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あまごい  作者: 白石ひな
12/17

伊勢谷くんの彼女


 寝不足だ。ぼうっとする頭の片隅で、そう思った。


 鳴るはずがないとわかってはいても、私は昨日、ずっと携帯を気にしていた。ぼうっとして、特に何をするでもなく、でも伊勢谷くんの傘を視界に入れないために、玄関は通れない。だから部屋の中、ずっと一人で。


 そんな心境で、安らかな眠りにつけるはずもなく、時計も確認しないままにベッドで数度、寝返りをうつ。


 部屋は静かだった。だから携帯のバイブ音がしたならば、すぐわかるはずだと考えながら瞼を閉じる。だがしかし、いっこうに眠くならず、結局最後に確認した時計の針は3時半を指していたところだった。


 睡眠時間はいつもの約半分。それで眠くならないはずはなく、目をこすりながら改札に入る。そしてやっぱり今日も私は、伊勢谷くんと同じ時間の電車には乗らなかった。乗って、伊勢谷くんの口から「何か」を聞く勇気なんて、持ち合わせていなかったのだ。


 だけど、気になっている。聞いて、自分が傷つくというのはわかっているのに知りたがる私って、やっぱりマゾなのかな。


 そんなことを考えながら階段を駆け上がる。ホームについた瞬間に頭上に広がったのは雲一つない空。あまりにそれが綺麗すぎて、いっそ雨でも降ってしまえばいいのにと思う。でも、雨が降ったら降ったで、私はまた伊勢谷くんを思い出す。……いや、どっちにしろ考えてるか。


 ふうっと息を吐いて、視線を地面へと落とした。もう、空は見たくないと思いながら。





 「おはよ」


 下駄箱に着いたところで梓に声をかけられる。梓とは私が伊勢谷くんと同じ電車に乗るようになってから一緒に行っていなかったけれど、どうやら今日は同じ時間だったみたいだった。


 「うん、おはよ」


 「彩月、なんかあった? 今日、くまヤバイけど」


 梓はいつだって私の異変に気がついてしまう。そしてそれに頼りきって甘えて、ひとりで立つことができない私は、そんな自分が嫌だ。そう、思ったからかな。本当は、園ちゃんと伊勢谷くんのことを話した時点で梓はきっと全部お見通しだったんだ。いま私に「何」があったかも、全部。だけど私は、


 「ううん、ちょっと夜更かししちゃっただけ」


 なんてバレバレの嘘を吐いて、梓を遠ざけた。それが何の意味もなさないことを、わかっていながら。


 梓に私が今抱えているものを全部吐き出せば、楽になるのかな? そう、思ったけど、私は何一つ梓に言えなかった。


 私と梓は園ちゃんとも伊勢谷くんとも関係のない話をしながら、教室へと向かう。なんでもないような顔をして、へらへらと笑っていた私だったけれど、梓がドアを開けて、私もそれに続いて入っていったとき最初に目に入ったあの、ふわふわとした髪の毛に、思わず表情を固くした。でも、席につかないわけにはいかないし、幸い園ちゃんとは席が離れている。


 ごめんね、園ちゃん。

 そう思いながらも私は、必要以上に園ちゃんのことを見ないようにして席に着いた。


 だけど、


 「彩月、おはよう」


 頭上から降ってきた声は間違いなく、


 「あ、」


 園ちゃんのものだった。



 「うん、おはよ」


 私はどこに目線を定めたら良いのかも分からずに泳がせる。だけど園ちゃんはそのことに気がついていないのか、それとも気がついていてあえてのスルーなのか、言葉を紡ぎ始めた。


 「彩月さ、今日の放課後空いてる?」


 「え……」


 だめだ。まだ顔は見れない。

 だから私は園ちゃんの首元まで視線を上げた。


 「あのね、ちょっと話したいことがあるから……うん。みんながいなくなったあとの教室でもいいから」


 私は意外と冷静なのかもしれない。園ちゃんの懇願はあの時のようだった。


 「お願い、彩月」


 ――お願い彩月。

 その言葉がまた、蘇る。頭の中で幾度か反芻する。


 私の中ではかなり長い時間のようだったけれど、園ちゃんが次の言葉を発するまでのほんの少しの間だったらしく、私の時間が元に戻った瞬間にまた、園ちゃんの声が聞こえてきた。


 「話、聞いてくれない?」


 そうだ。いつだって園ちゃんはわかってるんだ、きっと。


 「うん、」


 私が頼まれて、断る勇気なんて、ないことも。全部。


 「わかった。じゃあ、放課後ね」


 「ありがとう」


 園ちゃんの声が木霊する。


 私は感謝されるような人間じゃない。どろどろで嫌な奴で。そんな自分が嫌だった。


 キーンコーンカーンコーンというチャイムの音がどこか遠くの方で聞こえた。私はぼうっとしながらも教科書を机に入れようと鞄に手をかける。この鞄に伊勢谷くんの傘が入っていたあの頃が懐かしい。そう思いながら空を見上げる。相変わらず空は、雲ひとつない快晴だった。





 授業には全くと言っていいほど集中できなかった。幸い今日は指名されることがなかったからよかったものの、数学なんかで指名されてしまっていたら大恥をかくところだっただろう。


 私は自分の席で足をゆっくりと揺らしながら空を見上げる。初夏、だからだろうか。日はまだ高い。


 教室にはもうすでに私1人だけで。園ちゃんは少し前に教室を出て行ってしまったようだった。


 ……なにか、緊張することでも、あるのかな。

 なんて思いながら、本当はわかってる。きっと報告だ。だとすれば私はどうしてあげるのが正解なんだろう。「やったね」とか? ああ、だめだ。結局まだ、心から祝福なんてできそうにない。


 だから閉められていたドアがゆっくりと開いて、ドアの向こう側に園ちゃんの姿が見えたとき、ブレーキをかけたように私の足の振り子運動は止まった。


 「園ちゃん……とりあえず、座る?」


 「うん」


 園ちゃんはゆっくりと歩いてくると、私の前の席に座って振り向いた。園ちゃんの髪は光に照らされて透き通るよう。私は思わず目を細めた。


 「あのね、」


 ああもう、タイムリミットか。

 頭の片隅でそんなことを思いながら私は今度こそ、と園ちゃんの顔を見ようとしたけれどやっぱりできなくて、首元に視線を定めた。


 「土曜日の事なんだけど、」


 心を、決めなくちゃ。笑って、お祝いできるように。

 私は拳をぎゅっと握る。手の中にかいた汗が、気持ち悪い。


 「私ね、私……」


 「うん」


 私は意を決して園ちゃんのことを見る。だけど。だけど園ちゃんは、


 「園、ちゃん?」


 予想とは違う表情で唇を噛み締めていた。


 「……どうしたの?」


 俯いて、言葉を紡ぐことをやめてしまった園ちゃんに、私はできるだけ優しく問いかける。園ちゃんは私の言葉を聞いてか、ゆっくりと顔を上げて私のことを見る。視線は、交わった。


 「タカに、」


 何も口を挟まない。いや、挟めなかった。だって園ちゃんが、


 「振られちゃった」


 悲しそうな、無理してそうな顔をしているから。



 「園ちゃん」


 ははっと笑ってみせる園ちゃん。

 衝撃だった。園ちゃんが伊勢谷くんに振られたというのは。絶対に付き合うことになると思っていたからなおさら。だけどそれ以上に儚げに笑う園ちゃんを放っておくことができるはずもなくて。


 私は立ち上がって園ちゃんに駆け寄った。そして一瞬ためらってから、ゆっくりと園ちゃんを抱きしめる。


 「園ちゃん。無理して、笑わないで」


 私の声は震えていた。


 「彩月……!」


 園ちゃんの声も震えていた。


 誰もいない教室に園ちゃんの嗚咽だけが響く。私はこの手を離したら園ちゃんが消えてしまう気がして怖かった。こんなに儚げな、弱々しい園ちゃんなんて初めてだった。


 しばらくして園ちゃんは私からゆっくりと離れていく。私はそれを不安に思いながらも手を離した。そして園ちゃんはズズッと鼻をすすってから声を出した。


 「タカね、彼女、いるんだって」

 「え?」


 その衝撃に思わず声が溢れる。


 「海南の子。同じクラスの子だって」


 えっと……何の、話? 園ちゃんは今、何の話をしているの?

 頭がついていかない。まったく、働かない。


 「写真見せてもらったけど、可愛い子だった。私、勝てないって思っちゃった」


 伊勢谷くんの……彼女……?


 そこでやっとその言葉の意味を理解して、心臓を掴まれたような感覚に陥る。


 あ、そうか。私、園ちゃんのこと祝いたいとかなんとか思っておいてやっぱり、伊勢谷くんが好きなんだ。だからこんなに、苦しいんだ。


 いっそ泣きたかった。泣いて、この想いごと全部流してしまいたかった。だけど園ちゃんが鼻をすすった音で一気に現実に返される。


 「彼女いたらもう、諦めるしかないよね」


 園ちゃんは顔を俯かせたけれど、私はさっきのように園ちゃんを抱きしめることができなかった。やっぱり私は最低なやつだ。園ちゃんが振られたことより、伊勢谷くんに彼女がいた事の方が辛い。辛くてたまらない。


 夕暮れ。グラウンドからは運動部の声が聞こえる。私はただただそれを耳に入れながら、うつむく園ちゃんの前で、立ち尽くしていた。




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