友達という存在
「花音ちゃん。最近、いいことあったの?」
飯田さんにそう聞かれて、花音はふふふと微笑んだ。
「うん」
それだけ言うと、花音は足早に母親の病室を去る。そんな花音の背中を、病棟師長の江田が心配そうに見つめていた。
「――疲れて、しまうわよね」
誰とはなしに話しかけると、山口という看護師が答える様に呟いた。
「で、しょうね」
四十五歳の江田と山口は、互いに同期だ。江田は独身、山口は三児の母。看護学校の同級生で、気心が知れていた。意味が解らず、ぽかん、とした飯田に、山口が困ったように微笑む。
「うちの甘ったれの末っ子と花音ちゃん、同い年でね。自分が倒れたら娘はあんな感じになってしまうのかと思うと、ね」
一年前、蒼白な顔の花音に、母親に話しかけることを提案したのは、江田師長だった。
「私が、追い詰めてしまったように思えて」
物言わぬ母親に語りかける花音の声から、少しずつ希望の光が消えてゆく。その事を感じれば感じる程、江田も山口も追い詰められた。
「笹井、なんて?」
山口は飯田に問う。笹井は半年前まで療養病棟に配属されており、飯田の指導係をしていた。今も二人はメールで連絡を取り飲みに行くほど仲が良い事を、病棟の誰もが知っている。
「――二人とも、楽しそうだ、って」
江田は、自分の顔を両手で覆った。
檻の中のお姫様は、二年前に措置入院で閉鎖病棟に入院した。
当日救急指定日の当直だった江田は、少女の年齢と所業に驚いた。交差点で接触した青年に噛みつき、その後も制止しようとした男性二名に噛みつき、興奮して収まらない、と。真っ白な服に所々血の沁みをつけた少女は、白い薄汚れたウサギのぬいぐるみを奪おうものなら噛みつこうとし、拘束されての来院だった。真っ赤に充血した白目に、梳かしていない黒髪。しかし真っ白な肌に整った顔立ちが、仄かに色香を滲ませる。
彼女のカルテは院内にあった。誘拐監禁によるPTSD。髪に触れるとフラッシュバックが起こるらしく、洗う事もままならない。事件後監禁状況を聞き取りに来た刑事に噛みつき、以降登校拒否。しばらく心療内科に通院していたものの、ある日を境に通院を拒否するようになった。
その日、家を抜け出した少女は、交差点で暴れた。
似たような苦しみを抱える者同士は引き合うのだろうか。この出会いがあの子たちに良い作用を与えてくれたら良いのだけれど。
「どちらも、救われればいいのだけどね」
そう呟いた江田に、山口は言った。
「大人が助けてやらなきゃダメに決まっているじゃないですか。あの子達は――まだ、子供なのだから」
けれど、二人の思いはこの時点で、花音と彩菜に届く事はなかった。
花音は、久しぶりにたくさん人と話した。
ゴールデンウィークは殆ど彩菜の病室で過ごした。家にはお母さんの洗濯と、ご飯の準備と寝るために帰るだけ。彩菜の部屋は物が豊富で、最近全然暇がなくって聞けなかったアイドルユニットの新曲や、読んでいなかった漫画も一気読みできたし、何より。
――初めて、友達と呼べる存在に出会った気がした。
前の町では気心の知れた幼馴染みといつも一緒にいて、毎日遊び回っていた。幼馴染の信明と里奈とで炭鉱跡地に行った時などは、帰り道がわからなくなって、皆で泣いたこともある。
そう、あの時、お母さんが私達を見つけた。
そこまで思い出して、花音は、それ以上思い出す事を、やめた。最後には、お母さんがもう、目を覚まさない事を、思い出してしまうから。
別棟の中庭は、草が伸び放題の無法地帯。病院の前庭は綺麗に整えているのに。窓から見える光景が殺風景過ぎて、ちょっと潤いがないな、と思う。そして、ああ、と思った。
ずっと、ずっと、そんな事に気が付く余裕も無かった。
お母さんのいない部屋は、小さくて殺風景だ。毎日掃除と洗濯と炊事をしているけれど、台所の上の棚には手が届かないし、冷蔵庫や棚を動かして掃除する事も出来ない。寝たきりになったお母さんは、時々たくさんバスタオルやパジャマを汚す。栄養がうまく取り込めないと下痢をして洗濯物が増えるのだと、飯田さんが教えてくれた。
以前の様にお菓子を一緒に作る事もなくなった台所からは、もう、甘い匂いはしない。三人でご飯を食べていた食卓も、今は殆ど私の机になっている。
漠然とした『寂しい』が形になっていく事に、花音は少し安心した。
――私、壊れそうだったんだ。
感情というものが抜け落ちてしまったように、ただひたすら宙を見ている人が存在する奇妙な空間。それが花音の閉鎖病棟に対する感想だった。多分自分もあと少しで、あんな風になっていたに違いないと思う。一年の間、笑ったり泣いたりする気持ちが、どんどん心の中から減っていっている事に気が付かなかった。抑え込んだ感情は重くて、息をするのも辛かった。
彩菜も、同じだった。同い年の友達と普通に話すことが出来る幸せ。そんな幸せを二年間も失って、ずっと檻の中にいた。
二人は急速に距離を詰めていった。まるで世界中にお互い以外信頼できるものが無いかのように。それが後で大きな問題になる事を、この時、誰も気が付いていなかった。