プロローグ ―黒魔女の館―
2015.8.12 第1章投稿後にプロローグを割り込み投稿しました。
「せめてお前だけでも生き延びてくれ」
ヴァルナ城に既に火の手は上がった。空に黒煙が立ち上る。
「お父様、私はまだ戦えます!」
少女は窓から眼下の敵に向けて、得意の風魔法で攻撃してきた。
まだ魔法力に余力はある。
だが、敵の兵士たちは蟻のように城を取り囲み、勝利を確信して勝どきを上げている。
コーダ王国軍の将軍であるペントザリ公の赤地に黒の鷲の紋章の旗が翻っている。それに加え、別の旗もちらほらと見える。
「まさかあいつが裏切るとはな」
追いつめられたヴァルナ公爵は、眼下にはためく紺地に黄色の蝙蝠の旗に苦々しい一瞥をくれた。長年信頼して来た従弟の旗だ。
「もうこれまでだ。無念だが、お前だけでも生き延びてくれ」
「お父様は? お母様は?」
「私たちは最後まで戦うわ」
「反逆罪は死罪だ。捕まって死ぬくらいなら戦って死のう」
「でも、でも……」
「愛しいラチェニツィア。どうか生き延びておくれ」
少女は溢れる涙をこらえることができない。
家族は最後の抱擁を交わした。
「もう時間がありません。すぐに敵兵がこちらにも押し寄せるでしょう」
若い騎士が少女を促す。
「ラチェニツィア、親の無念は晴らさずとも良い。お前はただ、生き延びて幸せになってくれ」
父母の姿が黒煙の向こうへ遠ざかって行く。
真っ赤な髪を波のようになびかせた小柄な母。
茶色の髪の堂々とした体躯の父。
その後ろ姿が見えなくなるまで見送った後、少女の唇は美しい顔には似合わぬ呪いの言葉をつぶやいた。
「この恨みは消えることは無いでしょう。復讐の炎はくすぶり続けるでしょう。ヴァルナ公国の栄光を踏みにじったコーダ王国よ、未来永劫呪われるがいい……!」
ヴァルナ城の落城後も、城下の町は引き続いて戦火の中にあった。
市民の抵抗が続いたからである。
こうした抵抗運動は後の世にレジスタンスと呼ばれる種類の抵抗運動である。
徹底的にヴァルナの町が破壊されて行く中、市民も自らの町に魔法による罠をしかけた。
愛する町を自身で破壊する、捨て身の作戦だった。
しかしそれも、圧倒的な数の敵の前に、わずか1週間ほどで壊滅させられた。
ヴァルナの町を支配下に置いたペントザリ公率いるコーダ王国軍は、略奪と破壊の限りを尽くした。捕虜を取ることはせず、敵兵は全て殺された。市民も抵抗運動をしたため、もはや兵と市民の別は無かった。
死にゆく男たちのうめき声、助けを求める女たちの悲鳴、子供たちの母を呼ぶ泣き声。
それらも炎が白い煙に変わるように、沈黙へと変わって行った。
ヴァルナの宝石と称えられた旧ヴァルナ公国の都は灰塵に帰した。
ヴァルナ公国は20年前の大戦でコーダ王国に併合された後も、旧来の領主であるヴァルナ公による支配が継続し、都であったヴァルナの町も変わらぬ繁栄を築いていた。それもこのヴァルナ公の反乱により、終に滅ぼされてしまった。ヴァルナ地方の名前の由縁であるヴァルナの町、ヴァルナ地方の発展の起点たるヴァルナの町の歴史はここに終わった。
ヴァルナ地方の他の町々は、ヴァルナの町の惨状を聞き、恐れに震え、恭順した。送るはずの援軍は凍結された。また、ヴァルナの町に賛同してコーダ王国の支配に抵抗しようとした一部の市民を弾圧し取り締まり、コーダ王国軍へ差し出した。
コーダ王国の人々はヴァルナの町の惨状を聞き、胸を痛めた。しかし、この反乱が長く続けば両軍の犠牲が増えただろうから、徹底的な支配により負けを認めさせることで、反乱が別の町に飛び火せずに収まったため、結果的に良かったのだと、これは必要悪だったのだと自身を納得させた。
かつての大戦での英雄ペントザリ公は、再び英雄に返り咲いた。
ヴァルナ地方の中心都市は遠い沿岸部のルーエンに移り、死に向かうヴァルナ公爵から裏切り者と呼ばれた従弟が、ヴァルナ公爵の位を継いだ。
ルーエンの町は繁栄し、ヴァルナの町の悲劇の記憶も次第に薄れていった。
ヴァルナ公爵家の身内による裏切り行為に対し、ルーエンの町の人々も皆が賛同していたわけではなかった。だが、裏切りについて表だって非難する者はいなかった。
ヴァルナ公爵の一人娘ラチェニツィアはコーダ王国軍に多大な損害を与え、“黒魔女”と呼ばれ恐れられた。
だが、反乱が鎮圧された後、城内はくまなく探されたが、黒魔女の姿はどこにも無かった。
落城の間際まで戦っている姿が確認されており、城はコーダ王国軍が包囲していた。
秘密の抜け道があったのか、それとも城内の隠し部屋に立てこもったのか。
それとも誰か不憫に思った兵士が、包囲を抜けるのをあえて見逃したのか。
忽然と消えた黒魔女はいつしか伝説となった。
コーダ王国に復讐を誓った黒魔女が今でも廃墟となったヴァルナ城に住んでいるのだと。
廃城となったヴァルナ城は“黒魔女の館”と呼ばれるようになった。
禁止していた黒魔術の資料をそのまま城内に閉じ込めて立ち入り禁止にしたコーダ王国は、その噂により人々が城に立ち入るのを恐れるだろうと、あえて噂を消そうとすることもなかった。
反乱から3年後、王都を震撼させた笛吹きの事件が起こった。後の世の言葉でテロと呼ばれる種類の攻撃である。
遠く南方のヴァルナ地方での反乱について、まるで別世界の出来事のように思っていた王都住民は、このような形で直接攻撃を受けたことに驚きを隠せなかった。
黒魔女が裏で糸を引いていたのでは、と、まことしやかに囁かれた。
その後、反乱から10年経っても黒魔女の噂は消えることはなかった。夏の風物詩の幽霊話の一つとして、子供たちに語られ続けていた。さすがに、10年も経ち、黒魔女がいまだ城の中で一人生きていると思っている者はいなかった。幽霊話でも、黒魔女の館に住まうのは、その亡霊である。
さらに去年から、黒魔女の館に灯りがともるのを見た、と証言する者も現れて、噂を補強する形にもなったのである。