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くすんだ背中

 彩菜の朝は遅い。


 夜は眠れない事が多くて、朝は怠さが残っている。低気圧が近づいている時や、天気の悪い日は殊更朝が辛い。最近は薬が減った所為か、花音と友達になったお陰か、少しは良くなっていた。

 病院というところはとっても旧時代的で、看護師さんが朝から部屋に薬缶に入った煮出したてのお茶を配りにくるけれど、番茶なので特に飲みたいと思わない。コーヒーや紅茶や緑茶ではお薬を飲む時に問題があるらしく、選択肢は皆無だ。彩菜は番茶が好きじゃない。だから配茶は断っている。

 燕尾服を着た執事が淹れたての紅茶を部屋に運んでくれて起こしてくれたら、もう少し爽やかに目覚められるのに。冗談でそう言ったら『そんな病院あったら私も入院する!』と花音が笑った。

 朝食後は、一応勉強をしている。学校には行けないけれど、勉強する事は嫌いではない。最近は花音と一緒に勉強をしているので、勉強が更に楽しくて仕方がない。

 日中起きている時間が長くなった所為か、夜眠れない事も減ってきた。父親の事を花音に打ち明けて以降、彩菜は少しずつ子供らしさを取り戻していた。

 子供は、家庭、学校、地域のいずれかに居場所を持っていた方が自尊感を高めやすいと言われている。花音にとっても、彩菜にとっても、互いが学校にも家庭にも居場所がない互いの居場所だった。

 いつの間にか彩菜は花音が面会に来てくれるのを心待ちにするようになっていた。


 花音の朝は早い。


 朝六時起床。ご飯の準備に昨日のお風呂の後の掃除と洗濯。お母さんの洗濯物は前日に洗って干しているけれど、天気の良い日はベランダに干しなおす。こうしておくと天気が良ければ登校前にカラリと洗濯物が乾く。小さなお風呂を洗いながら、下洗いの必要なものは一緒に洗う。下洗いをしておくと、洗濯機を回した後に余計な手間がかからない。

 最近家に帰ってくる時間が遅いので、煮物などは夕食の時に作っておくけれど、簡単なものはまとめて朝に作ってしまう。大きなフライパンの右と左で違うものを焼いたりすれば、結構簡単におかずを作ることが出来る。前日にランドセルに今日の授業の物は入れてあるので、後は布団を畳んで掃除をして、お父さんを起こす。


 父親の生活は、母親の事故後もあまり変わらない。


 七時に起床。洗面、着替え、朝食、出勤。この間三十分。後片付けも掃除も全部、花音がする。帰ってきてもご飯を食べてTV見て寝るだけの父親は、特に花音を気にして話しかける事もない。


「行ってくる」

「行ってらっしゃい」


「ただいま」と「おかえりなさい」を互いに言えない事の多い二人の会話は、基本的にはこれだけだ。

 

 どうしてこんな事になっちゃったんだろうな、と、思う暇もなかった。毎日の生活を続ける事に精一杯だったのだ。母親の入院当初は、何度も病院から連絡があった。そして花音はその度に、自分が子供である事を嫌という程思い知らされた。


「花音ちゃんーーお父さんは?」


 夜道を必死に走って行った先で待ち受ける、決定権のない無力な子供という現実。病院から渡されるあらゆる書類に名前を書く事が出来ない花音は、父親に電話をするか、書類を家に持ち帰るしか出来なかった。検査の説明同意書から手術同意書、高額医療費の申請に至るまで。辞書を片手にネットやパンフレットで必死で調べて、父親から書類に判子とサインをもぎ取る日が続いた。

 そのうち氏名欄に父親の名前のゴム印を押し、三文判で必要書類を持ってくる様になった花音を、誰も責める事はなかった。父親は殆んど花音の母親の面会に来る事はなかったし、病院と関わる事を苦痛に思っている様に見えた。

 花音はいつも一人で対応する必要があった。深夜に不意打ちでかかってくる電話にも。


「お母さんが、急変しました」


 最初は些細な病状の変化にも驚いて病室の前で混乱したまま蹲っているしか出来なかったのに、最近は滅多な事では電話も来ないし、父の事で何かを聞かれる事もない。同じ部屋に住み最も遠い人、それが花音にとっての父親だった。


 昔は、と、思う。


 昔は家族らしく日曜日に出掛けたり、キャンプをしたり。こんな無関心じゃなくて、口数は少ないけれど色々話も聞いてもらっていた。お母さんが家の中のムードメーカーだったけれど、お父さんも家族の事を考えてくれていた。

 花音は脱ぎ散らかされた父親の靴下を摘んで、洗濯機に放り込む。それは母親が毎日のように文句を言いながらしてきた事だ。


「お母さんを殺した私は、もうお父さんの子供じゃないって……事だよね」


 花音は、本当はずっと、息が詰まりそうだった。


 放課後、家に帰ると母親の洗い替えを持って病院へ向かう。蝉の声がうるさいくらいにして、ゆらゆらと陽炎が見える程暑い。夏休みの近づいた街は楽しい予感で、なんとなくざわざわとしている。花音にとっても今年の夏休みは特別だった。

 病院の正面玄関を抜けるとクーラーの冷気に包まれる。まとわりつく様な湿気から解放されて、花音は少しさっぱりとした気分になった。ここに来てしまえば、自分を避けて話されるたわいもないお喋りに傷付く事がない。

 夏休みの予定という名の、心のおもり。家族と旅行の予定を話す級友の前で、上手に笑える自信はなかった。けれど、今年は一人じゃない。

 病室へ入ると母親に挨拶だけして洗濯物を回収した花音は、別棟のエレベーターへと向かう。あと一週間で一学期が終わる。夏休みになったら彩菜の所に朝から遊びに行ける。

 最近の彩菜は少し元気がない。私と同じ様に夏休み前病かもしれない。何か彩菜が気の晴れる事をしてあげたい。そう思いながらエレベーターを待っていると。


 ーー泣いている女の人と、怒っている男の人。


 誰かのお見舞いかな?


 そんな事を考えながら閉鎖病棟に上がると、目の前には信じられない光景があった。

「足! 抑えて!」

ざわざわとホールがざわめいている。強い西日の差し込む窓の前で、真っ白なワンピースが乱れていた。


 ーー彩菜の発作だ。


 強い西日がホールに伸びて、彩菜の顔が見えない。真っ黒な影が三つ、影絵のように形を変える。


 花音は立ち尽くす事しか出来なかった。


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