第一話4
「ヒッ、ヒッ、ヒィーッ!」
狂った叫び声が追ってくる。
迫り来る恐怖に、モニカはもうすでに汗だくだった。
あれは、人間じゃない!
避難していた野次馬の側を通り過ぎると、あちこちから悲鳴があがり、人々の逃げ出す足音がした。
モニカは振り返ることもできず、ただ迫る足音に怯えながら、必死に足を前に進めた。
しかし、どんなに走ろうと不気味な笑い声は差を縮め、明らかにモニカに迫ってきている。
いつの間にか空はどんよりと黒く染まり、今にも雨が降ってきそうだった。
残念ながら、今日は美しい夕焼けは見れないようだ、なんて、悠長に考えている暇は、今のモニカにはこれっぽっちもない。
追いつかれたら、殺される。確実に殺される。
今更になって、昨日の少年の夢のような話が、本当なのだと実感するなんて!
思わず、じわりと視界が滲む。なんであの時、あの子を――大好きだった祖母を、信じなかったのだろう?
ポッ、ポッ、とセピア色の明かりが灯り始めた。進む先には、誰一人として助けを求められる人間は居ない。
モニカは路地へ飛び込み、入り組んだ道を何度も行き来して逃げきろうとしたが、結局いつの間にか中央広場へ戻ってきていた。正面には廃れた屋敷が見え、蔦の絡まった門が、まるで歯を食いしばって笑う悪魔の口のように思えてくる。
さっきまで多くの悲鳴があがっていた広場は、今はしんと静まり返り、一人の影も見られなかった。
背後からは、まだ悲鳴のような甲高い笑い声と、時々道に突き立てる鉤爪の音が追ってくる。焦りと恐怖に、足がもつれる。今にも飛びつかれたらどうしよう? あの鋭い爪で切り裂かれたり、バートのように肉を食いちぎられたり……いやだ、そんなの、絶対にいや!
「やぁ、モニカ。楽しそうだね」
その時、聞き覚えのあるハスキーボイスが聞こえ、モニカははっと顔を上げた。
いつの間に現れたのだろう。モニカの目の前に、またあの光景がフラッシュバックした。昨日の光景を再現するかのように、オバケ屋敷を背景に、黒ずくめの少年がぽつんと一人、立っていた。
凍てつくような冷えきった風が吹き、モニカの髪と、少年のコートをふわりと持ち上げる。
その姿はまるで翼を広げるように見え――救世主は、モニカに向かってにっこりとした。
――幻じゃない!
「お願い、た、助けて!」
モニカは引きつった悲鳴をあげ、迷うことなくアルベールに掴みかかった。
しかし、アルベールは心底楽しそうにモニカを見上げ、肩を寄せて甘ったるい声を出す。
「だって、子供が危ないことしちゃいけないって、君が言ったんじゃないか」
無邪気な様でそう言われて、モニカは顔を引きつらせた。この期に及んで、まだ大人をからかう気だ。
この悪魔! と罵りたかったが、背後から本物の悪魔の気配が急激に迫ってきたため、モニカは慌ててアルベールを押して駆け出した。
しかしアルベールはひらりと身をかわし、モニカを先に進ませる。
助けてくれる気なのだろうか? しかし、走りながら振り返るってみると、アルベールは薄く笑みを浮かべたまま、横を通り過ぎる悪魔を見送っただけだった。
ざまぁみろ。そんな皮肉が聞こえてきそうな、憎たらしい笑顔を向けて。
モニカは前を向き、心の中で小悪魔をひたすら恨みながら走った。
また角の商店にさしかかる。しまった――あそこを曲がったら、まだバートが居るかもしれない!
とっさに、もう屋敷の門を飛び越えるしかないと思った。いくら蔦の棘が刺さっても、体を引き裂かれるよりずっとましだ。
しかし次の瞬間、ドッと肉の固まりがモニカに体当たりし、モニカの内臓を揺さぶった。
「ヒッー! ヒッ! ヒッ!」
甲高い笑い声が、耳のすぐ後ろで聞こえる。
モニカは悲鳴をあげ、完全に押さえつけられる前に、体を必死に捻り、右足に力を入れて飛び出した。
せっかくの獲物を逃がすが、化け物はさも嬉しそうに赤い目を光らせ、巨大化した手を叩きつけてモニカに襲いかかろうとする。
モニカはとっさに拳銃を構え、化け物に向けて発砲した。
手は大きく震え、照準がなかなか合わなかった。しかし、数発の弾は化け物の胸と腹に命中した。
化け物は倒れる様子も、怯む様子もない。撃たれても、まったく平気のようだ。
モニカは半狂乱になりながら、何度も何度も引き金を引いた。射撃場の中でしか聞きなれない音が、今は静まり返った街に響く。
ついに弾がなくなった。死に物狂いで空っぽの拳銃も投げつけるが、怪物はそれも避け、虚しくレンガの通りを滑っていった。
ヒイヒイと喘ぐ吐息と、裂けているかと思うほど大きな血だらけの口が、モニカの恐怖を煽る。
悪魔は血に濡れた鋭い歯を舐め、雄叫びをあげて地面を蹴った。
「助けて! お願い! アルベール!」
引きつった悲鳴と共に、もうなくなったはずの銃声が、何発か重なるように響いた。
モニカがはっと息を呑む。手が届くまでほんの数センチ。ばらばらの歯並びがしっかりと確認できる目の前で、悪魔は、ゆっくりと地面に倒れていった。
「やっぱりね」
その向こうで、煙の上る銃を掲げ、人影がぽつりと呟く。
助かった――。死の恐怖から開放され、モニカは力なく腰を下ろした。
「やっとわかったよ。モニカ、君はエクソシストの血筋をひいているね」
しんと静まりかえった広場に、神秘的なハスキーボイスが響く。
不思議と、反響する何があるわけでもないのに、まるで劇場の舞台に立つ役者のように、アルベールの声はよく響いた。
モニカは狂ったように動く心臓を押さえ、どもり気味に答える。
「え、えぇ、そう、そうよ。曾祖父と……そ、祖母が、エクソシストだった。どうしてわかるの?」
「悪魔は憎んでいる。エクソシストを。モニカが人には入れないはずの結界の中に入れたのも、他にも人間が居たのに、悪魔が目もくれずにモニカを追いかけたのも、そのせいだ」
アルベールは悪魔の側を通り過ぎ、モニカのほうへ歩み寄ってきた。
その時、うずくまっていた悪魔が、小さく唸り声をあげ始めた。まだ生きている!
「アルベール! ま、まだ、あれ、化け物! 生きて……」
「黙って」
アルベールが片手を上げ、モニカを静止した。
猫のような細い瞳孔を持つ瞳、ブルーグレーだったはずの目が、徐々に青い色を濃く帯びていく。
アルベールは黒のオートマチック銃を腰に戻し、反対側から違う拳銃を取り出した。今度は白と金の装飾を施した、リボルバー式のあの銃だ。
悪魔が唸り、起き上がろうと腕に力を入れている。しかし急所を撃ち抜かれた影響か、腫れあがった両腕はがくがくと大きく痙攣していた。
怯えて後ずさりするモニカをよそに、アルベールはコートをひるがえし、もがく悪魔に向き合った。
悪魔は血を吐きながらこの世のものとは思えない苦痛の声をあげ、体を不気味にくねらせている。
体のあちこちがヘビのようにうねり、皮膚が耐え切れずにはち切れる。まるで骨がある事を無視しているかのようだ。常人にはありえない動きを目の当りにして、モニカを猛烈な吐き気が襲ってきた。
うつ伏せに倒れているはずなのに、悪魔の首は百八十度回転すると、天に向かって耳をつんざくほどの叫び声をあげ始めた。
「死ね! 死ね! みんな死ね!!」
たくさんの人の声が重なったような、奇妙な声で悪魔が叫んだ。男、女、老人、子供、すべての憎しみの声だ。
そこから感じる重苦しい憎悪に、モニカはぞっと背筋を震わせた。
涙が凍りつくよう。まだ肌寒い季節でもないのに、身の毛のよだつ恐ろしさが体を固める。
この世の全てを全身で憎み、自分は世界から拒絶されたのだという、孤独で寂しい叫びが、その悲鳴には含まれていた。
悪魔の憎しみの声を聞くうちに、モニカを恐ろしいほどの孤独感が呑みこんでいった。
頭の中で、《私》が《私》に囁く――私が死の恐怖に追われた時、私を助けようとしてくれた人なんていなかった。私はみんなを助けようとしたのに。みんな勝手に逃げ出してしまった。たった一人立ち向かった私を残して。
バート――バートの声がする。私はバートを見捨てて逃げ出した。何で助けてくれなかったんだ。オレは死んでしまった。あんたのせいで死んだんだ。やり残したことがあったのに。家族があったのに。あんたのせいでオレは――私が悪いんじゃない。私が悪いんじゃない! ――大声で叫びたい!
勝手に口が開いて、モニカは両手で耳を塞いだ。涙が出て、体が震える。ダメだ、まやかしに心を許してはいけない!
モニカは憎しみの誘惑に打ち勝った。しかし、憎しみの共鳴を求めて、悪魔は悲鳴をあげ続けている。
アルベールは悪魔を見据えたまま、憎しみのかたまりに向かって、ゆっくりと進み出した。
「そんなに憎いなら、憎み続けていればいい。それで救われるなら、永遠に憎しみに酔っているがいい。君がすべてを恨み続け、いつしかそこに喜びが生まれたなら、それは全くのまやかしだ。どんなに多くの憎しみを生んでも、自分にうち勝つすべを見つけない限り、その苦しみからは逃れられない」
「人は醜い。だから、嫌いだ」
冷たく言い放ったその声には、悪魔たちの叫びにも匹敵する憎悪がこめられていた。
今、彼の目の前にいたら、呼吸さえも奪われてしまうだろう。上司に怒鳴られた時のものでもなく、化け物を前にした時のものでもない、言いようのない重たい感覚が、ずっしりと腰の辺りに落ちてくる。
なぜだろう……まだ十代も半ばの少年だというのに、なぜこんな圧倒的なプレッシャーを感じさせるのだろう。
闇をまとい、夜に生きる。冥府の王、ハデスの息子――。
氷のようなアルベールの言葉に、悪魔はぴたりと絶叫を止めた。
しかし、相変らず首だけは体と逆に天を仰ぎ、黄ばんだ歯を鳴らして、威嚇するようにのどで唸っている。
「ウゥゥウウゥゥゥゥゥウゥゥ……」
悪魔がひっくり返った手で地面を押し上げ、ゆっくりと体を起こした。
そして四つん這いのまま二人へ向き直り、逆になった頭を左右に揺らして、真っ赤な眼でアルベールを睨みつける。
悪魔はアルベールを見たとたん、ニヤリと笑みを浮かべたように見えた。しかし次の瞬間には、恐ろしい雄叫びをあげて、猛スピードで突進してきた。
「死ね! 死ね!! みんな死ね!!」
耳をつんざく叫び声にも、アルベールは冷静だった。
拳銃を素早く構え、悪魔の額めがけて引き金を引いた。
クモのような手足も、引き金を引くスピードには敵わなかった。重たい体がドサリと地面に倒れ、何度かもがき、そして動かなくなった。
「し……し……死んだの?」
銃口から、薄青色の細い煙が立ちのぼる。アルベールの背中に向かって、モニカは恐る恐る囁いた。
「普通の銃では悪魔を殺せないけれど、この銃で人は殺せない」
アルベールは煙を振って断ち切ると、片手で金の銃のシリンダーを外してモニカに見せてくれた。
六発の弾が装弾されているはずの薬室には、弾丸がひとつも入っていなかった。確かに普通の拳銃と同じ威力を見せたはずなのに。ハチの巣のような六つの穴は、今さっき手入れされたばかりのようにきれいだった。
モニカは空の銃をよく見ようと身を乗り出したが、アルベールはそれ以上近づくことを許さず、すぐに中折れの銃を戻して腰元にさした。
歩き出したアルベールの足音を聞きながら、震えの止まらないモニカは、恐る恐る奇怪な悪魔に目を向ける。
悪魔は殺せるけれど、人間は殺せない。ということは、人間としての“彼”は、まだ生きているということだ。
あんな様で、まだ生きているというの――頭は逆に曲がり、肌のはち切れた腕は血に染まり、充血した白目をむいた顔は、紫色に染まっているというのに――。
男の側に腰を下ろし、アルベールは化け物の体を持ち上げる。
あの細腕から、なぜあれほどの巨体を起こせる力が出てくるのか。モニカは不思議に思ったが、恐怖の余韻で声がつまり、訊くに訊けなかった。
アルベールが男の頭に手をかける。そしてゴキッ、と嫌な音がして、男の首が元に戻った。
モニカがヒッと小さく悲鳴をあげるが、アルベールは気にしていない。
次は何が起きるのだろう。モニカが引きつっていると、アルベールは男の頭を横に押しやり、何のためらいもなく、男の首に噛みついた。
モニカはあっと息を呑み、慌てて口を手で覆った。
今、目の前で繰り広げられる光景は、一体、なんなの?
喉が小さく波打っている。明らかに、血を飲んでいる。それも、まるで水を飲み干すかのように、大量に。
私には――少なくとも、私には、アルベールがまるで本物の吸血鬼のようにしか、見えないのだけれど――。
吸血鬼、ゴースト、悪魔、オバケ、化け物――そんなものがモニカの頭をぐるぐると回り、非現実的な世界に飛び込んでしまった自分のほうが、とんでもなく場違いな存在のように思えた。
驚愕し、目を回すモニカの前で、アルベールがすっと顔を上げる。
不健康そうな唇の端に、赤い液体が伝った。
「まずい」
アルベールは一言だけそう言って、綺麗な顔を顰めた。




