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雨はだめ

 放課後。


 教室の窓辺に近付き、そっと空を仰ぎ見る。薄い青をバックに綿のような雲が少し浮いているだけで、いまのところ雨を降りそうな気配はない。


 雨はだめ。

 真っ黒な雨は、その色の持つ邪悪さそのままに人の肌を溶かしてしまう。


 傘師だけはその雨に触れても平気なのはどうしてか?

 理由はいまのところ誰にも分かっていない。そして、傘師が傘を持つと不思議な力を発して雨雲を消滅させられる理由もしかり。


 校舎の裏門から寮へと続く細道は満開の桜で彩られており、授業という一日の義務を果たした生徒たちが軽やかにその下を通り抜けている。見るともなしに見ていたその光景から視線を引きはがして教室を出ると、二階にある二年生の教室へ向かうため階段へと向かった。わたしが教室を出るとき、熱心なクラスメイトは居残って勉強していた。みんな自分の将来をよりよいものにするため努力しているのだ。


 みんな真面目だと感心したのも束の間、見るからに自堕落的な生徒を発見する。階段の踊り場にたまっている、品行方正とは対極に位置する数人の男子。ある者は座り込み、ある者は手すりに腰掛けている。彼らの金髪やピアスは不健全な気配を周囲に撒き散らしている。わたしはそばを通らなくちゃならない自分の不幸を呪いつつ、階段を降りる足を速めた。


「そういや、2Aにユウリそっくりな女子がいるらしいな」


 まるでわたしが近づいたのを見計らったかのようなタイミングで、彼らの中からそんな声が発せられた。思わずそちらを向くと、茶髪や金髪の中に一人だけいる黒髪の男子と目と目が合った。目立つ存在だから顔は知っている。でも、今まで同じクラスになったことがないし、不良とは交流がないので名前は分からない。ひょろりと背が高く、目は眠そうな感じを受ける垂れ目。けれどその瞼の奥には、不穏なほど妙にぎらぎらした二つの瞳がある。


 その男子は真っ直ぐこちらを見て何かを言いかけたけれど、わたしは急いでその場を去った。不良とは喋りたくはないし、少ない時間は無駄にできない。


 けれど、不良の話していた内容はわたしの好奇心を刺激した。あのユウリに似ている子、か。ユウリはとても美人だった。あんな綺麗な子がそうそういるとは思えないし、きっと似ているといっても面影があるくらいのレベルだろう。


 そんな軽い気持ちで2Aの教室に向かったわたしは、けれど結局教室に辿り着くことはできなかった。何気なくすれ違った一人の生徒に、すべてを忘れさせられた。


 彼女とすれ違ったとき、体が硬直した。

 ユウリ!

 あのユウリと、すれ違った。


「嘘でしょう?」


 つい独り言すら漏らしてしまう。

 振り返ると、黒髪を腰まで垂らした後ろ姿は階段の方へ消えるところだった。わたしはどきどきと高鳴る胸を押さえて、彼女の消えた方へ走った。


 あの横顔。

 あれはまさにわたしの親友、有松ユウリのものだった。


 冬の朝のように儚い茶色の瞳。それをもう一度覗くことができるのだと思うと、切なさと喜びで胸が痺れそうだった。


「待って!」


 階段を降りる彼女に追い縋り、やっとの思いでその背中に声を掛けた。

 彼女は自分が呼びとめられたとは思わなかったらしく、そのままその他大勢の生徒に混じって玄関を出ようとする。代わりに全く関係のない何人かがわたしの方を見た。こんな大声を出すなんて普段のわたしにはないことだけれど、それでももう一度叫ばずにはいられなかった。


「待って、ユウリ!」


 ガラス戸を押して玄関を出ようとしていたユウリは――いや、ユウリによく似た二年生は――、そこでようやく振り返った。黒髪がなびいてふわりと周囲に風が吹く。


 目。


 その瞳は予期に反して漆黒だったけれど、目鼻立ちは驚くくらい酷似しているから、それくらいの違いは光の錯覚だと言ってしまってもよかった。


 たおやかに振り返った彼女は、走り寄るわたしを見るときょとんとした顔になった。そんな何気ない表情も実によく似ている。


「あの、わたしは三年の涌波ミナミという者なんだけど……」


 勢い込んでそこまで言うと、ユウリ(もう名前が分からないからこう呼ぶことにする)は青色のブレザーを翻し、わたしを置いて外へ飛び出した。今度はわたしがきょとんとした顔をする番だった。


 会話を拒まれた?

 あんなに分かりやすく?

 わたしも駆け出す。


「ねえ、待ってってば!」


 他の生徒たちの何事かと驚く視線が痛い。けれどわたしは諦めなかった。かけっこなら彼女に負けない自信があった。去年一年間任務をした三年生が、瞬発力や持久力で二年生に劣るなどありえない。


 てっきり寮に向かうと思ったものの、先を走るユウリは予期に反して校舎をぐるりと周り、正門に向かうルートを選択した。


正門の先の緩やかな下り坂が、永遠のような長さに感じられる。わたしは少し前のめりになってローファーを打ちつけるように走る、走る、走る。ユウリはわたしが思っていたよりずっと早く、重力を伴っていないような軽やかな足取りで眼下の繁華街を目指す。


 風が吹くたびに道脇の桜がその花びらを儚く散らす。ユウリの艶やかな黒髪を、紺色のブレザーの華奢な肩を、スカートから伸びた白い脚を、淡いピンクが彩る。わたしは肺の奥まで息を吸い込んで走った。届きそうで届かないその背中を追って。


 ユウリはそのまま多くの人でにぎわいを見せる細い路地に飛び込んだ。女の子向けのお店が軒を連ねる通りだ。様々な種類の制服に身を包んだ少女たちが、壁のようにわたしの前に立ちはだかった。カバンを腕に抱いてそれをくぐり抜けようとしたけれど、軒先に置かれた、衣類がいっぱい詰め込まれたカートにぶつかって思わずよろめく。その内にいままで視界に入っていた彼女の姿が見えなくなってしまう。


 「待って……」


 だめだ。完全に見失った。

 どうして逃げるの……。


 あした学校に行けばまた会うことができる。いや、いますぐ寮に帰って必死に探せばその姿を見つけられる。それなのに、わたしは彼女の姿と一緒に何か大切なものを見失った気がして、ショックにめまいがした。しばらくそこに立ち止まっていたかったけれど、人の流れを遮るのはあまり褒められた行為ではない。数人で並んで歩く制服たちの間を縫うように歩を進める。目の前に高度を下げつつある太陽があり、内心とは裏腹に光の中を歩いているみたいだった。


 周りはどれも似たような外装のこぢんまりした店。人々は吸い込まれるようにその中に入り、また吐き出される。わたしと似たような年代の少女たちは、揃いも揃って仲間内以外には無関心を決め込んでいる。来た道を引き返せば早く寮に帰れるのに、気が付くとだらだらと流れに身を任せて歩いていた。色んなトーンの声が近付いてはまた離れていく。


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