7.『風の共鳴』(1)
彼は前から店の前を通るたびに、この絵が気になっていたという。
しかし、骨董店などに入ったことが無かったため、すぐには入れなかったとのこと。
そして、店にいったん入っても、すぐに絵に向かうのではなく、まずは店の品物を眺めていたことについては、
「だって、すぐに目的を果たしてしまうのって、もったいなくありませんか?」
とのこと。もったいないかどうかは分からない。彼はそこで微笑みかけてきた。
「そうですね。そういうことってありますよね」
客の話に合わせるように相槌を打つアッチェラードだが、なんだか相手のペースに呑まれているようで、しまった、という気がする。なぜだかよく分からないが、この男が明快すぎるからなのかもしれない。骨董店にいつも来る、多分に思索的な客とは違った種類の人間だ。いつも体を動かしていて、血が活き活きと全身を巡って溌剌としている。この男の前だとアッチェラードは自分が化石のような気がする。
アッチェラードが、この絵は友人の画家が個人的にくれたものなので売り物ではなく売れない、と言っても、
「ああ、そうなんですね。残念!」
と、言ってから、
「でも実は内心ほっとしました。手に入らなくて。そういうことってありますよね?」
と聞いてくる。
「そうですか」
「そうなんです。この絵はここから動かしたくない」
そう言うと絵を見上げた。
「題名はなんと言うんですか?」
「『風の共鳴』といいます」
若葉色の風。空色の風、レモン色の風。
風が、金緑色の太陽と、銀青色の月の周りを渦巻いている。
遠くを見ている横顔の風の精の一群。
その中に、風化した砂漠の遺跡。
砂漠の砂は左手奥の遠景の海へと注ぎこみ、
右手手前からは植物が緑色の触手を砂漠へ伸ばしている。
全てがノスタルジックで、澄んだ雰囲気だ。
「どんな風ですか?」
その質問も変わっていると思うが、アッチェラードにはその答えがあった。
「あの……魔法という意味の風ではなくて、物を未来へと運び去る時間の風だと聞いています」
「ああ、なるほどね」
今の説明で分かったのだろうか。
コーダ王国には、魔法は風という概念がある。人の思念を空気に溶かして魔法として凝固させ、風のように魔法をかける相手へ飛ばすのだ。
しかしこの絵の風は魔法ではない。アッチェラードは説明が不足していると思い、補足する。
「あの……。時間の風というのはつまり、現実に感じる風ではなくて……」
「時間ベクトルへ向かって吹く風、ですよね? 縦・横・高さではなく、時間軸に沿って空気が移動しているっていう」
「そうです」
「友人の持論でよく聞かされてるんだ」
「ああ、そうなんですね」
この絵を描いたラジャブじいさんは、王宮に伺候している学者のエスプリ様が教えてくださったことからヒントを得てこの絵を描いたという。エスプリ様というのは通称で、本名はエスプレッシーヴォだったかエスペランサだったか、長い名前だったが、その短縮形なのか学者という職業からか、通称エスプリ様である。
剣士の友人もエスプリ様から聞いたのかもしれない。いずれにせよ、分かる人がいてくれて嬉しい。
「それで、『風の共鳴』っていうのは、何と何が共鳴しているんですか?」
何がって、風と風じゃないですか? と思ったが、考えてみたこともなかったので、アッチェラードは言葉に詰まった。
「ちょっと……、この絵の作者も亡くなっているので分からないんですが……」
剣士は、またこの絵を見に来てもいいですか、と言って、その日は帰って行った。
アッチェラードはカウンターの後ろに座って、どっと疲れが出た。
見慣れた店内のタペストリーやガラス製品、全てが色を塗り替えたようだった。ちりや、何百年の歴史が一掃されて、今ここにある世界にいるちっぽけな自分が取り残された。アッチェラードは結び目を引っ張って髪をばらばらとほどいてしまった。深呼吸。