捨てられた子供
花音は直ぐには状況を理解出来なかった。彩菜が発作を起こした場合についての対応は、笹井から聞かされていた。けれどこの惨状には結び付かない。
『彩菜ちゃんは発作が起きると混乱で人を傷つけたり自分を傷つけてしまったりするの』
二人の看護師が小学六年の少女一人を取り押さえるのに苦労している。
『男の人に近寄られたり触れられたり、後は髪の毛に触れられたり、特に引っ張られたりすると、嫌な事を思い出してパニックになってしまうの』
彩菜が甲高い声を張り上げて、必死に何かを叫んでいる。
『近づいた人に噛み付いたり蹴ったり、自分の皮膚を血が出るまで掻きむしったり……』
自分を傷付けずにはいられない気持ちは、花音にも解った。
『色々検査もしたけれど、子供の症例は少なくて。なかなか有効な治療法が見つからないの。原因は一つではないのだとは思うのだけど。何か彩菜ちゃんなりの理由があるのだろうけれど、正直全部憶測でしかないわ』
長い髪を振り乱し叫ぶ彩菜の声を、花音だけが聞き取った。
「止めて!」
弾かれた様に花音は、開いたままだったエレベーターを閉めて階下へ降りた。
ーー彩菜が止めたい人は、きっと、さっきの人達だ。
彩菜の部屋に置いてあった、伏せた写真立ての中の幸せな家族。あんな暗い表情でなければ、多分もっと早くに気が付いていた。彩菜はきっと、両親に何かを伝えたかったに違いない。全部憶測でしかないけれど。
エレベーターで一階に戻ると、正面玄関に向かって走る。今日は入院費を払う日だから、きっとすぐには帰らない。花音の読み通りに先程の夫婦は正面玄関を出る直前だった。
「三井さん!」
正面玄関の二重の自動扉の手前を開けたまま振り返った夫妻が、花音を見て、あからさまに困惑の表情を浮かべる。花音は、自分の勘に賭けた。
「彩菜が、呼んでいます!」
明らかに動揺し引き返そうとする彩菜の母親を、気難しそうな父親が止めた。
「行っても何も出来ないと言っただろう。まだ分からないのか!」
怒号に近い声に、花音は一瞬固まった。
ーー子供が呼んでいるのに、傍にいる事もしないのか!
「帰るぞ」
そう言って背を向ける男の背中が、自分の父親の背中に見えた。くすんで、くたびれて、父親である事を放棄している、自分の父親に。花音は怒りをぶつけた。
「子供が呼んでいるのに、どうして戻ってあげないんですか!」
振り返った男は、怒鳴った。
「小娘に何がわかる!」
ーー怒りに頭の中が、真っ赤になる。
踵を返した男は、困惑する彩菜の母親の手を引いて外へと進む。彩菜を見殺しにして逃げる男の背を睨んで、花音は叫んだ。
「自分の子供を見捨てるのか!」
花音の叫びに、男は振り返らない。
「見捨てるのかって聞いてるんだよ!」
何度も振り返る母親を引っ張って、足早に去って行く。
「要らないなら……」
一度閉まりかけた正面玄関の自動ドアまで走った花音は、エントランスから駐車場へと進む後ろ姿に、もう一度叫んだ。
「要らないなら子供なんか作るな!」
黒塗りの重厚なドアをバン、と、閉めて、エンジンをかけた男は病院のエントランスを走り抜けた。花音を、彩菜を、無視する様に。
「産むなって言ってるんだよ!」
夕暮れの強い光を反射した車の窓ガラスが、正面玄関前のガラスに光を反射させて眩いオレンジに染める。車の中の人の顔は見えない。いつも、いつも子供だという理由で、大人は自分達の都合を優先させる。
今、苦しんで傍にいて欲しいと思っている子供の心などお構いなしだ。
「ーー捨てるくらいなら、産むな!」
怒りに真っ赤に染まっていた視界は、走り去る黒い車と共に夕暮れに染まった。視界がぶわりと涙で歪みそうになるのをどうにか堪えた花音は、吐き捨てる様に呟いた。
「父親なんて、どれもクソだ……」
ずっと、ずっと私達は。
精一杯の虚勢を張って、どうにか頑張ってきた。でも、もうあんな男達の子供でいるのは限界だと花音は思った。
大人であっても誰もが完璧な人間ではない事を、彼女達は知らなかった。