第二話5
――あの、夢のような日から、三日。俺は、病院のベッドの上で目を覚ました。
清潔な白い布に包まれて目覚めると、ふくよかな若い看護婦が、心配そうに俺を覗き込んでいた。
理想の女神とは少しイメージが違うが、これこそ本物の天使だ……と、俺は懲りずにそう思った。
俺は看護婦に話を聞いた。どうやらあの出来事は、老朽化したガス管の爆発事件ということで片づけられたらしい。
ガス爆発、思わず笑いそうになった。朝刊のちっぽけな記事では、警察も手を焼くギャング共が、腐ったガス管のせいで全滅したってことになっているわけだ。
俺は、真実を言わなかった。どうせ言ったって、あんな化け物のことなんか、誰も信じてくれやしない。
ましてやあんなチビ助が、裏業界の凄腕暗殺者で、悪魔を退治してくれた、なんてバカな話。ガスで頭をやられたやつの、いかれた夢物語だ。
しかし、それは夢ではない。
俺の首には、まるで牙のある動物に噛まれたような、目立たない二つの傷が出来ていた。
あのチビ助は、どうやら俺を引っ張ったあの黒いものまで、退治していってくれたらしい。
便所でその傷口を見るたびに、俺は不思議と、清々しい気分になった。
夕暮れが、とてもきれいだった。
水色だった空が、雲を巻き込んでオレンジ色に染まり、遠くで藍と混ざって、紫へ変わっていく。
最後に車椅子の少女と母親が出て行ってから、屋上で日を浴びているのは、俺一人になった。
俺はまだ、夢から覚めたばかりのような、不思議な感覚から抜けられないでいる。
この首の傷があっても、まだどこか信じられないような……まるで何年も昏睡していた中で見たような、夢のような出会いだったから。
その時、俺の後頭部に、コツンと固いものが当たった。
「おはよう、便利屋さん」
聞き覚えのある声に、俺は目を見開いた。しかしすぐに、自然と表情が緩む。
こんな時間に目覚めのあいさつをする変わり者は、俺の知り合いにひとりしか居ない。
「あぁ。これから仕事か?」
「まぁね」
ため息混じりの返事が聞こえ、銃に見立てた指が頭から離れた。
踊るように軽い靴音を鳴らし、小さな影が、俺の隣に腰かける。
三日ぶりに見た姿は、相変わらずちんまりとまとまり、青白く硬い表情は、夕日を浴びても健康的には見えなかった。
曇り空のようなグレーの瞳が、ちらりとこちらに向けられる。
「生きてたんだ」
「生かしてくれたんだろ」
ニヤッと笑って言うと、アルベールは照れくさそうに目をそらした。
「気まぐれ。あのまま悪魔に取り込まれて、消滅させてもよかったんだけど」
そしてすらりとした足を組み、膝の上に両手を組む。
その様は妙に絵になり、一瞬背後に花が見えたのは……たぶん、幻覚だ。
相変わらず、素直じゃない。紛れもなく本物のチビ助に、思わずニヤニヤ笑いが浮かんでくる。
しかし、すぐに細い瞳孔がそれを捕らえたため、俺は慌てて口元を押さえた。
「それで、こんな腐りかけのボロ病院に、花も持たずに何をしに来たんだ? あの世の王子様が、直々にさ」
「まぁ……君のおかげで、一度に結構な数の悪魔を退治できたんだし。君も、救いようのないバカじゃないかなと思って」
「それ、礼のつもりか?」
「一応ね」
アルベールはため息ともとれる曖昧な返事をし、すっくと立ち上がった。
あの日と同じ黒のコートが、不釣合いな夕風にはためく。
日没の輝きを増す夕日に照らされ、アルベールが少し顔を顰めた。
「もう……行くのか?」
俺はアルベールの横顔を見つめ、静かに呟いた。
アルベールが振り返る。月明かりのないせいか、グレーの瞳は青い輝きを見せてはいなかった。
「僕に休んでいる暇はないよ。君の中の悪魔は消えたとしても、この世には悪魔に心を許す愚かな人間たちでいっぱいだ」
そう言って腰につけた金の銃を撫でてみせるアルベールに、俺も愚か者の一人か、と俺は苦笑いした。
しかし、心に悪魔を住まわせた人間が、この世にどれほど居るのか、こいつは気づいているのだろうか。
こいつの言う“冥府の後継ぎ”になれるまで、どれだけの戦いを越えていかねばならないのか――果てしない世界の先を見据えるほど、こいつを魅了する闇の世界とは、どんなところなのだろう。
「それじゃ、もう二度と会わないと思うけど」
その声に顔を上げると、アルベールはいつの間にかフェンスの向こう側に居た。
激しく布のはためく音が響く。黒い布に視界を遮られながら、俺は小さく口を開いた。
「なぁ、俺、これからどうしたらいいんだ?」
無人の屋上で、声は思ったより良く響いた。
アルベールが肩越しに振り返る。激しい風が黒髪を煽り、青白い顔を隠した。
次代冥王の返答は、なんだろう。また生意気に、勝手にすれば? とでも言うのだろうか。
苦笑いして答えを待っていると、アルベールは目を細め、控えめに微笑んだ。
「Est-ce que vous voulez mourir?」
呪文のような聞きなれない言葉が、沈む夕日の光に乗り、こちらに届く。
アルベールを影のように浮かび上がらせる後光に、俺は目を細めた。
「君は死にたい? それとも、生きたい?」
今度はわかる言葉だ。それはとても単純で、心に刺さる質問。
その問いに答えを出す前に、アルベールは建物の端を蹴った。
「Je vis、僕は生きるよ」
一面に閃光を走らせる夕日を背に、小さな影はふらりと揺れる。
俺が手を伸ばす頃には、アルベールの姿は、もうそこにはなくなっていた。
地上五階から人が転落したら、どうなるかぐらい、バカだと言われた俺にだってわかっている。
しかし俺は硬くこぶしを握り、沈みゆく夕日の、最後の輝きに誓いを立てた。
「あぁ……俺も生きるよ」
夕日が若者を照らす
歩き出す未来へ
愚か者よ 前へ 進め
A bientot...