第1章 滅びの市(まち)-1
「リュナ、急いで! こっちよ!」
美しい顔も、スレンダーな体にまとったエレガントなドレスも見る影もなく煤と泥で汚した女性が、強く自分の右腕を引く。
「軍は戦術核の使用を決定したそうだ。グズグズしてると俺たちまで巻き添えになるぞ! ……ああ、リュナ。心配しなくていいよ、空港に避難用のヘリが待ってるからね」
高級そうなスーツとネクタイをやはり煤だらけにした男が、自分を見下ろすようにしてやや無理のある笑顔を作る。
(お母さん、お父さん……リュナって誰?)
ああ、そうか。
――私の名前、だ……。
街は炎と黒煙に包まれていた。
何処か遠くから絶え間なく轟いてくる砲声。
喧しいローター音を響かせて頭上を横切る戦闘ヘリの機影。
(みんな……なにと戦ってるの?)
間もなく分かった。
ミラーガラスを全面に張った鏡の城のような超高層ビルが、轟音を上げて倒壊する。
キラキラと輝きながら飛散するガラスの破片を、一瞬キレイだなと思う。
だがそんな無邪気な気持ちも、傾いた窓から悲鳴を上げて落下していく何百という人々の姿を目にして戦慄へと変わった。
崩れ去ったビルの向こうから、ぬめっとした甲殻に身を包む、機械とも生き物とも知れぬ巨大な怪物が現れた。
上空に展開した十数機の戦闘ヘリから、一斉にミサイルが発射される。
白煙を曳いて矢の如く怪物に向かったミサイルは、なぜか途中で軌道が逸れ、てんでバラバラの方角に落下し、そこで爆発した。
「無駄なことを……これじゃ軍の連中も一緒に街を壊してるようなもんじゃないか!」
吐き捨てるようにお父さんがいう。
だからといってどうすることもできないが。
自分もまた、両親に手を引かれるまま、まるでパレード見学のように大勢の人々にもみくちゃにされながら走っていく。いや、単に人混みに流されていただけかも知れない。
甲高い声で怪物が吠え、空気がビリビリと震えた。
「耳が痛いよぉ!」
両親も同じだったらしく、それまでしっかり握っていてくれた手を放し、それぞれ自分の耳を押さえて顔を歪めている。
いや。お母さん、私の手を放さないで――。
怪物が咆吼と共に放った見えない「力」が、上空でホバリングするヘリ部隊を玩具のようにはね飛ばし、一瞬にして全滅させた。
(あなたは誰? なんでこんなひどいことするの?)
耳を塞ぎながらヘリ部隊の最後を見上げていたみんなの背後が、急に騒がしくなる。
今まで逃げようとしていた方向。
軍が避難用の輸送ヘリを待機させてあるという空港へと続く街路上に、やはりビルを押し倒しながら2匹目の怪物が出現したのだ。
完全に前後を塞がれた。
「大丈夫よ、リュナ。私たち、最後まで一緒だから――」
泣き叫んだり喚いたり。怒鳴り散らして互いに殴り合ったり。
完全なパニック状態に陥った大勢の大人たちの真ん中で、座り込んだ自分を庇うようにお母さんが抱き締めてくれる。
さらにそのお母さんごと庇うように抱きかかえ、お父さんは、日曜に教会で唱えるお祈りの言葉を呟いていた。
(もうお終いなの? なんでこんなことになっちゃったの? お父さんがこんなにお祈りしてるのに――)
神様は助けてくれないの?
答えはすぐに返ってきた。いちばん残酷な方法で。
いよいよ怪物の巨体が目前に迫ってくる。
(リュナたち、死んじゃうの? あのヘリコプターに乗ってた兵隊さんたちみたいに)
怪物の口が開く。だがそこから出てきたのは、戦闘ヘリを撃墜したあの見えない力ではない。
ヘビのような、ミミズのような――嫌らしくうねる数知れない肉の紐。
それは素早く降りてきたかと思うと、路上にいた大人たちの何人かを捕まえ、軽々と宙へ持ち上げた。
最初は手足をジタバタさせて泣きわめいていた人々の動きが急に止まり。
風船が膨らむようにその輪郭が変わっていく。
衣服が破け飛び、たちまち怪物と同じ姿に変わったかと思うと――。
薄い羽根を広げて舞い降り、さっきまで一緒に逃げていた同じ街の人たちを襲い始めた。
「あの噂は本当だったんだ……」
耳の側で、独り言のように呻くお父さんの声。
「奴らは俺たち人間を『同化』する。ただ仲間を殖やすために、この地球へ――」
いやだ。
あんなやつらの仲間になんかなりたくない。
それに――お父さんやお母さんまであんな怪物にされるくらいなら、ここでみんな食べられちゃった方がずっとマシ。
お願いします神様。リュナたちもさっきの兵隊さんたちのように殺してください。
天国では、きっといい子になります!
その祈りも虚しく、あの不気味な触手が体に巻き付いたかと思うと、ふわりと体が浮き上がり、目の前の道路や街がクルクルと回った。
こちらに両手を伸ばして何事かを叫ぶお父さんやお母さんの姿が、一瞬だけ視界を過ぎる。
憶えているのは――ここまでだ。
――波の音が聞こえる。
つんと鼻を突く、潮の香り。
それもそのはず。自分が座っていたのは小高い丘の上、ちょうど海を見下ろす位置にある、医療施設近くベンチだった。
ちょうど幼い頃両親に連れて行ってもらったリゾートアイランドを思い出すが、ここは厳密な意味で普通の「島」ではない。
メガフロート・シティ――技術的なことまでは詳しく知らないが、要するに大きな浮体ブロックを幾つも海上に並べ、その上に築かれた巨大なハイテク人工島だ。
海底から採掘されるメタンハイドレートを燃料として豊富な電力が供給され、いざというときは島ごと移動することさえ可能だという。
もっともこうして土を盛って造成された人口丘の上から見る限り、天然の島に比べても何ら違和感を覚えないが。
「奴ら」――エントゥマは主に大陸部を狙い、百万とも2百万ともいわれる戦力で攻撃をかけてきたが、なぜか未だに沖合の海洋には進出してこない。
もともと陸生生物であるからか。あるいは海水の成分にエントゥマの行動を阻害する何かがあるのか――未だに真相は不明だが、今の所各所に築かれた人口海洋都市だけが奴らの侵攻を免れた、人類にとって最後の楽園といえる。
蒼空を漂う綿菓子のような雲。
白波を立ててさざめく群青色の海。
故郷の街がエントゥマの襲撃を受けた、あの地獄の日々がまるで夢のようだ。
(でも……)
長袖ブラウスの袖をまくる。
両腕に浮かび上がる、幾何学状の奇妙な紋様。
あの街からどんなに離れても。
あの日からどんなに歳月が流れようとも――。
忘れることなどできない。いや、忘れさせてくれない。
両親とは、あれが最後の別れとなった。
エントゥマに「同化」されてしまったのか、食い殺されてしまったのかは分からない。
故郷の街自体があのあと核砲弾により消滅してしまったので、もはや調べようもないのだ。
ICBMでは人類側の被害が大きすぎ、巡航ミサイルや戦略爆撃機は接近した段階で生体ジャミング波を浴び電子機器を狂わされ誤爆を引き起こす可能性が高い。
自走榴弾砲から発射される核砲弾。慣性誘導のみで飛行する旧式の中距離弾道ミサイルなど、皮肉なことにもはや博物館入りも同然だったシロモノが、今の所エントゥマの侵攻を食い止める数少ない手段だ。
しかしそれらも残留放射能による二次被害を考慮し、間もなく国連安保理で使用中止が決議されるという。
各地で抵抗する各国軍は近く設立される全世界共同体――「GC軍」として再編成される。
この海上都市にも各国の優秀な研究者が集められ、これまで得られたデータを基に新たな対エントゥマ専用兵器を開発中という噂だった。
(この先……どうなっちゃうんだろう? 私も、この世界も)
ブラウスの袖を元に戻し、ぼんやり水平線を眺めていると、研究棟の方からワイシャツの上に白衣を羽織った青年が小走りに近づいてきた。
「やあ、お待たせ」
「――先生!」
青年の顔を見るなり、それまでの憂鬱も一時忘れ、思わず顔が綻ぶのが分かる。
そう。こんな風に笑えるようになったのも、ここに来て、この人と巡り会えてから――。
「退屈だったろう? 悪かったね、昨日の精密検査の結果をまとめるのに手間取っちゃって」
「ううん、ちっとも退屈なんかしなかった。景色が綺麗だから」
青年の小脇に抱えられた大判の封筒を見やり、
「で……結果はどうだったの? 私の、体……」
「ああ、全然心配ないよ」
片手でOKサインを出しつつ、自分の主治医である若い医師は少しおどけた調子でウィンクした。
「心配だったのは核被爆の後遺症だったけど……内蔵にも血液にも異常はなし。君は完全な健康体だよ」
「よかった! それじゃあ、治せるよね? この変な痣も」
「……」
一瞬、青年の笑顔に陰りが差した。
「どうしたの? 治療費だったら、これから働いてでも――」
「それは痣でもケロイドでもないよ。もっとこう……違うものなんだ」
「私はイヤよ! せめて、顔や腕に残った分だけでも手術で取って!」
自らの体に刻み込まれた異形の紋様。
それは単に見栄えの問題ではなく、あの生き地獄から1人だけ「生き残ってしまった」罪の刻印でもある。
(神様……ひどいよ。あんなにお祈りしたのに)
なぜ両親や街の人たちでなく、自分だったのか?
感じるのだ。口には出さずとも、エントゥマ災害で家族や親しい人々を喪った遺族に会うたび、彼ら彼女らの視線が突き刺さってくるのを。
――へえ? よかったじゃないアンタ。「奴ら」のお目こぼしに預かってさ!
「まず落ち着いて聞いてくれ。君みたいに、エントゥマに襲われながら殺されず、『同化』もされなかった人たちが他にもいる。ただし千人に一人いるかどうかって確率だけど」
青年は自分の肩をつかんで再びベンチに座らせ、自らも隣に座った。
両肩に感じた温もりと、間近で見る彼の優しげな笑顔で、昂ぶった気持ちがいくらか鎮まった。
「そして生き延びた人たちの体には、なぜかその幾何学的な紋様が残された。……いや、紋様だけじゃなく、身体能力、反射速度、免疫力……それら全てが、一般人の水準を遙かに上回っている。あるいは、放射線被曝の影響を受けなかったのも、その――」
「そんなのイヤ! 全然嬉しくない! 私、ただ普通の女の子に戻りたい!」
思わず叫んでいた。
初めのうちこそ「奇跡の生存者」としてマスコミなどからもてはやされていた自分も含む生き残りの人々。だが世界各地でエントゥマの侵略が本格化し、死者・行方不明者が十億単位を越えた頃から。またエントゥマに襲われた人間の多くが「同化」され、侵略者の同類と化している事実が明るみに出るにつれ、世間の目は変り、あからさまな偏見と憎悪がはびこるようになった。
「エンティ」――それが、自分たちに与えられた蔑称。公式には「サバイバー」という呼称を適用されるが、世間一般の人々は誰もそんな官製用語は使わない。
体に残された幾何学的な紋様が、エントゥマ(といっても多種多様な形態が存在するが)の体表面に浮かぶ独自の模様を連想させることからついた呼び名だろう。
この先一生、この蛮族の刺青のような紋様を隠すため、長袖の服やマスク、サングラスをかけて生活しなければならないのか?
考えただけで吐き気がしてくる。
「君には辛いことかもしれないけど……あるいは君や、その他幸運にも生き延びた人たちの体を研究することで、核兵器なんかよりずっと安全で効果的なエントゥマ対策が見つかるかもしれない……何も卑下することはないんだよ? 君たちは、人類を救う鍵になるかもしれないんだ」
「……」
思考が空転し、ただ唖然として若き主治医の顔を見つめる。
私が人類を救う鍵? いったい何の話?
あまりに唐突すぎて考えがついていかない。
温かい感触。いつしか青年の両手が自分の両手に重ねられている。
澄んだ茶色の瞳が、真摯な眼差しでこちらの目を覗き込んできた。
(ば、バカっ……私ってば、なにドキドキしてるのよ? いくら若くたって、相手は軍研究所の偉いお医者さんじゃない!)
顔の火照りを覚えながら、僅かに目を伏せたとき、耳許でそっと囁く声が聞こえた。
「僕からも改めてお願いしたい。……協力してくれるかい? リュナ」
ああ――今思えば、あれって初恋だったのかも。
でも彼、何て名前だったかしら?
ええと、確か……。