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路地裏

作者: Like a floor

 私たちの仕事場、つまりは警察署の取調室で本当に綺麗な瞳の、心の汚れなど一つもない青年は少年のような、もしくは産まれたての様な表情で私たち大人を見ていました。

 私は出来るだけ親しみを込めて

「では昨日言ったように、今までの君の人生を話して貰えるかな? ゆっくり、思い出しながらで良いんだよ」

と言いました。

 産まれてすぐ路地裏に捨てられた彼は、蛍光灯の光を仰いだりしながら話し始めました。か細い声でゆっくりと、何時間もかけて。


 「汚い路地裏で産まれた気がします。捨てられたのだと聞くまで、そう思ってました。僕とそれから”彼”と、人間はそれだけでした。後は化け物のような叫ぶことしか出来ない動物が沢山いて、見た目は僕と同じに見えたけど、”彼”が違うと教えてくれました。薬によって人間でなくなってしまったと。だから僕は”彼” としか話せませんでした。それが日常でした。

 物心つくまで、僕を育ててくれたのは不思議な生き物でした。名前はミツといいました。ミツは人で言うと女なんだと思います。夜は他の化け物と何も変わりませんでした。でも、お日様の慈悲で稀に路地裏にも光が注ぐとミツは見たことも無い暖かい目で僕を見るのです。その生き物に、私は言葉を教わりました。本当に他の生き物の絶叫とは違って、ミツの教えてくれたのは優しい言葉ばかりでした。それから、パンとスープも与えてくれました。僕はミツが好きでしたが、”彼”はいつでも言いました。

『ミツのように生きてはいけない』

”彼”の言う事で間違ったことなんて何一つないのです。”彼”はどんなに偉い学者よりも、真実と言うものを知っていました。僕はずっと”彼”の言うとおりに生きてきました。そのお陰で人間のままでいれたのです。

 ミツはある日、突然に僕の前から消えました。殺されたと周りの生き物が、汚い声で噂していたのを覚えています。何も感じませんでしたが、”彼”が泣いていたので、一緒に泣きました。

 僕はその時から、どう生き延びるかを考えるようになりました。最初は周りの生き物のように、人の物を奪うやり方を考えましたが、それは”彼”が毛嫌いしている行為でした。”彼”の嫌がることをしようとすると、胸の辺りが締め付けられるような感覚になってとても正気じゃいられなくなるのです。

 僕は働くということを知りませんでした。知識がなかったのです。今日は何月何日の何曜日なんてことも、全く考えたことが無かったほどです。ただ、何か食べなくてはいけない。それしか分かりません。それも”彼”が教えてくれたから知っていただけなのです。ただ今でも何故、人は死を恐れるのか? は分かりませんが。

 でも、知識が無くても悪いことばかりでは無いのです。だって、もしもその時、神様の存在を知っていたらきっと僕は何の罪も無い神様を恨んでいたでしょう。幸い、僕は恨むという感情すら知らずに育ちました。

 僕は考えました、死んでしまったミツの事をです。絶叫して地面を這っている時もありましたが、人間のような心、いえむしろ人間以上に優しい心を持つ時がありました。

 お日様です。お日様の光が注ぐ時、ミツにかかった呪いは一瞬、解けました。そうして僕は生きられたのです、お日様が救い主なのだと考えました。ミツと僕を救ったお日様のいらっしゃる方へ行けば今回も、きっと僕を救ってくださると思いました。僕の考えには”彼”も大賛成でした。

 

 僕はそれで初めて、路地裏の外に出ました。勿論、路地裏だけが世界の全てではないということは知っていましたが、でも僕には幻に向かって行く気分だったのです。

 そこには,人間が生きていました。普通に。今ならそう言えますが、その時の僕にとって普通とは特別でした。普通に話し、笑い、働く人間がいました。僕は眩しくて目を伏せました。”彼”はそんな私に

『堂々としていい、君は彼らと何も変わらない』

と優しく言ってくれました,その言葉にどれだけ救われたか分かりません。

 最初は色々見て回りました。色んな形の家、お店に並んだ美味しそうな食べ物、そして沢山の人。皆いそがしそうに動き回っていましたが、路地裏の生き物よりずっと自由でした。僕にはそう見えたのです。僕は、次第に笑顔になっていました。足は無意識に歩き、目は色々な物や人に吸い寄せられました。こんなに楽しいのは初めてでした。むしろ、楽しいと感じたのも、この時が初めてだったのかもしれません。どれだけ、ずっとこうしていたいと思ったことでしょう。しかし、不思議なもので楽しいことの後には必ず、何か我慢が必要な出来事が来るのです。それを、初めて知りました。今まで楽しいことなんて思ったことはありませんでしたから。

 夜になりました。路地裏はずっと夜のようなものでしたが、その日の夜は感じたことの無い程の寂しさを覚えました。結局、何も食べられずに空腹のままでした。それは慣れっこでしたが、孤独感というものに僕は泣きました。自分がとても孤独だったと知ったのもこの夜でした。僕は夜の存在を、この時に知ったのでしょう。

 ”彼”はそれでも

『お前は悪くない』

と僕を慰めてくれました。それで何とか、次の朝まで眠ることが出来ました。たしか、お日様が笑っている夢を見たと思います。

 

 目を覚ますと、すぐに僕は路地裏から飛び出しました。外に出ることは楽しみでたまりませんでした。あとで聞いたのですが、その日は船が帰ってきたとかで、みんな港の方に集まっていたようです。そのため中心街には人が少なく、昨日とは違った印象を受けました。外の世界の広さに驚き、転がりまわったように記憶しています。

 ふと気づくと、僕は街の外の原っぱにいました。小さな草原、そこは牧場でした。見たことの無い牛や羊を遠巻きに見ていて、そこにいた犬は、路地裏でも痩せこけたのがいて知っていましたけど。あとは、まるっきり未知でした。よく見ると向こうに街の物より大きな家があって、とても不思議な形だなと思っていると、急に頭をなにやらチクチクした物で叩かれました。

 ビックリして振り返ると、僕と同じくらいの背の長い黒髪のとても綺麗な女の子が、右手に箒を持って立っていました。これがアイリとの出会いです。彼女はこの時、怒った顔で僕を睨んでいました。僕は動揺して何も言えずに、オロオロとしてしまいました。そんな僕を見てアイリは箒を構えたまま、初めて聞くような綺麗な声で言いました。

『なによ、あんた。 ウチの牧場に何の用!?』

とても厳しい口調でした。僕は,答えようもなくて

『いや、お腹が減ってて……』

と正直な気持ちを告白しました。彼女は怒ってしまって

『だったら家に帰れば? ここは私の家よ! 出てってよ!!』

と言って箒でまた僕の頭を二、三度叩きました。

 そこからどうしたのか。僕は牧場の大きな家でアイリのお母さん、つまりミリおばさんの作ったシチューを食べていました。このシチューの美味しさといたら、本当に絶品で。食べ物というよりもっと、神聖な命そのもののように感じて、食べたくても、もったいなくて一杯でやめてしまったほどでした。

 何故、シチューをご馳走になったのか。僕もその部分の記憶が飛んでしまって思い出せません。アイリが笑いながら言うには

『あんたを箒で叩いたら、急に泣き出して。その時のあんたときたら、男の子の癖にどうしようもなくて』

彼女はよくこの事で僕をからかいました。

『それでとりあえず家に連れてって、お母さんに話したの』

ここでミリおばさんが話し始めます。

『ビックリしたわよ。見知らぬ男の子が玄関のところで泣いてて、何を聞いても分からなくて家はどこ? って聞いたら、路地裏だ! なんて言うんだから。それでお腹がすいたって言うから、急いでシチューを作ったの。あの時の食いっぷりといったら』

そう言って、ミリおばさんも声を出して笑いました。

 とにかく美味しいシチューを食べた後、隣に座って物珍しそうに僕を見ていたアイリが身を乗り出して吐き出すように質問をぶつけてきました。

『あんた何歳? それと名前は? なんで家の牧場に来たの? 家が路地裏って本当?』

そのほとんどの質問に、僕は答えることが出来ませんでした。名前も歳も、そもそも、そういう概念が無かったのですから。僕はただ路地裏にすんでいるということしか言えませんでした。

 答えられない僕に、アイリがイライラしているのは目に見えてわかりました。困った僕を見てミリおばさんは

『アイリ、質問はここまで。ちょっと来なさい』

と言って、アイリの手を引きました。

 それから十分ほど違う部屋で二人は、おそらく話し合っていました。僕が部屋の壁なんかにかけられた大きな絵をボーっと見ていると二人は部屋に戻ってきました。ふと、アイリと目が合ったのですが、何だか気まずそうに目をそらされました。

 ミリおばさんが優しく言いました。

『ごめんなさいね。さっき玄関でも聞いたけど、両親と一緒に住んでいないのよね?』

僕は玄関のところで答えたように、両親はいない。と言いました。アイリは泣きそうな顔で僕を見ていました。

『ごはんは? どうしてたの?』

ミリおばさんは続けて聞きました。僕はミツのことを、出来る限り詳細に語りました。そのうちに何故か僕は泣いていました。寂しくて、怖くて、たまりませんでした。アイリも下を向いて泣いていました。涙が止まらなくて、ふるえる僕をミリおばさんは優しく抱きしめてくれました。暖かくて、やわらかくて、とても安心しました。路地裏には無かった感覚。僕はこの時、初めて安心したんだと思います。

 

 僕はこの牧場で暮らすことになりました。アイリとミリおばさんは、僕をフクと呼びました。名前とは良いものだと今でも思います。

 牧場で僕は、働くことを覚えました。この家に男は僕しかいなかったので、ミリおばさんは

『フクがいてくれて助かる』

と言ってくれました。牧場で牛の世話のやり方を教わって、最初は上手くいかなくて段々、アイリが不機嫌になるのです。だから、僕は一生懸命に仕事を覚えました。それから羊の世話や馬の世話や、最後には料理の仕方まで覚えました。働くとは素晴らしいことです。一生懸命やれば、アイリも笑顔だったし。ミリおばさんもとても褒めてくれました。その後のご飯の美味しさと言ったら最高でした。

 そしてある日、アイリの誕生日がやって来ました。牧場の仕事が終わってからミリおばさんの焼いたケーキを食べたり、歌を歌ったり、とても楽しくて。僕は何も知らずに

『明日もやりたいね』

と二人に言いました。するとアイリは、鼻で笑って

『誕生日は一年に一度なのよ』と言いました。

『そういえば、フクはいつが誕生日なの?』

アイリが聞きましたが、僕は

『わからない』

と慣れたように答えました。それを聞いたミリおばさんが

『じゃあ今から決めましょう。フクの誕生日はアイリの次の日。つまり明日よ。』

と言ってくれました。僕は嬉しくて

『明日もケーキが食べられるの?』

とハシャギました。ミリおばさんは

『もちろん』

と笑いました。アイリも

『それじゃあ私のほうがお姉さんよ、フク。』と嬉しそうに笑いました。

 

 とにかく、この牧場での思い出は沢山あります。その殆どは楽しい思い出ばかりでしたが、中にはつらいこともありました。僕が牧場に来てから三ヶ月ほどたった頃。その頃には仕事にもなれて、その日もいつものように牛に餌をあげていました。

 ふと牧場の外を見ると、僕やアイリと同じくらいの年の子供が五人ほど、ニヤニヤ笑ってこちらを見ていました。僕が手を振ると、その子供たちはワーとはしゃいで走っていってしまいました。僕にはよくわからなかったので、牛の餌をやり終えてからアイリにその事を話しました。アイリは下を向いたままそれを聞いていました。話し終えると

『そんなやつら相手にしちゃ駄目。ほっときなさい』

と暗い顔で言ったまま、どこか行ってしまいました。

 昼になり、アイリと馬の世話をしているとまた、あの子供たちがやって来ました。僕はアイリを見習い、気にせず馬の世話をしていました。しばらくして

『おーい』

と子供たちは僕に話しかけてきました。

『お前、路地裏に住んでたんだってー?』

遠くからそう言ってきました。僕はそっちを見てうなずきました。子供たちは、ニヤニヤ笑ってこう言いました。

『親に捨てられたんだろ? 可哀想なやつだな。』

『そのうえ、こんな貧乏で汚い牧場に引き取られて。お前の人生って最悪だなー!』

僕は彼らが言っていることが理解できませんでした。それは、言葉の意味が分からなかったのではなく、彼らが何を思って何のためにその言葉を僕に言ってきたのかが全く分からなかったのです。アイリの方をみると、アイリは全く動じずに馬にブラシをかけています。また違う子供が言いました。

『この牧場の親父も最低よね! 毎日のように酒と女に溺れて、家にも帰らないなんて。おかげで娘はお金が無くて、学校にも通えないのに!』

『まったくだぜ。まぁ、あんな泥と肥料のにおいのする女が同じ学校にいるなんて最悪だけどな』

僕にも分かりました。あいつらはアイリや僕を馬鹿にしているんだと。アイリは何も言わずに家に入ってしまいました。子供たちは笑って、街の方へ戻っていきました。

 家に帰ると、アイリはミリおばさんとお昼ごはんを作っていました。何事も無かったかのようにミリおばさんと喋るアイリを見て、僕は少し安心しましたが、すぐにアイリが泣きそうなのが分かりました。僕にはどうすることも出来なくて。ただ、彼らが何故あんなことを言って来たのか。本当に初めて、僕は憤りに似たものを感じたのです。生まれた時からずっと一緒にいる”彼”がその怒りをさっきの奴らにぶつけるのだけは止めました。”彼”の言うことに、初めて疑問を感じました。それでも、”彼”は今まで間違ったことなんて一度も無かったのですから、今回も言うとおりにしました。

 牧場に来てからは”彼”と話す機会が少なくなりました。”彼”が話しかけてきても、聞こえづらい事がよくありました。それと同時に新しい声が聞こえるようになりました。一見”彼”のようですが、その言葉は頭の中で大きく響き魅力的でした。しかし、”彼”のような優しさは感じません。”それ”は”彼”と全く正反対に感じました。”彼”は、”それ”を嫌っているようでした。

 

 牧場で三年すごしました。その日は、僕の誕生日でした。牛に餌をあげていると。毎年と同じように、昨日と同じように、ミリおばさんの焼いているケーキのにおいがしました。僕は楽しみで、さっさと仕事を終わらせて家に帰りました。空はそろそろ暗くなり始める頃でした。

 家にはミリおばさんと、アイリと、それと知らない男がいました。男は、あごに髭を生やしていて、長身でぽっちゃりした体格でした。三人とも笑顔ではありませんでした。男は僕を一瞥すると。

『こいつか……。亭主に断りもせず、捨て子を家に置くとは』

とため息をつきました。僕は直感で、男に恐怖と嫌悪を覚えました。ミリおばさんは厳しい顔で

『あなたに断るも何も、もう何年も家に帰ってこなかったじゃない!』

と言って、部屋のドアを開けました。

『いまさら亭主顔しないでよ! 出ていって』

僕は鳥肌が立ちました。アイリは心配そうにミリおばさんと、男を見ていました。男の顔は真っ赤でした。

『貴様、亭主に出ていけだと? 出て行くのはこいつだ』

男は急に僕のほうに駆け寄ってきました。その目は充血していて、僕は路地裏を思い出しました。男は僕の鼻の辺りを、思いっきり殴りました。痛くて、血が出てきて、訳が分からなくて。その時、頭の中で

『やり返せ!』

と言う声が聞こえました。

『このままだと殺されるぞ!』

『ここを追い出されたら、行く当てが無いぞ!』

何故人は人を傷つけるのか? 僕は街の子供の言葉が浮かびました。あの言葉の暴力が鮮明に。僕は必死で男に抵抗しました。

『殴れ! 顔だ!』

『いっそ殺してしまえ!』

頭の中で声が聞こえます。必死でした。僕は棚の上の花瓶を手に取りました、その声の言うがままに。

 アイリの悲鳴が心の奥深くをえぐりました。僕に話しかけてきていたのが”彼”では無いと分かった時には、もう手遅れでした。目の前の男は倒れていて、視界は真っ赤でした。”それ”はまだ

『逃げろ! 警察が来る前に!』

『しょうがなかった! お前は悪くない!』

『なにしてる!? 母娘も殺せ!!』

と僕に言います。”彼”は一言

『お前がやったんだ、私は見た』

と言いました。僕はその場で倒れこみました、全てが真っ暗でした。思い出しました。楽しいことの後には、我慢しなくてはいけない出来事が来るものだと。それから警察が来て、怖くて、怖くて。それからはできるだけ”彼”の声しか聞いていません。人と話すたびに”彼”の声は薄れていくのです。人が怖いのです」


 彼は全て語った後、ガタガタ震えました。私は彼に毛布を掛けて

「ありがとう、落ち着きなさい」

と言いました。

 精神科医の話では、フクの言う”彼”とは私たちには話すことの出来ないが、誰にでも存在するもので、良心というものらしい。

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