第一話5
いつの間にか、時間は猛スピードで過ぎていたようだ。
悪魔に襲われた頃はまだ夕方だったはずなのに、一件のすべてが終わる頃には、もう朝日が昇り始めていた。
アルベール曰く、「結界の中に入っていると、時間が狂うことがある」そうだ。さらに、「これも、冥王のくせにエルカイドが無能なせい」とぼやくアルベールを見て、モニカは思わず笑ってしまった。
その他に、結界の外でバートは無事仲間たちに保護されたこと、悪魔を見た住民たちの記憶は消されるだろうということ、今回の件で死んだ“人間”はひとりもいないことなども教えてくれた。それに加え、やはりエルカイドは役立たずだということをもう一度。
モニカに心を許してくれたのか、出会った頃や、先ほどの氷のような雰囲気に比べると、彼の態度はずいぶん子供らしくなっていた。
憎たらしい偽りの笑顔より、唇を尖らせて文句を言う、こっちのほうがずっと可愛らしい。
「なに?」
「いいえ、なんでもないわ。それより……この人、本当にもう大丈夫なの?」
足元に倒れる大柄な男を見下ろし、モニカは少しつま先を引いた。
アルベールが血を吸いだしたせいか、不気味な様はすっかり治り、皮膚こそまだ赤黒いが、手も首も萎れて人としての形に戻っている。
「まぁ……大丈夫といえば大丈夫だけど、性格と過去には欠点があるね。密入国に泥棒に強盗、ドラッグの密売……いろいろと関わってるよ」
「どうしてそんなことまで知っているの?」
「血の記憶」
アルベールはさらりと答えて、それ以上は話さなかった。
警官としてもう少し突っ込んで聞きたいこともあったが、目を伏せる姿があまりに眩しくて、尋問の言葉などするっと胃に戻ってしまった。
代わりに、感じていたことが何気なく口をつく。
「人が血を飲む姿なんて、初めて見たわ。正直、とても怖かった……。あなたは、人間の血を必要とする特異体質なの?」
「違うよ。僕もエルカイドに出会うまでは、こんな能力はなかった。エルカイドが“吸血鬼”と名乗っているのは、ああやって汚れた血ごと悪魔を吸い出すからなんだ。そして食事と同じように、体内で悪いものを消化する。僕の体の中はエルカイドと繋がっていてね、僕が吸い出しても悪魔が僕を侵食することはなく、エルカイドの中で浄化されるんだ。きっと今頃、どこかで腹を抱えて唸ってるよ」
アルベールはそう答え、目を伏せたままニヤリとした。
「だから、この男ももう人間だ。中に悪魔は居ない。目を覚ました後のことは保障しないけど、言葉ぐらい取り戻すだろう」
「そう……そうなの。でも、こうなるまで麻薬をやっているのなら、廃人に……通常の生活に戻るのは、難しいかもしれないわ」
モニカは男を見下ろし、囁くように言った。聞こえてはいないだろうけど、廃人と呼ぶのも、呼ばれるのも、決して気分のいいことではない。
確かに、悪魔に身を奪われるほどの人間ならば、快楽や現実逃避を求めるあまり、ドラッグに手を出していてもおかしくはない。
しかし、麻薬に手を出すほど、悪魔に心を売り渡すほど、一体なにがこの男を追い詰めたのか――。それを思うと、苦々しい気持ちがつい表情に出てしまう。
そんなモニカを、アルベールはキョトンとした表情で見上げた。
「でも、人間でしょ? 人間を守ってやるのが、君の仕事。そうじゃないの?」
子供らしい、あどけない表情でそう言われ、モニカはふっと頬を緩めた。
まったく、その通りだ。私は大切な人たちをこの手で守るために、警官になったのだ。
たとえ罪人でも、目の前の人間を見殺しにするようでは、いざという時大切なもののために命をかけることなんてできない。
きっと、自分の仕事に誇りを持ち続けた祖母も、こんな気持ちだったのだろう。
だからこそあんなに傷だらけになるまで体を張って、悪魔という誘惑から人間を解き放ち、救い続けたのだ。
幼い頃は理解できなかったけれど、今ようやく、エクソシストという摩訶不思議な使命を選んだ人々の姿が垣間見えた気がする。
彼らもまた私と同じく、ただ大切なものを守りたいたいと、一心に願い、戦い続けたのだ。
「そうね……。あなたのほうも、そんな危ない仕事、一刻も早く終わるといいわね」
モニカはそう言って、すっと手を差し出した。
すると、アルベールは一瞬驚いた様子を見せた。まるで初めて握手をするような表情に、モニカが手を突き出して促すと、ようやくアルベールは握手に応じた。
「モニカが冥界に来たら、特別待遇してあげるよ」
「期待しておく」
モニカはウインクをし、くすっと笑った。
「ねぇ、仕事に戻らなくていいの? もう明け方だよ」
「そうだった! 今日はガビーの旦那さんに、骨董収集もほどほどにしなさいって、注意しに行かないとね」
モニカは両手を鳴らし、平和の戻った街を見回した。
雲の切れ間から、清々しい朝日が差し込んでくる。たった一人の少年に守られたことも知らない街の住人たちも、そろそろ通常の生活を始める頃だろう。
もう、ここに悪魔が現れることはない。――ほのかな願いも込めて、モニカは心からそう思った。
「あなたのお父さん……冥界の王さまにも、私からキツく言っておかないとね。もう少し、息子を大事にしなさいって」
「……それはいいよ。もう嫌なほど、大事にされてるみたいだから」
アルベールは嫌そうに唸り、顔を顰めた。
「あいつ、あの日去り際に何をしたと思う? 僕を抱き上げて、頬にキスしたんだよ。「僕の可愛いアルベール、幸運を祈るよ」ってさ」
最悪の屈辱を味あわされた、と悔しそうに吐き捨てるアルベールに、モニカはクスクスと笑った。
「本当にあなたを愛しているのね、お父さまは」
「まぁね。犯罪一家の跡取り、冥王の跡取り、どちらにしても、僕は何かと必要みたいだから」
その返事に、モニカははっと息を呑んだ。
そうだ……一連の騒動のおかげで、すっかり忘れていた。この子、犯罪者なんだ。
今は悪魔を相手にしているとしても、昔は大物俳優や政治家、未来有望な科学者までも、依頼ひとつで殺してしまった殺人犯。私は警官として、この子に手錠をかけるべきだろうか?
でも、それでも、この子は……――
「数日でその男も意識が戻るだろう。あとは君に任せるよ。モニカ・ハワード警部補」
街に響いたアルベールの声に、モニカははっと我に返った。
しかし、側に居たはずのアルベールの姿は、もうそこにはなかった。
声の聞こえた位置から、モニカはすぐに天を仰ぐ。すると、彼はいつの間にか家屋の屋根に飛び乗り、頭上からモニカを見下ろしていた。
ゆっくりと広がる眩しい朝日から逃げるように、アルベールは物陰に下がっていく。
モニカはぎゅっと唇を結び、背筋を伸ばすと、大きく息を吸い込んだ。
「アルベール……私、思うの。どんなに偉いことをしたって、どんなになにかを守ったって、罪を犯したあなたの過去は、絶対に消えることはない」
モニカの凛とした声が、朝の広場に響き渡る。
その言葉に、アルベールはグレーの目を伏せ、頷いたように見えた。
ごめんなさい、の一言でも聞ければ、少しは救われたかもしれない。
しかしもちろん、彼が素直に頷くわけがなかった。
アルベールは金色の拳銃を持ち上げ、わざとモニカに振って見せた。
「僕は捕まらないよ」
暗殺者はにっこりと微笑むと、まるで魔法のように闇に消えてしまった。
またね、モニカ。
今度は冥界で。
A bientot...




