第二話1
悪魔は 人の悪しき心を糧にする
人の心の闇を喰い 育ち
いつかは その“器”をも突き破り 外へ出てくるんだ
R O I + +
~第二話~
雲ひとつない星空の下、俺は死にものぐるいで無人の街を走っていた。
額の汗が流れ、目にしみる。まだ汗をかくほどの季節でもないのに、恐怖からの冷や汗が絶えない。
足がもつれ、つまずきそうになる。それでも、必死に足を進めた。
なぜ、どうして、こんなことになったのか。
少なくとも、今の俺には、わからない。
事の始まりは、突然すぎる出会いだった。
学校の成績なんてちっぽけなことで親と大喧嘩の末、手のひらに収まるぐらいの全財産をはたいて、勢いで手近な都会に飛び出してきた。
来たはいいが、その頃の歳では雇ってくれるところもなく、仕方なく裏の仕事に手を染めて、犯罪と呼べることをいろいろとこなしてきた。
麻薬運びや密売、そこら辺に居るさえない男を捕まえては、同じ年頃の仲間と強盗の繰り返し。時には殺しの手伝いもした。
まともに働くことさえ許されない俺たちを拾ってくれたのは、当時この一帯をめぐる抗争の真っ最中だった今のボス、ブラッドだった。
明らかにヤバイやつだということは、田舎者の俺にも一目でわかった。
だが、金も身寄りもないあの頃の俺には、それが天の救いのように思えた。
ブラッドはみるみるうちに力をつけ、いつしか仲間もドブネズミのように増えていった。俺たち下っ端にもすこぶる金まわりがよくなり、俺は一時、これを持って実家に帰ろうという気にもなったほどだ。
しかし、裏世界に染まった人間は、やはり冷酷で、悪魔のように無慈悲。
ブラッドに罰と称して殺された仲間たちを、俺は嫌というほどこの目で見てきた。
それが震え上がるほど恐ろしかったから、自分は絶対にそんな罰を受けずに済むように、と――そう、心から思っていたはずなのに。
俺はミスを犯した。絶対に許されないミスを。つまり、俺は、殺されるんだ。
逃げたって無駄だ。ブラッドはこの一帯のボス。逃げ出したネズミを一匹捕まえるなんて、たった一言「やれ」と部下に命令すればいいだけだ。
逃げ道もない、ただ殺されるのを待つばかりの人生――。ならば、ブラッドのあの鉤爪にいたぶり殺されるより、ひと思いに自分でこの命を絶とう、なんて思い、安い酒を片手に、俺は人生最後の晩酌を楽しんでいた。
たった一人の宴会場は、薄暗い、人などめったに通らない裏通り。なけなしの全財産をはたいて買った酒を転がし、その中心で一人、バカ騒ぎをしていた。
気まぐれで、酔った勢いとむなしさに、“便利屋”なんてバカなものを始めたのが、全ての運の尽きだった。
今思えば、単に、ひとりで死ぬのを怖がっていたんだと思う。時々通りかかるやつらに「用事はないか」と酒を片手に声をかけては、そそくさと逃げられて悪態をつく。
最後の最後に来たって、誰にも必要とされやしない。そんなふうに、俺の人生最後の夜は過ぎようとしていた。
やがて酒も底を尽き始め、人通りも少なくなってきた。ぼやける目で腕時計を見ると、そろそろ、明日が今日に変わる。
あぁ、終わるんだな、これで。今になって思えば、あれほど楽しかった罪の数々も、地獄に落ちる俺への足かせにしか思えない。
例えようのないだるさが、体中にのしかかっていた。ありきたりな“人生の走馬灯”なんて見ないつもりだったが、思ったよりも早く、それは俺のまぶたの裏を駆け抜けていった。
なんてちっぽけな人生だったろうと、思わず酒臭い嘲笑が漏れた。それほど俺の人生なんてもんは、薄汚れ、家の片隅で一生を終えるボロぞうきんのような、寂しく貧しいものだった。
その時、もう一時間近く何の音もなかった通りに、コツ、と軽い靴音が響いた。
これが最後のお客かもしれない。そろそろ、ブラッドの部下たちが俺を見つけ出すころだろう。
もしも、最後のお客が、俺から目をそらさなかったら。もし、立ち止まって俺の話をきいてくれたなら――なんでもやってやろう。そいつの望むことを、なぁんでも。この世のありとあらゆる罪は、この目で見てきたつもりだ。
なんと世界の汚いことか。学校なんて平和な牢獄にせっせと通って、理解できない数字だか歴史だかを勉強していた頃が、まるで別世界のように思える。
あの頃は、まさか自分がこんなふうに終わりを迎えるなんて、思ってもいなかっただろう……――。
足音が近づく。明かりもほとんどない通りを、ゆっくりと、確実にこちらへ向かってくる。
うつむいた俺の視界に、黒い靴が入ってきた。よく磨かれていて、いかにも金を持っていそうだ。
足音は、俺の目の前で止まった。
「便利屋って、なんでもしてくれるの?」
うっすらとかすれたような、中性的なハスキーボイス。
風邪気味か? と問いかけるわけにもいかず。
「おう、なんでもしてやるよ。泥棒、強盗、殺人、ガキのお守りに、スーパーマーケットのおつかいまで。なぁんでもしてやる」
空になった酒のビンで、ダンボール製の“便利屋・なんでもやる!”の看板を叩き、冗談混じりにそう答えた。
すると、客は小さく鼻を鳴らし、コートの裾をふらりと揺らす。
「人殺しなんて、君には無理だよ」
やけに癇に障るイントネーションだ。
「あぁ、それは俺にもわかってる。冗談だ。この手で人を殺すなんて、俺にはできない……」
苦笑しながら顔を上げると、整った少年の顔を、遠くにある街灯がぼんやりと映し出した。
哀れなホームレスを見下ろすために、伏せた目はグレー。ほんの少し、青にも見える。信じられないくらい長いまつげに、ほっそりとした女みたいなあご。不機嫌そうに結んだ唇は、少し色が悪い。
顔を隠すベールのように長く伸びた前髪が、夜風に吹かれて少し散らばった。
後光が見える。ぼやける目の前に、天使さまが居る。早々にお迎えが来たのかもしれねぇ……なんて、バカなことを考えてしまうほどの、美少年だ。
生ゴミ臭い荒れた街に、まったく不釣合いな人物――。天使を見上げ、俺がぼんやりと惚けていると、少年はすっと青白い手を差し出した。
ついにお迎えか。この骨っぽい手をとれば、きっと、すぐにあの世で目を覚ますことになるだろう。
コツン、と、額にひやりとしたものが当たる。俺が手を取ろうと目線を上げると、とたんに後光が消え失せた。
「じゃあ撃たせてよ。一発でいい、すぐ終わる」
眉ひとつ動かさずに銃を突きつけられ、俺は銅像のように固まった。
俺は逃げた。恐怖ですっかり酔いも覚め、気の狂った変質者から逃げまくった。
しかし、あいつはどこまでもついて来る。しかも前方には車どころか、人っこ一人見当たらない。
助けを乞える相手も居なく、必死に逃げ惑う俺をいたぶるかのように、悪魔はしつこくついてくる。
「逃げるなよ。死にたくなければ、撃たれろ」
「ふざけんじゃねぇ! 死にたくないから、こうやって逃げてんだろ!?」
わけわかんねぇこと言うな! と反論してみるが、あいつは依然として無表情のまま追ってくる。
最初にあいつを天使だと思った俺がバカだった! 天国からお迎えが来たと思った俺がバカだった!
天使どころか、あいつは悪魔だ。地獄からお迎えが来ちまった!
いくら美人に迎えにこられたって、地獄に行くのはまっぴらごめんだ。それほどの罪を犯したかもしれないが、人間なら普通そう思うだろう?
死にたくない、死にたくない! 死にたくない!
気づいたら、泣きべそ交じりに息を切らせ、心の中で必死に叫んでいた。
死ぬのが怖い、撃たれる、殺される、痛い、死ぬ、死ぬ……――恐怖が頂点に達した瞬間、はっと頭が冴えた。
つい数時間前には、俺は何を思っていた?
あれほど死のうと思っていたのに……そう、死のうとしていたんじゃないか!
俺は足に急ブレーキをかけ、素早く回れ右をし、挑むように腕を広げた。
ピンチどころか、これはチャンスなんだ。一発の銃弾に撃ち抜かれるほうが、拷問の苦痛に顔をゆがめて死ぬより、ずっと幸せな死に方だ。
さすがにこの行動は予想外だったらしく、悪魔も足を止め、温かみのない顔を顰める。
「俺を殺せよ! さぁ、出来るもんならやってみやがれ、チビ助!」
興奮して叫ぶが、チビ助、はちょっとまずかったらしい。その言葉に、少年は明らかな嫌悪を見せた。
少年が腰から拳銃を抜き、黙ってこちらへ銃口を向ける。
俺は大きく息を吸い込み、ゆっくりとまぶたを閉じた。
あぁ、いよいよ俺、死ぬんだ。あの世へ逝くんだ。地獄だろうと、天国だろうと、この際どっちでもいい。
すさんだ街の片隅で死ぬ、ちっぽけな青年の最後を、もの悲しげな月明かりが照らす。
絶対居ないだろうと思われる神様とかいうやつに、天を仰いで最後の祈りを捧げていると、重苦しいため息が聞こえてきた。
ここで銃声が聞こえて、気づいたら女神様の前に居た、なんていう展開を希望していたのだが……。
「面白くない」
少年はポツリと呟き、銃を体の横に下ろした。
その一言と、意外な行動に、俺は唖然と少年を見つめる。
さっきまで「撃たせろ」と言ったり、「早く殺したい」と言わんばかりに追ってきていたくせに、今になって「面白くない」だって?
「頭の悪い人間は嫌いだ。人間はもとから嫌いだけど、バカはもっと嫌いだ」
銃をホルダーに戻しながら、面倒くさそうに少年は吐き捨てた。
いいや、バカは認めよう。確かに俺は頭がいいわけでもないし、こいつみたいに容姿が人一倍優れているわけでもない。これといった自慢もなければ、特技なんて持ち合わせたことは一度もない。
確かにそう、俺はバカだろう。自ら悪魔に立ちはだかって、「殺せるもんなら殺してみやがれ」なんてほざくやつは、バカだとしか言いようがない。
そのバカを、このチビ助は殺すと言って追いかけてきたんじゃないか。いまさら、なにを?
呆気にとられていると、少年はちらりともこちらを見ずにコートをひるがえし、背を向けた。
「ちょ……ちょっと待てよ! これだけ追い詰めておいて、「面白くない」でやめちまうのか!? 俺のこの気持ちは、一体どうなる!」
俺は半ばやけになって叫び、少年の腕を掴んで引き止めた。
驚くほど細く、肉など知らないというような腕だ。骨と皮しかない、と言ったほうが良さそうなほど。
「君の気持ち?」
そんなものがあったのかと言いたげに、少年は振り返る。
「あぁ、死にたい。俺は今すぐ、死にたいんだ」
両手で少年の腕を握り、いつになく真剣な顔でそう言った。酔いがさめ、その覚悟ができたのだと、自分でも今、はっきりと自覚した。
しかし少年は俺の手を振り解き、意外な言葉を吐いた。
「見返りはあるの?」
突然の問いかけに、今度はこちらが眉を顰める。
「いや……金なら持ってない。全財産、酒に代えちまった」
「じゃあ契約はなりたたないよ。利益のない仕事をするほど、今は気分がよくない」
そう言って向けられた目つきに、思わず背筋がゾクリとした。
刺すような視線ってのは、このことを言うんだろう。不自然なほど整った面が、そいつの迫力を余計にあおる。
思わず、ごくり、と息を呑むと、圧倒される様をあざ笑うかのように、少年がフンと鼻を鳴らした。
こんなガキに、何をビビっているんだ。体格差でもこっちが有利。掴みかかって生意気な面に喚き散らすぐらい、俺にもできるはずなのに。
苦いものがのどに詰まっているような、圧迫感が体を固める。こいつ――ただ者じゃない。
「な……何様のつもりだよ、チビ助」
声を絞り、出来る限りの強がりを吐くと、少年は不機嫌そうに顔を顰めた。チビ助、はやはりまずいようだ。
「僕はアルベール。アルベール・ブレスリン」
黒のコートをひるがえし、少年は唐突に名乗った。
その堂々とした態度は、なんだか膝をついてひれ伏したくなる気分にさせたが、なんとかあと一歩のところで留まった。
ここで、俺の名前は……と名乗り返すほど、度胸があったら苦労しない。
少年は、じっとこちらを睨みつけたまま、それ以上何も語ろうとしない。
俺もその場から動くことができず、しばらくの間、ただ黙って互いを睨みつけていた。
年のころは十三、四……俺が田舎を出たころだな。どちらにしろ、チビ助だ。ベジタリアンか拒食症か? この細っこい体と狂った目つき。深刻な不眠症にも見える。
光をまったく受けつけないグレーの瞳の中で、凛とした青がきらめく……。あんなに細い瞳孔は、ちゃんと機能するのだろうか?
そんなことを思っていたら、少年はくるりときびすを返し、また俺に背を向けてしまった。
しかし今度は、追いかけて「俺を殺せ」なんて、引き止める気にもなれず。
少年の小さな足音が、誰も居ない街に響き渡る。細かい黒髪が風に揺れ、影が小さくなっていく。
気がつけば、清々しい朝日の中で、俺はポツンとひとり、立ちすくんでいた。
十三で家を出た頃から、一度も代えたことのない、愛用の腕時計が時をさす。
午前四時といえば、起きているのはパン屋か新聞屋、というところか。
空には紫雲が広がり、まだ日も昇りきっていない。――いや、それどころではないんだ。
俺とチビ助……アルベールが居たはずの時間では、遅くても午前0時前後が妥当だろう。
あの悪夢のような追いかけっこを繰り広げていたのも、話していたのも、ほんの数分。精一杯長く見ても、三十分ほどだ。
それなのに、なぜ俺は、朝日を浴びている?
ずいぶん遠くに見える、まぶしい朝日に目を眩ませ、手をかかげて日よけを作った。
不気味で、奇妙で、どこか神秘的な雰囲気を残して、夜に溶けていった闇色の少年……。あれは、酒が見せた幻だったのだろうか?
それにしては、はっきりと右手に残る、あのか細い腕の感触。
本当に小悪魔にでも化かされたのか……と、非現実的なことを思ってしまった。




