第一話3
天使のような悪魔とは、よく言ったものだ。
キラキラと瞬く愛らしい笑顔の裏では、拳銃を持った悪魔がにやり笑いをしているのだろう。
あぁ、神さま、あんまりです!
「暗殺屋! 悪魔狩り!」
日の高く昇った翌日の午後。モニカはキーキー声で喚きながら、何度もこぶしで机を叩きつけた。
ファイルや資料が宙を舞い、いくつか机から零れ落ちていく。
昨晩、明らかな犯罪者を前に、呆然としていた自分が許せない。どうしてあの時、手錠をかけておかなかったのかしら。
みんな、あの不思議な瞳の魔法にかかってしまったのだ。昨晩署内に居た全員が、あの憎々しい小悪魔に化かされた。そう、今思えば、あんなのうさんくさい、偽りの笑顔だったのに!
ちょっと可愛い顔にだまされるなんて。自分の失態を悔やみ、鼻息も荒くじだんだを踏んでいると、若い男がおずおずとモニカに近づいてきた。
「まぁ、まぁ、落ち着きましょう。ヒステリーは怖いっすよ」
ひょうきんそうな声になだめられ、モニカはフンと顔を上げた。
線の細い青年が、コーヒーの入ったカップを両手に持ち、ぎこちなくにっこりとした。昨晩、アルベールが悪魔や冥王の話をした時、熱心に聞き入っていた警官の一人だ。
あの後誰よりも早く自宅に帰ったというのに、また前髪が重力に反発している。彼は生まれたてのヒヨコのような新米の頃から世話をしてきたけれど、寝坊癖はまだ直っていないようだ。
「ハワード警部補、仕方ないっすよ。まさかあんな子が例の……ほら、“プロ”だったなんて……何より、警部命令だし」
「バート、私は納得いかないわ。なんで私、あそこで捕まえておかなかったのかしら。そうよ、よく考えてみれば、あの子自分から父親はコルソ・ブレスリンだって言っていたじゃない。コルソ・ブレスリンといえば、かの大詐欺師でしょう! あぁ、なんてこと。親子そろって犯罪者だなんて」
「犯罪一家ってやつでしょうかね。かっこいいっすね」
バートは愛想のつもりで笑ったが、モニカにもの凄い形相で睨まれたため、カップを置いてそそくさとその場を去っていった。
バートを一喝し、給湯室のカーテンに避難して見えなくなったところで、モニカは深くため息をつく。
信じられない。あの子が、本物の犯罪者だったなんて……アルベール・ブレスリン――捕まるはずもないわ。
だって、誰が思う? まだあどけなさの残るあんな少年が、残虐非道、百戦錬磨で名高い、冷酷な暗殺者だなんて。
どうせ悪魔だの冥王だのという話も、全くの作り話なのだろう。なにせ父親はあの大詐欺師だ。万が一警察に捕まった時のために、相手を混乱させる手ぐらい考えていたはずだもの。
考えれば考えるほど、なにもできなかった自分の失態が悔やまれる。
イライラと頭を抱えながら、ふと左腕にある時計に目を移したとたん、モニカはバネ人形のように立ち上がった。
「巡廻の時間! バート、行くわよ」
懺悔の続きは仕事のあとだ。モニカはジャケットをはおり、給湯室に声をかけた。
給湯室から、「またオレですかぁ」とバートが嘆き声をあげる。モニカはさっさと来いと手を振り、有無を言わせずたくましい背中を向けた。
同じくモニカに頭の上がらない同僚が、肩を叩いてバートを慰める。バートはお湯を注いだカップ麺を名残惜しく思いながら、トボトボとモニカの後ろをついていった。
ピリピリとした警察署の外の天気は、白い雲と青い空の割合の良い、気持ちのいい晴れだった。
もう一度時計に目をやる。今日は時間が飛ぶように過ぎていった。そろそろ日も落ちてきて、綺麗な夕焼けになることだろう。
モニカは大きく空気を吸い込み、ぐっと背伸びをした。
一日中思いつめていたせいで、体まで後ろ向きな思考に毒されてしまったらしい。凝り固まった体をひねると、背骨がポキッと音をたてた。
詰めた息を一気に吐き出し、晴れた気分を取り戻す。そんな頃、ようやくバートが暗い顔をしてモニカに追いついた。
「今日、巡回十回目ですよ……。オレ、まだ昼飯食ってないんですけど」
「何言っているの。これも任務のうちでしょ。それに食事の時間なんて、とっくに過ぎたじゃない」
「なんでそんなに熱心に巡回するんです? この街はいたって平和、犯罪を知らない街ですよ」
「私たちの仕事はデスクで報告書を眺めるだけじゃないのよ。さぁ、シャキッとなさい!」
猫背のバートを平手で叩き、モニカは胸を張って歩き出した。
確かにバートの言う通り、ヴィンテックはとても平和な街だった。
ここ数年、事件という事件は、これといって起きていない。時々、煙突にはまってしまった間抜けな泥棒が捕まったり、酒に酔った若者が街角で殴りあいの喧嘩を繰り広げる程度だ。
しまいには、トイレが詰まっただけで警官が呼び出されるようになったのだから、警察署もたまったもんじゃない。
どれもこれも、モニカのような警官がちょくちょく街へ行き、必要以上に人々との交流を深めているせいだと噂する仲間も居る。
だが、その程度で巡廻を控えるほど、モニカは臆病ではない。日々の情報収集と人間関係の調査も、立派な警官の仕事だと、モニカは心から信じていた。
「おはよう、モニカ」
泥棒の好みそうな路地を抜け、中央の広場に差し掛かったところで、小さなめがねをかけた上品そうな老婆が声をかけてきた。
モニカは小さな老婆の目線になるまで屈み、老婆が差し出した右手をとって挨拶を返す。
「ミセス・クレマンス、もうこんにちはの時間よ。それに、今日はもう三回も会ったわね。今日は、何か変わったことはあったかしら?」
「そうねぇ。最近、お隣のご夫婦が、ちょっとやかましい喧嘩を繰り広げているぐらいかね」
ミセス・クレマンスはくくっと笑って、豆つぶのような目をさらに細めた。
「そう、大丈夫よ。またご主人が要りもしない骨董品を買って来たんでしょう。ガビーがこの前泣きついてきたもの。今度、注意しなくちゃね」
モニカはミセス・クレマンスにさようならを言って、賑わう中央広場に向かって再び足を進めた。
後ろで、バートがミセス・クレマンスにつかまり、いい子なのよ、きれいな子なのよ、と見合いの誘いを受けている。バートはそれを丁重に断り、先に歩いていたモニカに駆け寄った。
「今日もこの街は平和ですね」
「えぇ、街を知り尽くしたクレマンスさんがああ言うんだもの。そうだといいんだけれど」
何気なく、もう帰りましょう、と促したつもりだったが、バートの作戦は失敗だったようだ。
背を丸めるバートをよそに、モニカは正面に佇む大きな屋敷を見つめ、いつの間にか黒ずくめの影を夕暮れの景色に重ねていた。
そう、ちょうど、この辺りだった。昨日、あの子に出会った場所――。
横には、昨晩長い間パートナーを務めた街灯が息をひそめ、今日も優しいセピア色の光を放つ時間を待っている。
もしもこのまま日が暮れるまで待って、また駆け出したら……私はまた前に進めなくなって、人形のような少年が、闇の中からすっと現れるのだろうか。
生意気な目で私を見上げて、今にもこう言うんじゃないだろうか。
「今日は邪魔しないでよね」
「――いいかい、まやかしに心を許してはいけないよ」
少年の声に重なり、ふと、そんなフレーズがモニカの頭に浮かんできた。
それは亡くなった祖母が、生前、口癖のようによく言っていた言葉だった。
警察学校に入る時、その言葉はすっかり実家に置いてきたような気がしていたのに。不思議と、今のほうが当時よりずっと、鮮明に思い出せる。
残酷なニュースを聞いたり、些細な喧嘩をして悲しむモニカが泣きつくたびに、祖母が強く、優しく言い聞かせた台詞。
「いいかい、モニカ。人は時に、悲しみや憎しみに心を奪われ、何もかもを壊してしまいたいという衝動に駆られる時がある。
それは誰だって例外はない。どんな偉人も、発明家も、政治家も、美術家も、わたしや神の子だって、きっと例外ではない。
深く刻まれた心のみぞは、誰だって他人に見せたくないもの。醜く歪んだ、そのみぞが人に見られるほどに、人は自分がひどくみじめに思えて、心の傷はずっと深くなる。
長い間大きなみぞを隠していると、「その傷を癒してやろうか」と、耳元で誰かが囁きかけてくるかもしれない。
でもね、モニカ。それはまやかしなんだよ。おまえの目を見て、おまえの頬にやさしく触れてくれるもの以外、どんなに美しい声だろうと、それはまやかしの誘惑なんだよ。
それがどんなに甘美で、それがどんなに天の助けに思えようと、それは禍々しい存在に過ぎないんだ。
いいかい、モニカ。どんなに辛くとも、どんなに悲しくとも、まやかしに心を許してはいけないよ。
もしもひとりでどうしようもなくなってしまったら、すぐにおばあちゃんのところへいらっしゃい。
おまえの目を見て、かわいい頬にふれて、わたしがみぞを癒す手伝いをしてあげる。
いいかい。絶対に、まやかしに心を許してはいけないよ。
まやかしの与える希望は、破滅しか呼ばないからね――」
それは、まるで赤ん坊のころから知っている子守唄のように、モニカの体に染みついていた言葉だった。
病を患い、ベッドから離れられなくなってもなお、祖母はこれだけは忘れることがなかった。
ベッドから伸ばされる痩せた手が頬に触れるたび、私は涙が止まらなくなった。
ふと、しわがれ、傷だらけになった、晩年の祖母の手が浮かぶ。
あれはてっきり、長年の家事でついた傷だとばかり思っていた。だけど――今、改めて考えてみると、あれは洗たくや料理でつけたものより、ギャングとやりあったボードワン警部の傷によく似ている。
昨晩、謎の少年と出会ったせいで、長年持っていた“常識”が、急に疑わしく思えてきた。
昨日は否定したけれど、モニカは知っていたのだ。心のえさ、心のよごれ――それが悪魔を育てることを。
時々祖母の話す摩訶不思議な世界のお話は、きっと孫を一喜一憂させるための作り話で、空想好きなおばあちゃんに、からかわれているのだと思っていた。
だけど……もしかして、もしかしたら、私の祖母は、本当に……――。
いつもの自分らしくなく、ぼんやりとそんなことを考えている自分に気づき、モニカははっと我に返った。
ダメダメ、ダメよ。今は目の前のことに集中するの。それこそ、“まやかしに心を奪われてはいけない”だわ。モニカは自分に言い聞かせ、惚ける顔を平手で叩いた。
しかし、モニカの目を覚ましたのは、頬に感じる痛みではなかった。自分に対しては厳しすぎる平手が当たったとたん、突き当たりの角から、平和な街に甲高い女性の悲鳴が響き渡った。
「何があったの!?」
夕暮れをつん裂く悲鳴に、モニカはすぐに駆け出した。バートも慌てて後に続くが、緊張からか足がもつれ、転ぶ寸前で足踏みしている。
若草色のレンガ壁から、曲がり角の商店の夫人が飛び出してきた。夫人は赤い染みのあるエプロンを振り乱し、恐怖に顔を引きつらせている。
「モニカ! 助けて! 強盗よぉ!」
引きつった悲鳴に、モニカははっと目を見開いた。
事件は突然。バートは予想もしなかっただろう。この平和な街に配属されてからの、初めての事件が強盗だなんて。
「バート、あなたは裏へ回って。逃がしたらしょうちしないからね!」
「は、はい!」
バートは襲われた商店の夫人と同じぐらい顔を引きつらせ、一応常備していた拳銃に手をかざし、店の裏から反対側へ向かった。
モニカも腰から拳銃を抜き取り、安全装置を解除した。久々の感覚に、また目の前を昨日の少年の姿が過ぎる。
アルベール・ブレスリン、あの子も拳銃を使っていた。まだあんな歳なのに、臆する様子も見せず、堂々と……。
いいえ、今はあの子のことを考えている暇はないわ。いち警官として、事件を大きくしないよう、慎重に、素早く、誰も傷つけずに……――
モニカが意を決して建物の陰から飛び出した瞬間、店の中で商品棚がなぎ倒され、ビンの割れる音が響いた。
息を呑んで見守っていた民衆が、細い悲鳴をあげて遠ざかりながら、周囲に危険を知らせまわっている。
「警察よ! 動かないで!」
モニカは銃をかまえ、店内の強盗に向かって叫んだ。
ほこりや倒れた商品の小麦粉などで、店内は濃い霧がかかったようにぼんやりとしていた。
その中で人影がうごめく。モニカはぐっと唇を噛んだ。
大きい。徐々にほこりの幕が薄れ、強盗犯の姿が露になる。
後姿だ。薄汚れた黄色のTシャツ、大柄で太った……どこかで見たような……。
その時、薄れた白煙の中から、ヒュッと大きな影が飛び出してきた。
モニカは思わず後ずさりし、それでも銃口は犯人に向けたまま、標的を確認しようとまぶたを押し開く。
実はまだ、実際に現場で銃を使ったことはないのだ。正直、とても怖い。
震え始めた両手をぐっと我慢し、モニカが目を凝らすと、大きな影は高く不気味な声をあげた。
「ヒーッ! ヒッ、ヒッ」
笑っている。ゾッと身の毛のよだつような、甲高い声だ。
何を見て笑っているの――? モニカが踏み出したその時、強盗犯の向こうで、同じように拳銃を掲げたバートの姿が目に入った。
しかし、顔は青ざめひきつったままで、モニカよりも腕が震えている。あのまま撃っても、せいぜい足元のレンガか宙を切るだけだろう。
バートはまだ新米といえるし、この街に配属されて初の事件がこれだ。仕方がない。
なんとかこっちに注意をひきつけて……――そう思った瞬間、強盗犯が突然バートに突進していった。
あっと声を上げる間もない、その体格から想像も出来ない驚異的なスピードだった。モニカは思わず身震いし、慌てて威嚇発砲する。
しかし次の瞬間には、バートの悲痛な叫び声が広場に響き渡り、鈍器で殴られたような感覚がモニカを襲った。
目の前の古びたレンガの地面に、じわじわと赤い水たまりが広がっていく。
モニカは悲鳴をあげそうになったが、すぐに唇を噛みしめ、再び犯人に向けて何発か発砲した。
弾はことごとく地面をとらえたが、肥えた腕を弾がかすめた時、ようやく大きな影はモニカのほうへ振り返った。
鮮血で染まる口は三日月のようにニヤリと持ち上がり、その向こうに、血に染まった足を押さえて呻くバートが見える。
モニカは一瞬で確信した。間違いない。昨日、少年が「悪魔」だと言っていた、あいつだ!
まだバートに向けられている手は、異常なほど赤黒く膨れ上がり、爪が指を侵食したかのような鉤爪が、今にも捕らえた獲物を切り裂きたいとウズウズしている。
満月のような顔の両端にある瞳は赤く光り、白いはずの眼球は、穴が空いたように真っ黒だった。
興奮に息を弾ませてモニカを見つめる赤い目が、ニヤリと細められる。
モニカはついに悲鳴をあげ、逆方向へ駆け出した。




