第4話 キャンパスに鹿、ただし放電中(サイズがおかしい)
「……いいか、ひまり。今のことは他言無用だ。絶対にだぞ」
僕は、スマホを片手に呆然としているひまりの肩をガシッと掴んだ。
グレイは、空中で白衣をひらつかせながら着地し、何食わぬ顔でモンブランの最後の一口を飲み込んでいる。
「で、でも、先輩……。グレイくん、今、ふわーって……」
「それは……その、あれだ。大学院レベルの高度な磁場実験の副作用的な……重力のバグというか……」
「重力のバグ?」
「ああ! とにかく! 後でちゃんと説明するから。今は誰にも言わないでくれ。教授にバレたら俺、退学になるかもしれないんだ!」
「た、退学!? それは困ります! わかりました、私、口は堅いです!」
ひまりは必死に頷き、自分の口にチャックをするジェスチャーをした。
よし、とりあえず時間は稼いだ。……本質的な解決にはなっていないが。
「ふむ。認識阻害は完了した。これでこの地の民も、あの偉大なる術式を認識することはなく、元の生活に戻るだろう。……だが」
グレイが窓枠に飛び乗り、外を見下ろして目を細める。
「師匠のゲートから漏れた“圧”に引き寄せられたか」
「圧……?」
僕も窓の外に目を向けた。
研究室のある棟の前、広大な芝生広場。
――その一角だけが、不自然に歪んでいた。
まるで地面の下から、何かが押し上げてくるように。
空気が、わずかに軋んでいる。
『ウオォォォォォン!!』
次の瞬間。
およそ鹿とは思えない、重低音の咆哮がキャンパスに響き渡った。
そこに現れたのは、一頭の『巨鹿』だった。
体長は三メートルを優に超え、頭上に広がる巨大な角は、青白いネオンサインのように激しく放電している。
バチバチと弾ける光が芝生を焼き、周囲の学生たちが悲鳴を上げて逃げ惑っていた。
「ボルテックス・ディアか。我の世界では『魔力コンパス』とも呼ばれる。魔力の流れを感知して移動する、本来は温厚な生き物なのだがな」
「あれのどこが温厚なんだよ! 完全に暴れてるぞ!」
「師匠のゲートから漏れ出た高濃度の魔力……いや、“圧”に当てられて暴走しているのだ。……奴も被害者というわけだ」
続ける。
グレイは淡々と
「それに、奴がここに来たのは偶然ではない。この場に、世界で最も巨大な魔力の核があるからな」
「いや、ドヤるなよそれ……」
グレイは不敵に笑う。
鹿はまっすぐにこの研究室――いや、グレイを見据えていた。
「グレイ、なんとかしろ! これ以上騒ぎを大きくするな!」
「……湊、そこにある“水”を貸せ」
「水? ……ああ、これか」
僕は机の上にあったペットボトルを手に取る。
「これ、水っていうかサイダーだけど」
「構わん。その水から妙な魔力の気配を感じる」
グレイはサイダーをひったくると、中身を空中で歪ませた。
透明だった液体が、瞬く間に銀色の刃へと変わる。
「『水刃・連斬』」
放たれた水の刃が空を切り裂く。
鹿の足元を正確に狙った一撃。
だが――
鹿は放電を撒き散らしながら芝生を蹴り、一気に跳躍した。
そのまま、視界の外へと消える。
「……逃げたか。まあよい、今の魔力では仕留めるには足りん」
グレイが着地し、何事もなかったかのように白衣を整える。
ひまりは窓に張り付いたまま、「魔法……」と呟いて固まっている。
その時だった。
ぱち、ぱち、と——わざとらしく間を空けた拍手が背後から響いた。
「見てたよ〜白石くん。彼、スライムだったよね?」
間の抜けた、それでいて妙に冷たい声がした。
振り返ると、研究室の入り口に男が立っていた。
ボサボサの黒髪に、深いクマ。
「く、黒瀬先輩……」
黒瀬直斗。博士課程三年。
この研究室が誇る、研究のためなら倫理も常識も投げ捨てる狂人だ。
「それにこの角、いま拾ったんだ。見てよ」
黒瀬は手に持った“青く光る角の欠片”を掲げた。
「電気抵抗ゼロの常温超伝導体だよこれは。……なんと素晴らしい!」
その目は、完全に研究対象を見るそれだった。
「論文にすれば世の中の常識が変わるかもしれない……!」
「いや、先輩、それはその……」
黒瀬は僕の言葉を無視して、一歩踏み出した。
そして、グレイに顔を近づける。
「……痛覚とか、あるのかな?」
ぞくり、と背筋が冷えた。
「隠さなくていいよ」
黒瀬はゆっくりと顔を上げる。
「……面白いから黙ってるけど」
にやり、と笑った。
「代わりに、僕にもたっぷりデータを取らせてね。期待してるよ、白石くん」
その目は、獲物を解剖する直前の学者のようにギラついていた。
ひまりの問い詰め。
魔物の襲来。
そして――身近にいた最凶の観測者。
僕の隠蔽工作は、開始五分で破綻の危機を迎えていた。




