病棟に戻った花音を待っていたのは、保護室の扉だった。物々しい鉄の扉の向こうに、彩菜はいた。面会することは出来ない。本来であれば個人情報として教えてもらえるはずのない情報を、花音は笹井から説明されていた。


「さっき、彩菜ちゃんの御両親が面会に来て、彩菜ちゃんのお母さんの病気が悪化して環境を変える様に言われたんですって。それで、御両親は離婚して、お母さんは実家の群馬に戻って、彩菜ちゃんの親権はお父さんが持つことになったって、今……」

突然の話に、花音は大声を上げた。

「そんな…………っ!」

花音の脳裏には、夕景の中、走り去る黒い車が目に焼き付いている。冷たい背中を思い出すだけで、怒りが沸く。冷徹な父親だ、と、花音は思った。同じく娘を捨てるとしても、みすぼらしくくすんだ自分の父親の背中の方が、よほど人間らしく見えた。

 あの背中を見てしまったら、花音だって責める気にはなれない。田舎で職を失い都会に出てくるしか選択肢の無かった自分の家の状況も、母親の死も、花音は知っていたから。限界を通り過ぎても毎日働いて花音を養うと言う義務を、父親は捨てていない。多分、同じように詰ったら、お父さんは困るだろうと花音は知っている。毎日の生活に擦り切れてしまっている父親を責める気になど、花音にはなれなかった。

 一緒にいてくれることを狂おしい程強く求めている彩菜の気持ちが、花音には痛い程分る。そしてあの冷徹な背中に訴えるべき声を失った気持ちも、同時に理解出来た。あんなに硬く拒絶されてしまったら、自分の事を卑下する気持ちも、わかる。

「――納得いかないのは、私も同じよ」

笹井が珍しく饒舌に話した。

「けれど、彩菜ちゃんのお父さんの選択は、ある意味一番妥当なの。病気の娘を看病することの出来ない母親に親権を渡せるわけがない。自分の生活ですらままならないのに」

笹井の話は大人の理屈だ、と、花音は思った。あんな冷たい父親の元に戻って、彩菜が幸せになれるとは思えない。

「彩菜だけじゃなく、お母さんまで捨てるって事でしょ!」

笹井は、目を伏せた。


 ――限界なんです。


 黒い背広の背中が少しだけ震えていた。彩菜との面会を前に面談室でそう吐露したのは、彩菜の父親だ。


「彩菜を元に戻す事も、妻を支える事も出来なかった。事件が起きた当時、私は妻を責めました。どうしてきちんと彩菜を見ていなかったのか、知らない人についていかない様に言い含めなかったのか、と」


 『連続少女誘拐殺人事件』


 二年前から続く、彩菜とその家族の悲劇の始まりは、彩菜を騙して連れ去った男の狂気から始まった。同じ県内で続いて三人の少女が誘拐された。被害者はいずれも小学生の女児。三人目の被害者の名前が、三井彩菜だった。

 帰らない彩菜を心配し、警察に連絡をした三井夫妻がもう少し待つ様に説得されていた時、彩菜はもう一人の少女と共に縛れていた。


「お前もこうなるから、良く見ておけ」


 そう言いながら男は彩菜ともう一人の少女の前で、先に監禁されていた女児を犯した。泣き叫ぶ女児は当時、小学校五年生だった。逃げようとすると長い髪を引っ張られ、頬を打たれた。女児が滅茶苦茶に組み敷かれ、男に暴行される一部始終を見せられた彩菜達は、更に衝撃の瞬間を目の当たりにした。


「汚れたものは、生きていてはいけないんだ」


 暴行された少女は、彩菜達の目の前で惨殺された。


 次に手をかけられたのは彩菜だった。縄を解かれ体の上にのしかかられて、服を破かれた。抵抗する気力は、先程の恐ろしい光景に飛んでいた。どうせもう、殺される。彩菜には諦める事しか出来なかった。

 彩菜が感情を押し殺したのと反対に、もう一人の女児は狂ったように叫んだ。


「助けて! 助けて! 殺される!」


 その声に我に返ったのは、彩菜の方だった。

 

 だめだ、帰らなきゃ!

 家に帰らなきゃ!


 とっさに彩菜を離して少女の口を塞ぐ男から、彩菜は逃げた。

「待て、コラ!」

捕まえようとした男の腕に、思いっ切り噛み付いた。怯んだ男の手を払って、出口に走った。

「ふざけるな、殺してやる!」

男の追いかけてくる声が頭の中に響く。ドアの鍵を開けて外に出ると、引き戸に棒をかけた。そのまま裸足で外を走る。

 そこがどこなのかわからない。男がいつ追いつくのかも。宵闇の中薄暗い林の中の道を必死に走った先の道路に、ちょうど一台の車が通りかかった。

「助けて!」

 彩菜を保護した年配の夫婦は、警察に通報した。三十分後、彩菜は警察に保護された。連絡を受けて現場に向かった警察官の見たものは、暴行後切り刻まれた二人の少女の姿だった。


「事件後、どこで聞きつけたのか、彩菜の話を聞きたいと言う報道関係者が押し寄せました。彩菜は自分が見殺しにした女の子の事で自分を責めていて、部屋から出られなくなっていた。やっと学校に行くと言ってくれた時、私達は喜びました。けれど、それからが辛かった」


 彩菜の父親の押し殺した表情に、後悔が滲む。 


「フラッシュバック、と、いうものなんでしょうか。夜にうなされて大声を上げたり、いきなり私の手を払いのけたり。最初は仕方がないと思っていたのですが、そのうち聞きたくもない事を何度も言うようになって……」


 ――お父さん。知らない男の人が私にのしかかって、身体を触ったり、痛い事をしてきたの。やめてって言ってもやめてくれなくて、良く見ていろって何度も……


「やめろ! と、言ってしまいました。聞きたくなかった、聞きたい筈がない! 忌まわしい。殺してやりたい。あの男……っ」


 それが更なる悲劇を招いたことに、この時、彩菜の父親は気が付いていた。

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