第三話 林檎と世界
それは、初めて見るモノだった。
「齧ってごらん?」
私に見えたのは揺れる赤色だ。
それは大凡、森に自生する自然樹の実のような形をしていた。ただ一つ違うのは、色だ。かの木の実は青々とした緑色をしている。種ばかりで酸味が強く、とても食べられたものではない。けれども、この実は赤い。まるで太陽がそのまま実ったようだ。太陽はどんな味がするのだろう。私は紅玉をそっと掌に乗せると、ひとくち口に運んだーーー。
外の世界は、私の知らないモノに満ち溢れている。
「アルフ!あれは何だ」
「あれは馬車だ。ひとを運ぶ乗り物さ」
「あっちは?」
「市場だよ。生活に必要な、いろいろなものを売ってる。欲しいなら買ってあげる」
「…あの生き物は?」
何よりも目を引いたのは、大きな馬でも色鮮やかな商店でもない。
視線の先にあるのは、一人の小さな少年だった。傷だらけの体にボロ布一枚纏い、足には鎖の足枷、背には背丈ほどの麻袋を背負う。少年には重た過ぎるのであろう。すぐにバランスを崩し転倒してしまった。
『この役立たずが!』
『今日で何度目だと思っている!?』
『貴様はロクに荷物も運べないのか』
『誰が食わせてやってると思ってやがる』
『…いいか、次やったら首を刎ね飛ばしてやるからな!』
『分かったらさっさと動け!このクズが!!!』
少年に鞭が降りかかろうとした時、視界が暗転した。
「…君が見るようなものじゃない」
「あれは、お前達と同じ姿をしているな」
「でも、同じじゃない」
「何が違うんだ?」
「…違わないよ、何一つ」
「解らないぞ」
「俺にも分からないや」
そう言ってアルフは困ったように笑う。
同じなのに、同じじゃない。
違うのに何一つ違わない。
では、両者を隔てるものとは一体何だろう。この世界は、私の知らないコトばかりで出来ている。
「林檎、もう一つあげようか?」
差し出された赤い果実を受け取る。
ひと口齧ると、甘い果汁が口一杯に広がった。甘い、甘い。私はひと口だけ口に入れると、残りを全てポケットの中に仕舞った。
* * *
僕は狭い路地裏に身を潜めていた。
遠くから主人の怒鳴り声が聞こえる。見つかったらまた痛い目に合うんだろうな。傷だらけの体を抱え、僕はまたため息をついた。
ぐう、と腹の虫が鳴く。思えば最近、まともな食事らしい食事をしていない。もっとも、食べたい気分にもならないけれど。何故こんな時でもお腹は空くのだろう。僕は生きていたって仕方ないのに。
「なら、私が食ってやろうか」
心を透かしたように、その声の主は嗤った。白い、白い。まるで雪のような真っ白な髪に、林檎みたいな色をした赤い瞳。羽さえあれば天使にさえ見えたかもしれない。気がつけば、彼女はいつしか、そこに立っていた。
「…天使さん、僕を迎えにきたの?」
「死にたいなら食べてやる。私は丁度、腹が減ってるんだ」
「食べるの?」
「痩せていてあまり美味そうじゃないがな」
肉食獣を思わせる鋭い牙が、キラリと光る。不思議と恐ろしいとは思わなかった。この痩せっぽっちの骨と皮だけの身体も、彼女の血と肉となれるならば、喜んで捧げよう。
「いいよ。生きてたって、いい事ないし」
「そうか」
「散々さ。僕はこんなことがしたくて生まれたんじゃないのに」
僕にも夢があった。
騎士になりたい。理由は単純、強くてカッコ良いから。この国の男なら一度は夢見る、職業の花形。僕はずっと憧れてーーー…いや、そんなのは嘘だ。僕はただ、平穏に暮らしたかっただけなのだ。盗賊に村を襲われ捕まって、家族と離れ離れにされた。生きているかどうかも分からない。ああ、もし僕が大人だったら。もっと強かったら。勇気があったなら。…もう遅いだろうか。僕は。
「…嫌だっ、まだ死にたくない!!」
耳元で、錠の落ちる音がした。
「ーーーなんだ。
やっぱり、生きたいんじゃないか」
ガチャン、と音を立てて鎖が引き千切られた。だらんとぶら下がった金属の糸を手に白い死神は微笑む。彼女は僕の掌に齧りかけの赤い実を置くと、音もなく消えた。
果実をおもむろに口に運び、ひと口齧った。
「…酸っぱいなぁ」
その果実は、太陽の味がした。
「どこに行ってたんだい?」
「さぁな」
「楽しそうだね」
「楽しいな」
「それは良かった」
外の世界も悪くないなぁ、と思うのだ。