第8話:29日の終わらない夜(2026年2月29日・日曜日)
目覚めると、世界は昨日までとは違っていた。
光の角度、影の長さ、風のざわめき――すべてが微かに歪み、日常の景色が異界のように見える。カレンダーの2月29日を見て、胸がざわつく。
「……ついに来たか」
俺は小さくつぶやく。昨日までの小さな異変が、今朝にはっきりと形を変えた。街の時計は狂い、テレビの映像は止まり、街の人々も動きがぎこちない。異変は、ついに頂点に達していた。
美月と駅前で待ち合わせる。互いに目を合わせてうなずく。手は握れない、距離を保ちながら存在を確認する――それだけで、心の支えになる。
街に出ると、異変はさらに顕著になっていた。看板の文字が揺れ、街灯の影が不自然に伸びる。通りを行き交う人々も、異常に動きが止まったり速くなったりしている。
「翔……気をつけて」
美月の声に、俺は頷く。二人で互いに支え合いながら、街の中心へ向かう。
正午、異変は最高潮に達する。光と影が歪み、街が微かに震える。俺は息をのむ。美月も目を見開き、俺の腕に軽く触れた。
やがて、世界はゆっくりと落ち着きを取り戻す――かのように見えた。街の時計も、人々の動きも、いったん元に戻る。俺は深く息をつき、ほっとした。美月も小さく笑った。
しかし、胸の奥に残る違和感は消えない。風が吹くと、街灯の影が微かに揺れる。テレビの映像の端に、残像のような歪みがある。
「翔……今日は寝ないでいよう」
美月が提案する。俺も頷く。夜を通して観察すれば、異変の余波を見極められるかもしれない。
時間が経つにつれ、時計の針の動きも少しずつ狂い始める。俺たちは互いに距離を保ちながら、じっと夜を見つめる。
そして、真夜中。俺の目の前にあるカレンダーをふと見て、背筋が凍った。
そこには、ありえない日付――「2月30日」が刻まれていた。
「……2月30日?」
俺は声にならない声を上げる。美月も目を見開き、震えながらカレンダーを確認する。数字は確かにそこにある。29日をやり過ごしたのに、終わらない時間が、世界に忍び込んでいた。
風が通り過ぎる。街灯の影が、夜の闇に長く伸びる。
「翔……まだ、終わってない」
美月の声は恐怖に震える。俺も胸がぎゅっと締めつけられるのを感じた。
夜空を見上げても、月はいつもと同じだ。しかし、カレンダーの「2月30日」が告げるのは、確かな異変の残滓――29日の終わりは、終わっていなかったのだ。
俺たちはその夜、互いの存在だけを頼りにして、終わりのない夜を見つめ続けた。




