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この痛みすら、わたしにとっては喜びとなる

 雨が降る日曜の夜までに、わたしはきっちり準備を整えた。


 まず、シキトと別れた後にカナミズ地区の役所に電話を入れ、雨が降り始める時間を伝えた。そうすれば、役所の人が住人にそれを伝えてくれ、住人はいつからいつまで家に閉じこもっているべきなのか分かる。電話口の男性はとても相手が女子高生とは思えないほどかしこまった様子でわたしの話を聞いていた。傘師さまさま、というところだろうか。


 そしてその夜は、寮から歩いて五分ほどの位置にあるトレーニングジムに足を運んだ。普通のジムではなく、傘師の能力を高める傘師のための施設だ。一般的なジムにあるような器具やプールはもちろん、傘師しか使わないような特殊な器具がある。


 更衣室で水着に着替え、その内の一つ――「無呼吸カプセル」の中に入る。

 このいかにもストイックな名前の器具は、傘師が任務の際に受ける感覚を疑似体験できる。


 ひと一人が立ったまますっぽり収まるくらい大きな楕円形カプセルが、薄暗い部屋にずらりとならんでいる光景は、まるでSF映画の一コマのようだ。狭い通路は青色の仄かなライトに照らされているだけで、足先は闇に沈んでいる。


 この空間にはいま何人の生徒がいるんだろう。そんなことを漫然と考えながら、口を開けているカプセルの一つを適当に選んで入る。


 もともと何の音も聞こえなかったけれど、閉ざされた空間に身を置くと沈黙が痛いくらいだった。ガラス越しに闇を見つめる内にカプセルはその口を閉じ、ガチッという機械音の後に足元から水が浸入してくる。


 じわじわと水に侵されていくカプセルの中で、思考は様々な方向に飛ぶ。まるで冷たさ、薄暗さ、息苦しさから逃れるように。


 日中のシキトとのやりとり。

 わたしを呼び出した森本怪しい笑み。

 転校したユウリ。

 胸の中に数えきれないほどの「なぜ」が去来する。


 なぜ?

 なぜ?

 なぜ?


 対象も分からないままひたすら自分に尋ねる。

 分からない。脳がぐにゃぐにゃになったように何も考えられない。


 頭が少し、痛い。


 水位は上がり続けている。もう胸の位置まで冷たい水に浸っていて、圧迫感に呼吸が乱れそうになる。それを落ち着けて再び思考の波に身を任せる。


 どこかへ帰りたい。そんな思いがふと、頭をよぎる。

 どこかへ帰りたい。だけど、帰る場所がない。

 わたしの生まれ育った家にはもう、誰も住んでいない。


 お父さんはどこへ行ったのだろう? 

 お母さんはどこへ行ったのだろう?

 もう一緒には暮らしてはいないはずだ。


 先生たちはよく「立派に育ててくれた親御さんに感謝しなさい」と言う。でも、わたしにはどうしてもそれができない。どうしても、できない。幼稚なんだろうか。


 家の雰囲気は好きにはなれなかった。


 他の子の家とは違って、そこに生活の営みがまるでなかった。

 きっと傘師の素質がなかったら、わたしは高校に行くこともできなかった。


 わたしに親らしい態度で接して欲しい。

 朝は「おはよう」を、夜は「おやすみ」を言って欲しい。

 わたしにちゃんとした大人の姿を見せて希望を与えて欲しい。


 なぜ?

 なぜ?

 なぜ?


 こんなことを思うわたしは幼稚なんだろうか。

 とうとうカプセル内に水が満ちる。わたしは無呼吸状態で冷たい自分の腕を抱く。


 傘師になれると知った日。

 あの日は、わたしの灰色の人生の中で最も輝かしい瞬間だった。

 中学三年生のときに実施された、傘師の適性調査を思い出す。


 血液を採取したり、腕の内側に黒い薬品を塗ったりするそれを、わたしは健康診断の一種だと捉えていた。まさか自分が傘師になれるとは思っていなかった。人々の生活を守るなんて、そんな輝かしいことが自分にできるわけなどないと。


 だからその数日後、シキトと職員室に呼ばれ、傘師になることを伝えられたときは当然驚いた。先生はこれ以上ない名誉だと、まるで自分のことのようにわたしたちの未来を喜んでくれた。シキトは「がんばるぞ」と言わんばかりにわたしの頭を軽く叩いた。わたしはただただ嬉しかった。


 わたし本当の人生はそのときから始まった。


 そしていま、新しい名字になって、新しい自分となって、わたしはカナミズ第一高校にいる。親友がいなくなったり、リーダーを押しつけられたりもしたけど、わたしは過去のいつよりずっと、ずっと恵まれている。


 いつかの、

 いつかの自分に戻ってしまわないために、やるしかないんだ。

 いまできる何もかもを。


 水の冷たさ。

 呼吸のできない苦しさ。

 閉じ込められた窮屈さ。


 傘師でなければ感じなかったこの痛みすら、わたしにとっては喜びとなる。


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