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朧水月



わたしはあなたにこいをしました。



その日、橘(ひいな )はいつもなら使わない細い路地を通り、帰路についていた。

特に意味はない。なんとなく、だ。


季節は冬。


吐き出された吐息が瞬時に凍りつき、白い靄となってたなびいた。



――――ひら。



ふと、視界の隅を何かが横切ったような気がして、雛は立ち止まって振り向いた。

けれど何があると言うわけもない。

少し細い感じのする電柱。

地面には、もう殆どかすれて読めなくなっている白い『止まれ』の文字。



「……?」



気のせいか。

そう判断して再び足を踏み出す。

よくよく考えてみれば、横切った気がしたものは、明らかに今の時節には不似合い極まりない。


「……あ」


しかし再び立ち止まる。


何故なら、行き止まりだったから。



――――んなアホな。



今まで、雛は時々この通路を使って帰路についているのだ。――――否、単なる行き止まりと言っては語弊がある。雛の目の前には見覚えの無い『店』が一軒、鎮座していた。


「…………」


雛はその場に立ち竦む。


妙な店だった。


すごく妙な店だった。


まるで古びた旅館のような外観なのに、その軒先にはどこぞの土産物屋みたいに得体の知れない物が陳列している。


信楽焼きの狸。


こけし。


鮭を川から右フックで叩き出す木彫りの熊。


しかも、出入り口らしきところには『営業中』と墨で書き殴った半紙が貼り付けてある。極道っぽくて怖い字面だ。こんなに徹頭徹尾わけが分からない店を、雛は初めて見た。

どうリアクションを取れば良いのか雛が暫し呆然としていると、唐突に出入り口が開いた。


「っ」


ビビる。

ガラガラと引き戸を開けて現れたのは、どこか浮世離れした印象を与える線の細い青年。

青年は茫洋と周囲に首を巡らせ雛を目に留めると、爬虫類のように縦に割れた金色の双眸を細めた。


「――――ああ。君がそう、なのか」


ふぅん、と一人勝手に納得して頷く青年。



「……? なにが、ですか」



訝しむ雛の様子に青年はまるで頓着せず、更に淡々と続けた。


「うん。どうも、君に家の桜が懸想したそうでね」


「は?」


雛は思わず胡散臭げに呟き、首を捻った。


わけが分かりません。


「一応名乗るべきかな。私は千年(せんねん )。この『朧水月』の店主だ」


「た、橘雛です」


とりあえず、と雛を店内に招き入れた青年――――千年はそう言って急須からお茶を注いで、湯飲みを雛に差し出した。


「あ、ども」


礼を言って受け取る。

机の向かい側に座った千年が面白そうに呟いた。


「……意外と、警戒心が薄いようだね。もう少し警戒されると踏んでいたのだけれど」


千年の言葉に雛は少し考え、へらりと力の抜けた笑みを浮かべる。


「……こんな妙な店に対して、警戒するのも阿呆らしいと思いまして」


言って雛はぐるりと辺りを見回す。

この店が妙なのは、何も外観だけの話ではなかった。壁に掛かっている時計には短針も秒針も無い。

ただ文字盤と、左右に揺れる振り子だけが刻々と『何か』を刻んでいる。



――――すぅい。



立て掛けられた姿見。

その鏡面を、時折朱い金魚たちがひらひらと横切っていく。

ぶら下がる細い鉄製の鳥籠の中で、真珠色の翅を広げているのは蝶のようないきもの。

確信を持って蝶と呼べないのは、そのいきものは四枚の翅以外の構成物が見えないからだ。

こんなに変で妙な店を、深く考える方がどうかしている。

最初から何も分からないなら、放置するのが多分一番良い。


というか、いちいち思考するのが面倒くさい。


「生憎、私はあまり頭がよくないもので」


雛は苦笑交じりにそう言いながら、熱いお茶を口に含む。

馴染みはないが、胸を洗い流すような香気のお茶だ。


「あ、おいしい」


「……ふむ」


雛の暢気な様子に、千年は手元の煙管に火を点けて深く煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。


「なかなか柔軟だ。そう、自分の理解の及ばない事態に対して最も賢い方法は思考を止めることだよ。成程、桜が懸想するのも頷ける」


たなびく煙は目にも鮮やかな空色。ほら、やっぱり普通じゃない。


「……ところで、その『桜』っていうのは……」


雛が切り出すと、千年はこん、と灰皿に煙管の灰を落として席から立ち上がった。


「説明するより見て貰った方が早い」


そして、奥の通路に続く暖簾を押し上げながら、もう片方の手で軽く手招き。


「おいで、雛」


「はぁ……」


釈然としないが、雛も椅子を引いて、千年の後について歩いた。


案内されたのは中庭だった。


いつの間にか、重たい鉛色をした空から雪が降り出している。


風は無い。


音も無い。


地面にはうっすらと雪が降り積もっていた。



その丁度、中央に桜の木はあった。



桜といってもこの季節だ。花が咲いている筈も無い。どっしりとした桜の巨木に、薄く雪が掛かっているのみである。


千年の言う『桜』とは、本当に樹木の桜なのだろうか。


「あれ……ですか?」


雛が呟くと、千年は首肯で返した。


すると、



――――ふわ。


 

と、雛の目の前で何かが揺れた。

次の瞬間に現れる、真っ白な着流しを纏った少年とも少女ともつかない人影。


「っな」


「やあ、桜」


慌てる雛を他所に、千年が軽い調子で手を上げる。

桜と呼ばれた少年(?)は千年に会釈を返すと雛に視線を移し、会えたことが心底嬉しいとでも言いたげに、ふんわりと柔らかく微笑んだ。その屈託の無い笑みに雛は思わず動きを止め、おそるおそる千年にもう一度問うた。


「……あ、の。この子が、桜?」


「そうだよ。樹精と言ってね、年経た木には稀に意思が宿る。そうして今桜は君に恋をして、雛のために咲きたいそうだ」


千年の言葉に、桜は言葉が話せないのか、こくこくと何度も頷く。


「そうですか……」


『咲く』という意味がいまいち理解できず曖昧に返事を返すと、桜は雛の手をそっと取って庭先へ連れ出した。その手は普通の人間と然程変わらず、意外なほど暖かった。


そして桜の巨木の正面で立ち止まると、それを見上げる。


「……?」


雛もわけが分からないながら、桜にならって巨木を見上げた。

その後ろで、千年が青煙をくゆらせながら緩やかに微笑む。



「そら、はじまるぞ」



千年の言葉と同時、雪の薄衣を被っている巨木に変化が現れた。


最初はひとつ、ふたつ。


ちらほらと蕾が膨らみ、薄紅色の花弁が少しずつ――――ほんの少しずつ、開き始めた。


「わ……」


雛はその光景に目を奪われる。

開花は小枝ごとになり、枝ごとになり、零れ落ちるように花弁が順を追って、一斉に花開く。


みっしりと、花弁で重たげに揺れる枝。


先程まで、単なる枯れた巨木でしかなかったそれは、今や完全に様相を変え、春の盛りに勝るとも劣らない満開となった。



「――――すごい」



雛の素直な呟きに、傍らの桜が微笑んだ。

音も無く花びらは、自らの重みで枝を離れ、舞い落ちる。

厳寒の中、満開となった桜の花は、あまりにも静謐で美しかった。

雛の背筋が、悪寒ではなくざわざわと粟立つ。



なんて、綺麗なんだろう。



これが自分に恋をしたが故の桜の好意だということが、ただひたすらに誇らしく、胸が熱くなる。


しんしんと降りしきる桜の花びら。


しんしんと降りしきる雪。


いくら見たいと願ったところで不可能な筈の光景が、目の前にある。

雛は、隣に立つ桜に満面の笑みで心からお礼を言った。



「ありがとう。桜。こんなに綺麗に咲いてくれて……本当に、ありがとう。すごく、すごくすごく嬉しい」


雛の言葉に桜もまた満面の笑みで答え、不意に雛から手を離し、巨木に歩み寄る。そして、程よく花の付いた小枝を一本ぽきりと手折り、戻ってきた。

桜は手折った小枝を雛の髪にそっと挿し、満足げに頷く。




――――よく、似合う。




そう唇が動いたように、雛には見えた。


「……ありがとう」


雛が言うと、桜は本当に、本当に幸せそうに微笑んだ。

同時に、桜の身体が薄く、ゆっくりと透き通っていく。


「さくら?」


桜は、声には答えずにそっと、雛の頬に触れた。

その感触は手を握っていた時とはうって変わって、しゃぼん玉のように朧げだった。

そして、雛から手を離した桜はそのまま自身である巨木の真下まで歩み寄ると、振り返り、その場で頭を下げ、深く深く礼をした。それだけで、真摯な思いがここまで伝わるようだ。


「あ……」


同時に、桜の身体は、音も無く、ふわりと空気に溶けて散るように




――――消えた。




後に残ったのは、ただただ咲き誇る満開の桜と、ほろほろと散る桜吹雪。


「……来年」


雛が呆然とする中、ぽつりと呟いたのは千年だった。


振り向く。


千年は、微笑んでいた。あたたかく、ほんのりと、これからを見守る慈母のそれで。


「また来年、おいで。今度は春に来るといい」


「……いいんですか?」


「なに、かまわんさ。桜も喜ぶ」


そう言って、千年は改めて桜を見上げた。


「じゃあ、そうします」


雛もそう答えて、桜を見上げた。

そして桜の正面に立ち、その光景を見つめ続けていた。


不意に、



――――びゅう。



と、強く風が吹いた。


無数の花びらが枝を離れ、雛と千年の視界を覆い尽くしていく。




――――またね。




一面の桜吹雪の中、雛は桜が楽しそうに手を振っている姿を幻視したような気がした。




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