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雨の日の約束

 花音にとって、洗濯物が乾かないという事は死活問題だ。田舎から持ってきた古い全自動の洗濯機には、乾燥機能がついていない。一年の間で使えなくなってしまったバスタオルを買い足すこともしていないから、病院に洗い替えを持っていくのに困っていた。


「じゃあ、お父さんにバスタオルを買ってもらったらいいんじゃないの?」

気軽にそう言ったのは彩菜。以前なら誰にも相談できなかった事を話せる人がいるのは、本当にありがたい事だと花音は思った。

「お父さん、毎月生活費を私に渡してくれるんだけど、どんなものをどこで買ったらいいのか悩んでいるの」

 花音はこの街に慣れていない。

 車が無いと郊外の大きな量販店には行けないし、駅前は値段が高い。家にはパソコンがあるけれど、一年以上もメンテナンスしていないので、ネットショッピングを使えるかどうかわからない。誰かの出産祝いに貰ったバスタオルがあったような気がするが、どこにしまってあるのか解らない。

「花音の家から歩いて行けそうなのは、東町にあるショッピングセンターかなぁ」

そう言いながら彩菜は手を引いて病室の窓から見える鳥のマークを指差した。

「本当だ……近いかも」

「うん、近いかも」

繋いだ掌から伝わる体温が心地良い。


 誰にも抱きしめてもらっていない。

 頭を撫ででもらって褒められることも、頬を叩かれてしかられることもなかった。


 一年間の間で思い出すのは父親の辛そうな顔と疲れた顔と、くすんだ背広の背中だけ。シャツにアイロンをかけることもせずに、くしゃくしゃのシャツによれよれのネクタイをして、お父さんは毎日会社に行く。本当は日曜日に言っている場所が会社じゃない事も判っている。朝から晩まで、ずっと、パチンコだ。


 だから花音は、父親には何も相談できなかった。

 くすんだ背中がずっと、自分を責めているような気がして。


「うん。そう思うよね」

初めて打ち明けた母親の事故の話を、彩菜は優しく聞いてくれた。それからずっと、父親に無視されている事も。

 学校の同級生には絶対言えなかった。けれどどこかでバレているだろうと思っていた。三者面談にも授業参観にも父親が来ない。その事実が揺らがない程、見えない壁は厚くなった。

「――つらい、ね」

彩菜も、同じだった。

「私も、お父さんに嫌われているの。お父さんは私を、私を…………」

彩菜はそこで、突然泣き出した。

「汚いって、お……おもって、る」

「彩菜!」

泣き出した彩菜を、花音は抱きしめた。お母さんだったらきっとこうするだろうと思ったから。

「汚いの、わたし……きたないの」

腕の中で身を捩る彩菜を、花音は強く抱きしめた。

「そんなことない」

どうして、汚いって思うのだろう。けれど花音はそれを彩菜に聞く気はなかった。彩菜の心の奥に誰にも触れることの出来ない大きな傷があるのは気が付いていた。お互いに子供でいられる状況にない事は感じていた。だから、彩菜が弱さをさらけ出してくれたことを、花音は嬉しく思った。

「離して、花音まで汚れちゃう」

彩菜に優しく言い聞かせるように、花音は耳元で囁いた。

「たとえ世界中の人が彩菜の敵になっても、私だけは絶対に友達でいる」

動くのを止めて驚いて花音を見返した彩菜に、もう一度花音は約束した。

「彩菜は、一人じゃない」

反射的に彩菜は反発した。

「だめ、ちがう……」

嬉しかった。けれど、花音を信じて裏切られる方が、怖かった。もしくは母親の様に、自分の所為で花音が壊れてしまうのが怖かった。真っ暗闇に真っ白な糸が降りてきた様だった。この地獄から出るために掴みたいけれど、切れるのが怖い。


「一人じゃない。私が絶対に一人になんて、しないから!」


 花音は言い切った。優しい笑顔で。花音は自分が欲しかったものを彩菜に与えたいと思った。自分と同じくらい、いや、自分以上に傷ついている彩菜を救う事で、自分も救われる気がした。


「うん…………」


 やっと。

 やっと白い糸を掴んだ彩菜は、声を殺して泣いた。その姿を見た花音も泣いた。互いを庇護してくれるのは互いだけ。肉親であっても守ってはくれない。


 部屋の外で会話を偶然聞いてしまった笹井は、そっとドアの隙間からその様子を覗いた。雨で薄暗い部屋の中で互いに互いを支えて泣く、二人の少女を。


「――泣くとこ、無かったんだなぁ」


 そんな事にも気が付かなかった半年前の自分に少し呆れながら、笹井は部屋の前を離れた。


「彩菜ちゃんは発作も殆ど無くなって、薬も減薬出来て」

そう言いながらぐびっと酎ハイを飲む笹井に、

「花音ちゃんも笑顔が増えて、順調に友情を育んで」

そう言ってハイボールを煽った飯田が続く。

「良き事かな」

「良き事であろうぞ」

互いに相槌を打って微笑むと、二人はもう一度乾杯をした。梅雨明けの空は快晴。どうやら花の四十五歳コンビの不安は杞憂だったな、と、共に笑う。大衆居酒屋の飲み放題のメニューを見ながら、高い酒がないとケチをつける飯田に笹井が笑った。

「元が取れない飲み放題なんか設定する訳ないじゃない、このザル!」

「弱いくせに酎ハイ一気なんて急性アルコール中毒まっしぐらですよ下戸先輩!」

三歳の年の差を超えての付き合いは、もうそろそろ五年目になる。

「どうなのよ。5西の新人。飯田の新人の頃よりはまともだろうけどね~~」

現在新人指導に当たっている飯田は、深い溜息を吐いた。

「清拭タオルが絞れないレベルの生活力の無さですよ……花音ちゃんの方がしっかりしていますね」

そう言った飯田の顔を、珍しく真剣な面持ちで笹田が見返していた。


「しっかり、しすぎているのよね……」

その意味を問わなかったことを、飯田が悔いる羽目になるとは、この時は思ってもみなかった。


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