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【短編集】灰の降る街で

リーマンの絵に描いたような夏休み

作者: 餅角ケイ

 古きよき日本の夏。


 やる気を奪っていくような暑さも、TPOをわきまえずに鳴き散らす蝉の大合唱も、お中元のせいで食事の度に付き合わされるそうめん苦行も、全てが"風物詩"となって空間に上手く調和してしまう。


「んまぁい!」

 こんなに元気な声を上げたのはいつ以来だろう。

 丁寧に切り分けられた白桃をフォークで口の中に運ぶと、たちまちリーマンの口にみずみずしさが満ちあふれた。渇ききった粘膜を潤す果汁の洪水が喉を伝って、束の間の涼しさを体に運んでくれる。ああ、縁側で夏の甘味を頂ける幸せ。定番のスイカもいいけれど、俺は桃のほうが好きだとリーマンは思った。お中元丸かぶり現象のせいで大量に送られてくる、歩兵と化したそうめんたち。その中からレアな果物ギフト(白桃入り)の箱を見つけたときの喜びときたら、計り知れない。


「美味しいかい」

「うん! ありがとね、ばあちゃん!」

 自分のために桃を切り分けてくれた祖母が現れたので、リーマンはハキハキと礼を言った。それに応えるようにして、祖母の人懐こい笑みが更に深みを増す。

 やがて全部を食べ終わり、リーマンは立ち上がった。

「ごちそうさま」

 再び礼を口にして、空になった皿を返却しようと台所に向かった。一方、今度は祖母が縁側で腰掛けている。どこか遠く、透き通った夏の空。何を考えながら眺めているのだろう。いや、何も考えていないのかもしれない。

 ふいに風鈴が踊った。


「ゆうちゃん」

 数歩離れたところで祖母に呼び止められたので、リーマンは皿を持ったまま振り返った。家の端と畳の上との、微妙な距離感が不自然に感じられる。

「何?」

「こんなに暑いのに、そんな格好でゆうちゃんは暑くないのかい」

「ああ、大丈夫だよ。ずっとこれを着ていたもんだからさ。この格好じゃないと落ち着かないんだ」

 長袖のワイシャツに、こめどなく汗が滲んでいくのを感じる。クールビズはせずにネクタイはそのままだ。下も黒のスーツであるから重苦しいといえば重苦しい。しかしリーマンにとってはこれが標準装備のようなものだった。堅苦しいネクタイをほどいてしまったときの方が、かえってそわそわする。

「そうかい」

 祖母は外の夏景色を見てから振り向いて、祖母らしく静かに呟いた。

「ゆうちゃんはこのあと、何をするんだい」

「このあと? そうだ、何だか困ってるらしいから、後で近所の子どもの夏休みの宿題を手伝いにいくよ。それからね」

 リーマンは少年のように目を輝かせ、祖母に向かって語り続けた。うん、うん、と言いながら温かい相槌を打ってくれる。

「明日からは、俺もラジオ体操しにいくんだ! ふふん、早起きは得意だから大丈夫。あとは、ラジオ体操から帰ってきて朝ごはんを食べてから、友達とプールにいく! ヒロくんっていう同い年の友達と約束したんだ。楽しみだなあ」


 そうだ! 気持ちが高ぶってきたリーマンは、あることを祖母に提案した。

「今度みんなで海にいこうよ。俺とばあちゃんだけじゃなくて、じいちゃんも一緒に。あと、ひいばあちゃんとひいじいちゃんも誘おう!」


 それはいいね、祖母が揚々としたところで、外から騒がしい声が聞こえてきた。子どもたちだ。

「おじさーん! わたしの工作手伝ってえ」

「おじさん、ぼくの自由研究も! カブトムシをもう一ぴきつかまえないといけないんだ」

 母親から貰った牛乳パックで何か作りたいと訴える子ども。カゴをぶらさげ、果敢に虫取り網を振り回す子ども。色々な子どもたちがいた。蝉たちにも屈しない程の活気が響き合い、祖母しかいなかった縁側が市場のような賑わいを見せ始める。あらあら元気だねえという平和びた彼女の声が、かき消されてしまうほどだ。

「おじさんもはやく来てね! 宿題うちんちでやるからー」

 言いたいことだけ言うと、子どもたちはコソドロのように去ってしまう。


「ああ、準備したらすぐに行く」

 畳の部屋から外へとありったけの大声を出して、リーマンは台所へ急いだ。まずは持っていた白桃の皿を流し台に置いた。それから玄関までひた走る。脈を打たない心臓が再び息を吹き返しそうな感覚。最高にうきうきしていた。急げ、急げ! 夏はあっという間に終わってしまう。面倒くさかった家の手伝い。ぎりぎりまで書かなかった絵日記。そのせいで毎年母親に叱られる。幼かったころの夏休みの記憶が、リーマンの脳内に呼び寄せられた。……なぜだろう? ガキの頃は嫌なことばかりだと思っていたのに、今となっては愛しい。愛しくて、とんでもなく価値があって、儚い。つまらない大人になってからは決して味わうことのできなかった黄金の夏。長い間忘れていた心の輝きを、まさに今取り戻そうとしている。生前、成人してからこんなわくわくした気持ちになることは、まずなかった。


 まさかこんなにも庶民的で情緒に富んだ天国があるなんて、思いもしなかったのだ。それに自分が天国へいけるとも考えていなかった。

 ーー俺が天に昇ったのならば、長きに渡って俺を貶め酷使してきた元上司たちは、いつか死んだとき地獄に落ちてくれるだろうか?


 己を戒めるために、リーマンは首を横に振った。

 いいや、他人の不幸について考えるのはやめよう。終わったことだ。無慈悲な考えがバレて地獄に落とされては困る。この夏が手に入るのならそれでいい。


 幸か不幸か、リーマンは一切の妻子を持っていない。これも糞のような会社に縛られ続けていたせいだ、運命の出会いとやらは遥か彼方の流れ星。かつての友とも連絡は絶たれてしまった。つまりは死んでも涙を流してくれる奴がいない。まだ生きている両親には悪いが、その為か下界にこれといった未練もなかった。

 だからこそ誓った。この地で最高の休暇を漫喫すると。夏休みと言われれば夏だけに夢中になっていたあの頃。体は戻らずとも心だけはやり直せる。絶対に謳歌してみせるのだ。短い社畜人生の果てに与えられた、騒がしい夏の休息を。


 リーマンは戸を大破する勢いで外に飛び出した。蝉の叫びは量を増し、一層やかましくなる。照りつける太陽の光はまだまだと猛威をふるう。

「よおおおおおおおし! 夏だ! 夏休みだーー」

 暑苦しい叫びに合わせて、中年リーマンの背中が遠く小さくなっていく。冥界の夏は終わりそうにもない。


 そして終わらない夏同様、相変わらず首に巻きついたままの深く痛々しい傷跡も、彼の首に在り続けるのだった。季節を問わず永久に。


 ーー風鈴が鳴く。


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― 新着の感想 ―
[一言] 怖いというより切なく、身にしみるホラーでした。 桃のおいしさ、子ども時代への憧憬がとてもリアルですね。
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