序章 助けを呼ぶ声
――――お願い。
誰も私に近づかないで。
誰も目を合わせないで。
自分が狂っているの、わかっている。
おかしいってわかっている。
私を見つけようとしないで。
私を閉じ込めようとしないで。
悪夢のような『あの瞬間』から、私の毎日は変わってしまった。
信号が赤から青に変わる。
たくさんの人が、交差点を行き交う。
お願い。
私に触れないで。
『お母さんが事故で入院したんだ。誰も迎えに来られないから、僕が代わりに迎えに来た』
知らない男の人だった。けれど、お母さんの事を良く知っていた。
『さあ、病院へ送っていくから、乗って?』
親切そうな笑顔だった。腕を掴まれたりもしなかった。何も強制されなかった。だから、優しい人なんだと思った。
大人の笑顔の裏に何があるのかを小学生が見抜く事なんて、不可能だと思うのに。
久しぶりに通学した教室では、酷い噂が広がっていた。
『あっさり騙されるなんて、ただのバカよ』
TVの批評家は、お父さんやお母さんを責めていた。
『親は、子供に危険について、普段からきちんと説明する義務があります』
お父さんは、お母さんを責めた。
『お前の所為で、彩菜がキズモノに!』
親切を装って噂話を撒き散らす人達や、何かが起きた後に批評家ぶる人達。それがどれだけ人を傷つけるのか、誰もわかっていない。今、醜聞だと部屋に閉じ込められ、どこにも行き場のない私は、どうしたらいいと言うのだろう。
『お願い。お家にいてね。彩菜。家の中なら安全だから』
そう言ったお母さんの心が壊れかけている事がわかる。
――だって、私も同じだもの。
だから、突然部屋に入ってきた暗いスーツの男の人を見た瞬間、私は壊れた。
『帰って下さい! 彩菜をこれ以上苦しめないで!』
お母さんの声で我に返った時には、私の口には血がついていた。黒いスーツの男の人の手の甲には。
……噛み跡。
それから、何度も病院に連れて行かれ、絵を描かされたり、くだらない質問をされたりした。
『大丈夫。根気よく続ければ、傷が癒える時が来るよ』
大人は勝手だ。
私が壊れた事を知って、学校の先生やいろんな大人が謝りに来た。元に戻らない私を憐れめば、それで許されるのだろうか?
子供は勝手だ。
家のポストに消印無しで投函された手紙には、へたくそな字で謝罪の言葉が書かれていた。心なんてある訳ない。親の命令と良心の呵責から逃れたかっただけだろう。自分はちゃんと謝った、と。
私に謝った人達に聞きたい。
苦しみの中で未だにもがき続けている私に、更に「謝罪を受け入れる」という苦痛を強いて、満足ですか?
同じ泥沼の中でもがき続けるお母さんと、そのお母さんを更に泥沼に突き落とすお父さん。
誰かが、私に『普通の生活』を返せるんですか?
私の存在など無視したまま、今日も街は余所行き顔。面倒くさそうな事柄にわざわざ頭を突っ込む人間などいない。何千人、何万人の人間が私を通り過ぎただろう。けれど誰もおかしいとは言ってくれなかった。
人が行き交う交差点で、私の周りだけ人が寄り付かない。真っ白なパジャマに、素足。梳かしていない長い黒髪に、口の周りには、さっき人を噛んだときについた血の跡。何日も食事を食べたり食べなかったりで、顔色は青く、爪の間には、自分の皮膚を引っ掻いた残滓が埋め込まれている。
目を合わせる人間も、近づいてくる人間もいない。
存在しない事にした方が、きっと楽だから。
無関心なまま通り過ぎた方が、きっと、楽だから。
けれど、ゲームをしながら歩いていたらしい男の人が、私が避けたにも関わらず――ぶつかってきた。
――目の前が、真っ赤に塗りつぶされた。
まだ肌寒い早春の街。昼下がりの交差点の横断歩道の上。春物のコートの襟を立てて人々が歩く中、一人の少女が叫んだ。スマホでゲームをしていて少女の存在に気が付かなかった青年が腕を噛まれ、悲鳴を上げる。
青年が驚いて見た少女の瞳は、充血して白目が真っ赤になっていた。
恐ろしさに腰を抜かして座り込んだ青年を尚も噛もうとする少女を、何人もの大人が抑え込もうとした。しかし手負いの獣のような勢いで、取り押さえるのが容易ではなかった。手荒に拘束しようとした若い男を諌めた壮年の男の腕に噛みつき、駆け寄った数名が軽傷を負った。
小さな獣に驚愕した大人たちの中で、彼女の本当の声を拾えるものはいなかった。
彼女は、ずっと、叫んでいたのに。
『誰か、助けて!』
声は、誰にも届かなかった。