第七話「融和のカレーライス」
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The Awakening
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"悪役令嬢"であったころのわたくし――公爵令嬢であった"ソフィア・フォン・クライスト"。
王子に盛られた"毒"によって、私の魂と、この世界の"神楽坂 咲夜花"の魂が、入れ替わってしまった。
"鉄血鋼鬼"と呼ばれた彼――若き辺境伯当主であった"アルフレッド・フォン・バルテンベルク"。
神と交渉して、契約によって私の魂と強く結びついていたアルフレッドの魂と、この世界の"長谷川 琅汰"の魂を、入れ替えた。
そうして、二人でこの世界の、"日本"という国で、細々と生活している。
――
窓の外は、この世界に来てから一番の快晴だった。
突き抜けるような青空。けれど、鏡に映る私の顔は、死人のように青白い。
「……化粧のノリが悪いですわ」
私はパフを置き、小さくため息をついた。
今日は、昨日行けなかったデートのリベンジだ。
話題の水族館に行って、ショッピングを楽しんで、夜は二人でゆっくりご飯を食べる。完璧な計画。
本来なら、胸を弾ませてドレスを選ぶべき時間なのに、私の心には鉛のような重りが沈んでいた。
鏡に映る自分の指先が、一瞬だけ透けたような気がして、私は自身の腕を強く抱きしめた。
この世界にも、私の魂を、"神楽坂 咲夜花"の身体に保持するための魔力は存在する。
魔法という魔力を扱う技術が未発達なために、全く利用されていないことから、魔力の空間浮遊率は、むしろ豊富なくらいだ。
しかし、それでも私は息苦しさを感じ続けてきた。
「……この世界は、なんて残酷なのでしょう」
私は震える指で、口紅を引いた。
この世界の魔力と、私の世界の魔力は、その波長が違っているために、私は吸収できずにいた。
唯一、食べ物に含有された魔力については、食することで吸収できることがわかってきた。
私と、アルフレッドは、様々な食材や料理などを試しながら、私の魔力を補ってきた。
アルフレッドについては、少々事情が異なるようで、この世界の魔力も自然に取り込んでいるようだ。
その違いは、この世界に来た経緯に起因するのかもしれない。
ともあれ、私の魂が蓄え、向こうの世界から持ち込んだ魔力は、もう尽きた。
私だけが、この場所に留まる資格を失おうとしているのだ。
「わたくしは、彼を残して消滅してしまう」
その恐怖が、不意に鎌首をもたげた。
ある日突然、私の姿が陽炎のように揺らぎ、『さようなら』を言う間もなく霧散してしまうのではないか。
これは脈絡もなく私の中に現れた不安ではない。
魔力が尽きていくことによる体調不良によって、否が応にも、感じていたことだった。
いや、私が消滅することなど、まだ耐えられる。
王子に毒を盛られたことによって、一度は死を味わった身だ。
しかし、"愛する者との別れは、死よりも恐ろしい"ということ、強く感じていた。
「ソフィア? まだ準備中か? 作戦行動開始時刻だが」
ドアの向こうから、アルフレッドの声。ビクリ、と肩が震えた。
私は震える手を押さえ、必死に笑顔を作って声を張り上げた。
「え、ええ! もう終わりますわ! ……待たせてごめんなさいね!」
気付かれてはいけない。
私がまだ、かろうじてこの世界に"形"を保っている間だけは、完璧な淑女でいなければ。
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High Heavens
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「……ほう。これは興味深い」
アルフレッドは、イワシの大群が回遊する巨大水槽の前で足を止めた。
銀色の鱗を光らせ、一糸乱れぬ動きで泳ぐ無数の命。
「個体としては脆弱なイワシが、群れを成すことで巨大な一つの生命体のように振る舞い、外敵を威圧している。指揮官不在でこの統率……完璧な防衛陣形だ」
「……ええ、そうですわね」
私の返事には、気持ちがこもっていなかった。
この時間を少しでも"楽しい"と感じてしまえば、同時に、それが"終わる"ということを考えずにはいられない。
かつて、王権の庇護の元で貴族をしていたころは、王命という絶対不壊の鎖によって、彼を縛っていた。
その繋がりは絶対だった。悪役令嬢であったころの私が、どんな理不尽で不愉快なことを命じても、彼は従った。
けれど今。
私は、砂時計の最後の一粒が落ちるのを待つばかりの状態だ。
美しく泳ぐ魚を見ながら、私の存在が希薄になっていることに気づいているのではないか?
「……ソフィア?」
彼が怪訝そうに私を見た。
「君の顔色が悪い。やはり、昨日の疲れが……」
「っ、触らないで!」
彼が伸ばしかけた手を、私は反射的に振り払ってしまった。
パチン、と乾いた音が響く。
周囲の客が驚いてこちらを見る。
アルフレッドの手が、空中で止まっていた。
「あ……」
やってしまった。
拒絶したかったわけではない。
ただ、彼の手が私に触れた瞬間、私の"虚像"が溶けて消えてしまうのではないかと、そんな妄想に囚われてしまったのだ。
魔力を失った私の肌は、もう彼の温もりを受け止める力さえないかもしれないのだから。
「ご、ごめんなさい……! 私ったら、また……。いつも迷惑ばかりかけて、不快な思いをさせて……本当にごめんなさい!」
「ソフィア、落ち着け」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
私は一歩下がった。
過剰な謝罪。それが自分の消滅への恐怖の裏返しだと気づいて、余計に惨めになる。
アルフレッドは静かに私を見つめていたが、何も言わず、ただ少し距離を取って歩き出した。
「……場所を変えよう。人が多すぎる」
その背中が、ひどく遠く、眩しく感じた。
それは、この世界に確かに根を張った、実存する男の背中だった。
――私たちは河川敷の公園を歩いていた。
夕日が川面を血のような朱色に染め、長く伸びる二つの影が、ゆらゆらと揺れている。
このまま家に帰れば、またいつもの日常が始まる。
けれど、もう限界だった。
心臓の鼓動が、消滅へのカウントダウンのように感じられて、息ができない。
「……アルフレッド」
私は足を止めた。
震える声。もう、仮面を被っていられない。
「どうした、ソフィア」
彼は立ち止まり、振り返る。
逆光で表情が見えない。その黒いシルエットが、私をこの世界から切り離す宣告者のように見えた。
「私を忘れる準備を、今からしておいてくださらない?」
「……?」
アルフレッドが首を傾げる。
私は、堰を切ったように言葉を吐き出した。
「もうお気づきでしょう? 私にはもう、魔力がない。今、こうしている間にも、私の魂は"神楽坂 咲夜花"の身体から剥がれ落ちそうですわ」
「……ソフィア、落ち着こう。まだそうなると決まったわけでは――」
「とぼけないで! 私は、もうすぐ消えるわ! 私の魔力はもう枯渇したの。この世界に留まるための魔力が、もうどこにもないのよ! ……貴方を、一人きりにしてしまうのよ!」
一度口火を切ると、止めどない懺悔が溢れ出した。
ずっと喉に詰まっていた棘を、血と共に吐き出すように。
「私をこの世界に繋ぎ止めるものは何もないのよ! そして、貴方はもう、私がいなくたって生きていける!」
私は叫んだ。
喉が裂けそうなほどの声で。
「貴方ほどの力があれば、この世界で何だって手に入るわ。消えゆく私のような女に縛られる必要なんてない。……残酷でしょう? 私を愛させておいて、幸せな夢を見させておいて、最後には何も残さず消え失せるつもりなのよ! ……だったら、今すぐ私を忘れて! こんな、いつ消えるか怯えながら生きるのは、もう嫌なのよ……ッ!」
私は地面に崩れ落ちた。
化粧も涙でぐちゃぐちゃだ。
ああ、醜い。心も体も、私はなんと脆く、儚い生き物なのだろう。
これでもう終わりだ。彼もこの事実を受け入れ、私の消滅を見届ける準備を始めるに違いない。
当然の報いだ。
かつての、公爵令嬢の"ソフィア・フォン・クライスト"であるわたくしが行ってきたことを、今、断罪されたとしたら。
もし、偽証には神罰が下るという"神珠"の前に立ち、"神への宣誓のもと、真実のみを語れ"と、証言を命じられたとしたら。
十や二十では足りないほどの、様々な悪行を並べられて、わたくしはただ、項垂れることしかできないでしょう。
領民から搾り取った税で、身の丈に合わない"豪奢な宝石"を買い漁ったこと。
気に入らない令嬢を、その家ごと"社交界から抹殺"したこと。
そして何より、目の前にいるこの高潔な騎士を、わたくしの我儘一つで"地獄の戦場"へと引きずり戻し続けたこと。
「……わたくしは、救いようのない"悪役令嬢"なのですもの」
地面に滴り落ちる涙が、遊歩道の土の色を濃く変えていく。
この世界に来て、魔力を失い、ただの"か弱い娘"に成り下がったことで、ようやく気づいてしまった。
わたくしがしてきたことは、決して赦されることではない。
「ねえ、アルフ。正直に仰って? 貴方は、わたくしのことが"憎い"のでしょう?」
私は顔を上げ、涙に濡れた瞳で彼を射抜くように見つめた。
彼は無言だ。その静寂が、何よりも雄弁にわたくしの罪を肯定しているように感じられた。
「わたくしを殺したいのでしょう。……当たり前ですわ。これほど貴方の人生を汚した女が、隣で幸せそうに笑っているなんて、虫が良すぎますもの。……もう、愛している"ふり"など、しなくていいのです。その優しさこそが、今のわたくしには何よりの"毒"なのですわ!」
私の叫びは、夕暮れの公園に虚しく響き渡った。
魔力が消え、身体の輪郭が薄れていくような感覚が、いよいよ強くなっていく。
このまま、誰の記憶にも残らず、ただの"虚無"へと還る。
そんな、あまりにも不確かな最期を想像するだけで、狂ってしまいそうだった。
「……できることなら、貴方に殺されたい」
私はふらりと立ち上がり、彼の一歩手前まで詰め寄った。
彼の胸に手を当てれば、温かな鼓動が伝わってくる。その"生"の輝きが、今のわたくしには眩しすぎて、耐えられない。
「どうせ消えてしまうのなら……何の前触れもなく霧散して、貴方の前からいなくなるくらいなら、貴方のその手で、わたくしを終わらせてほしい。貴方に殺されたという"痛み"だけを、わたくしの存在した最後の証にしたいのです!」
私は彼の服を掴み、狂ったように懇願した。
「わたくしを、殺して。貴方になら、殺されてもいい。……いいえ、貴方に殺されることこそが、わたくしに与えられるべき、唯一の"救い"なのですわ……っ!」
喉の奥が熱く、視界が真っ白に染まる。
彼の手で命を絶たれる。それは復讐でもあり、贖罪でもあり、そして私にとっては歪んだ"愛の完成"に思えた。
自分を保つための魔力さえ失ったわたくしにとって、彼の"明確な殺意"だけが、私をこの世界に繋ぎ止める最後の錨のように感じられたのだ。
私は、彼の大きな手が、わたくしの細い首にかかる瞬間を、今か今かと待ち望んでいた。
音が近づいてくる。
私は身を強張らせ、来るべき喪失感に備えて目を瞑った。
「……勘違いをしている」
降ってきたのは、別れの言葉でも絶望でもなく、呆れるほど平坦な声だった。
「え……?」
恐る恐る顔を上げると、アルフレッドは淡々と私を見下ろしていた。
そこには、嘆きも、諦めも、そして慈悲さえもなかった。
「君を恨む気持ちなど、ない。愛している"ふり"などできない。俺にそのような腹芸ができるとでも思っているのか?」
「アル、フ……?」
「俺は、ソフィアと生きると"決めた"のだ。我が"心"とな」
彼は私の前に立ち、視線を合わせた。
その瞳は、嵐の中でも決して消えない灯火のように静かで、強固だった。
「理由など、後付けでいくらでも挙げられる。君の声が好きだ。君の作る焦げた料理が好きだ。君が虚勢を張って震えている姿が愛おしい。……だが、それらは副次的な要素に過ぎない」
アルフレッドは私の泥を掬うように、大きな手で私の頬を包み込んだ。
「俺は、かつて"鉄血鋼鬼"と呼ばれた。感情を殺し、敵を屠るだけの兵器だった。……そんな俺に、"人間"としての輪郭を与えたのは君だ」
「わたくし、が……?」
「そうだ。君が笑えば、俺は嬉しいと感じる。君が泣けば、胸が痛む。君を守るためなら、俺は鬼にもなれるし、道化にもなれる。……君という座標があって初めて、俺という存在は定義されるんだ」
淡々と語られるその言葉は、甘い愛の囁きとは程遠かった。
重く、硬く、そして底知れぬほど深い、信念の塊。
理解できないほどの執着かもしれない。狂気かもしれない。
けれど、その"理解できなさ"こそが、今の私には何よりも救いだった。
彼は、決して揺らがない。
私がどんなにダメでも、彼がそう決めたから、愛するのだと。
その理不尽なまでの肯定が、私の不安を粉々に砕いていく。
「俺は君に何も求めていない。俺が求めているのは"ソフィア"という個体の生存と、その隣に俺がいるという事実だけだ」
アルフレッドの声に、わずかな熱が混じる。
「それが俺の定めた、絶対不変のルールだ。何が起ころうと、このルールだけは書き換わらない」
「でも、わたくしはもう、魔力が尽きかけて……」
消え入るような私の声を、彼は力強い抱擁で遮った。
「そして、俺を巻き込んでしまったと思っているのなら、逆だ。よく知っているだろう? バルテンベルクの者は"愛した者を必ず失う"。それも悲劇的としか言いようのない残酷な運命がその身に襲い掛かる」
彼の胸から伝わる鼓動が、激しく波打っているのがわかった。
「わかるだろう、この状況を作り出しているのは、おそらく俺のせいだろう。むしろ、恨まれているのは俺の方だと思っていたぞ。だからこそ、君を守る力さえも失ってしまえば、君に見限られる、そう考えていた。俺が最も恐れていたのは、君の隣にいられなくなる、ただそれのみだ」
「アルフ、貴方も……怖かったのですか?」
「ああ。――君が消えることなどあり得ない。俺がそんなこと、決してさせないからな」
その瞬間、私の内にあった淀みが、音を立てて崩れ去った。
私を消そうとしているのは世界ではなく、彼の持つ"呪い"のような運命なのかもしれない。
だとしたら、わたくしもまた、戦わなければならない。
今までは、自らが積み重ねた悪行への断罪として、あるいはこの世界の理不尽なルールとして、消えゆく運命をただ甘んじて受け入れるしかないと考えていた。
だが。
もしこれがアルフレッドの婚約者として、婚約の儀で、神の前で宣誓した"二人で抗うべき宿命"であるというのなら、話は別だ。
わたくしには、あの日の宣誓に則り、彼の隣で共に戦い抜く義務がある。
たとえ神が定めた残酷な筋書きであろうとも、わたくしたち二人の誓いを踏みにじることは許されない。
それこそが、婚約者である自分の責務なのだから。
私はゆっくりと彼の腕の中から身体を離した。震えていた指先で、無様に汚れた涙を拭う。
一度深く呼吸をすれば、冷え切っていた胸の奥に、かつて公爵令嬢として多くの敵を沈めてきた"焔"が再び灯るのがわかった。
「――そうね、少し弱気になっていたわ。わたくしらしくもない」
私の瞳に意志の光が戻ったのを見て、アルフレッドはわずかに目を見開いた。
私は乱れた前髪を指先で整え、彼を真っ直ぐに見据える。
「神の"断罪"だろうと、バルテンベルクの"呪い"だろうと、それがわたくしたちを裂こうとするのなら、受けて立とうではありませんか」
その言葉は、もはや消えゆく者の弱音ではない。
自分を追い詰めていた運命という名の敵に、明確な"宣戦布告"を突きつける女の顔だった。
アルフレッドは微動だにせず、私の言葉を一言も漏らさぬよう耳を傾けている。
その口角が、ほんのわずかに、彼らしい不敵な形に歪んだのを私は見逃さなかった。
「毒をくらわば皿まで、という言葉がこの世界にはあるのでしょう? 毒なら、あの日もう飲み干しましたわ。死の淵を彷徨い、魂を削ってこの世界へ堕ちるほどの毒をね」
自嘲気味に、けれど誇らしげに私は笑ってみせた。
あの日、王宮の大広間で仰いだ毒の苦み。
それが私をこの世界へ運び、彼との新たな日々をくれた。ならば今さら、何を恐れる必要があるというのか。
「あとは、皿を食らうまで。喰らい尽くして差し上げますわ。貴方がわたくしを離さないと決めたのなら、婚約者であるわたくしも、貴方の隣という席を死守してみせます」
私は彼の一歩前へ踏み出し、その無骨な手の手のひらに、自分の手を重ねた。
消えかけていた輪郭が、私の強い意志によって再び鮮明に、現実の重みを伴って固定されていく感覚がある。
アルフレッドの手が、私の手を力強く握り返した。
「それが、貴方の婚約者であるわたくしの、唯一にして最大の責務なのですから」
夕闇の中、彼の青い瞳がかつてないほど深く、私を映し出していた。
「……フ。やはり君は、そうでなくては困る」
アルフレッドは短く、けれど満足そうに鼻を鳴らした。
彼は繋いだ手を離さぬまま、私を促すように歩き出す。
「帰ろう、ソフィア。宿命を喰らう前に、まずは君の作った温かい飯を胃に収めたい」
「ええ、そうですわね。毒などより、よほどそちらの方が健康的ですわ」
私は彼の隣に並び、力強い足取りで歩き始めた。
背後には沈みきった太陽と、私を縛ろうとした過去の影。
けれど今の私には、横を歩くこの無骨な騎士が定めた"鉄の掟"という、何よりも揺るぎない保証がある。
私たちは、この不自由で自由な世界で、どこまでも二人で抗い続けていくのだ。
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Deep Silence
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アパートに戻ると、室内は夕暮れの残光で満たされていた。
私はジャージに着替え、アルフレッドはスウェット姿で並んでキッチンに立つ。
かつての戦場での姿や、社交界での威厳を思えば滑稽な姿かもしれないが、今のわたくしたちにとっては、これが"正装"なのだ。
今夜のメニューは、別の国で生まれながらも日本という国が育んだ、もっとも力強い日常食のひとつ、"カレーライス"だ。
「……ジャガイモの皮を剥くのも、随分と上達されましたわね」
「任務だと思えば造作もない。それよりソフィア、タマネギの方はどうだ」
「あら、わたくしを誰だと思っていまして? ……少し、目に沁みるだけですわ」
トントン、と小気味よい音が響く。
この料理には、数え切れないほどの香辛料が含まれているという。
クミン、コリアンダー、ターメリック……。それら異国の香りが複雑に混ざり合い、煮込まれることで、部屋の空気そのものが生命力に満ちた熱を帯びていく。
皿に盛られた真っ白な米の上に、とろりとしたルウをかける。
私たちはそれを運び、小さなテーブルを挟んで向かい合った。
「「いただきます」」
声を合わせ、手を合わせる。
私はスプーンを手に取り、まだ見ぬ未知の料理を一口、口へと運んだ。
「……っ」
驚きに目を見開く私を見て、アルフレッドがわずかに口角を上げた。
「初めて食べましたが……この料理は、素晴らしいですわ。この国でこれほど人気があるという理由、身をもって理解いたしました」
複雑に絡み合うスパイスの刺激と、野菜や肉の甘み。
それは、かつて公爵家で口にしたどんな洗練された宮廷料理よりも、今のわたくしの身体を奥底から温めてくれる気がした。
特別な言葉を交わさずとも、同じ熱さを共有し、同じ皿を空にしていく。
そんな何気ない時間が、先ほどまでの絶望を嘘のように溶かしていく。
「アルフ、知っていますか? この"カレーライス"という料理は、別の国の料理を元に、この国で独自に育まれ、今となっては元の料理を食べている国の人さえ唸らせるといいます」
アルフレッドは運んでいたスプーンを止め、私の言葉を待つように静かに目を向けた。
「私は、この料理に自分自身との共感を感じていますの。……まさか異世界にきて、かつてのわたくしなら見下していたであろう"王宮侍女の真似事"をすることになろうとは、思いもしませんでしたけれど」
私は少し自嘲気味に、けれどどこか愛おしそうに、手元の皿を見つめた。
「それを温かく受け入れているこの国の懐の深さを感じるのですわ。この国は、この世界は、異物をはじき出すのではなく、受け入れてよいものに変えてしまう。……そんな気がするのです」
「……適応、か」
アルフレッドは短く呟き、再びカレーを口にした。
「確かに、この料理は合理的だ。異なる要素を煮込み、昇華させている。……ソフィア、君が言った通りだな。異物であることを止める必要はない。この世界の一部として、新しく定義されればいい。……俺も、この味は嫌いではない」
私は彼の反応に満足して微笑み、鍋の方を振り返った。
「アルフ。……お代わり、ありますわよ」
「ああ。頼む。……この世界の味を、もっと君と共に知りたい」
不器用な彼の言葉に、私は今日一番の、穏やかな笑顔で頷いた。
窓の外には、煌びやかな夜景。
不自由な世界で出会い、自由な世界で自らの意志を"宿命"として選び取った二人の、これが新しい日常の始まり。
時計の針が進む。
私たちは、明日もまた、この場所で「おはよう」を言い合うのだ。
それこそが、二人にとって、ささやかで絶対的なハッピーエンドなのだから。
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Tales Untold
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月明かりの下、空になった二つの皿が、銀色に輝いていた。
満足感に包まれ、私たちはただ、穏やかな沈黙を共有していた。
そこにはもう、消えゆく不安などどこにもないはずだった。
――その時だった。
突如として、私の視界が眩い黄金色の光に包まれた。
「……っ、あ……!?」
椅子から崩れ落ちそうになる私の身体を、アルフレッドが瞬時に支える。
しかし、その彼の腕の感触さえも、今は遠く感じられた。
全身の細胞が、沸騰するような熱を帯びている。
この感覚に、私は、私自身に何が起こっているのか、理解した。
魔力だ。失われてしまった、そう嘆いていた魔力が、あふれてくる。
まさか、クミンが、ターメリックが、この世界に満ち溢れていた"魔力"と、私の魔力の波長の違いを、修正しているかのように。
(身体が……重い……!)
それは苦しみではなかった。
むしろ、今まで羽毛のように頼りなかった私の存在が、強固な錨を下ろされたかのような圧倒的な実存感。
透けかけていた指先が、確かな質量を伴って赤みを帯び、魂の境界線が"神楽坂 咲夜花"の肉体と完全に融け合っていく。
脳裏に、雷鳴のような"神の啓示"が響き渡った。
"汝の、お試し期間は終了した"
その一言だけ残し、黄金色の光は消え失せ、再び日常の一場面へと戻ってきた。
私とアルフレッドは顔を見合わせた。言いたいことは無数にある。できることなら、神に文句の一つも言いたい。
私は叫んだ。
「……お試し期間、ですって?」
私はスプーンを握りしめたまま、どこに向かって叫べばよいのかわからなかったので、天井を見上げた。
「まさか。あの公園の遊歩道で死を覚悟した慟哭も! 消滅に怯えて涙で枕を濡らした日々も! すべてはただの"体験版"だったというの!?」
「……やってくれたな、神よ」
アルフレッドが、信じられないものを見るような目で宙を仰いだ。
「人の魂を試用期間で評価するなんて、神もいい度胸をしていますこと! 利用規約があるなら事前に提示してほしかったですわ! 延長料金を請求されたらどうするつもりだったのかしら!」
「ソフィア、気持ちはわかるが、言ってることが――」
自分でも、何を言ってるのか、わかっていない。
「……もう、本当にバカバカしいですわ。あんなに泣いて、命懸けで愛を叫んで……。損をしてしまいましたわ、わたくし」
あまりの理不尽さに肩の力が抜け、私は椅子に深くもたれかかった。
あんなに劇的で、命のやり取りのようなドラマを繰り広げたというのに、実は"お試し期間"だっただけなんて。
「魔力は安定したようだ。君という存在が、この世界に定着した。経緯はどうあれ、結果としては、もう消滅におびえる必要はなくなったというわけだ」
「ええ、それはもう……」
「……ふふ、あははは!」
「ハハハッ!」
どちらからともなく、笑いが込み上げてきた。
絶望し、殺してくれとまで叫び、血の繋がりのような愛を誓い合った二人が、今はカレーの匂いの残る部屋で、神のいたずらに笑い合っている。
この滑稽さこそが、私たちが手に入れた"自由な日常"の証なのかもしれない。
「さて。笑い疲れたところで、寝るとしよう。ソフィア。明日からまた一週間が始まる」
「ええ、そうですわね。明日は月曜日、朝からゴミ出しもありますわ」
私は立ち上がり、空になった皿を片付けた。
明日からの日常は、きっと今日まで以上に騒がしく、そして愛おしいものになるだろう。
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After Talk
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二人は答え合わせをしました。
「アルフ。わたくし、どうしても貴方に確認しておきたいことがございますの」
「何かな、ソフィア。私の現場での給与明細の不備か? それとも、また鉄丸(ロボット掃除機)がコードを食べて自爆したか?」
「違いますわ! あの……お手洗いに鎮座する"ウォシュレット"という魔導具についてですわ! あれ、一体どこの闇ギルドが開発した"不意打ち専用の嫌がらせ罠"ですの!?」
「……ああ。あれこそ、この国の"偏狂"を象徴する魔導具だな」
「どういうことですの?」
「"洗う"という単一の目的に対し、角度、水圧、温度を高精度で調整する機能を持ち、さらには便座を適温に保ち、脱臭機能や流水音などで不快さの低減までをケアする。一度その温かな洗礼を浴びたなら、深刻な"帰尻本能"という名の呪いにかけられることになる」
「……よく、わかりませんけど。無防備な淑女の……その、急所を狙い撃ちされ、わたくし、あまりの衝撃に飛び上がり、叫んではいけない言葉が喉から吐き出されましたわ!」
「ああ、聞いていたよ。――だったか」
「忘れてくださいまし」
「ソフィア、君が毎日通っている「コンビニエンスストア」という場所だが。あそこは、本当に王立の兵站基地ではないのだな?」
「何をおっしゃるかと思えば。……琅汰の記憶を持つ貴方の方がよくご存じのはずでしょう?」
「琅汰の記憶は、あくまで"知識"として保持しているだけで、自身の体験とは別の物なんだ」
「そうなんですのね」
「だからこそ"知識"として知っていても、今もなお信じがたい」
「何がですの?」
「24時間、灯火が消えず、冷たい飲み物から熱々の鶏肉の揚げ物までが瞬時に提供される。しかも、店員は一見すれば新兵のように見えて、皆が熟練兵の練度でレジを捌く」
「気持ちはわかりますわ。知識の無い分だけ、その細部に至るまでの徹底されたサービス精神には、貴方以上に驚かされました」
「王への忠誠心でも、騎士の誓いでもないというのに、彼らを支えるあの士気は一体どこから湧いてくるというのか? 誰に命じられることもなく、深夜の街道を照らし続けるあの献身の源泉は何だ?」
「ええ、私も同じ種類の疑問を抱きましたわ。先日、同僚のメイメイに尋ねてみましたの。『ここは"王宮の庭園"を名乗っていますが、肝心の王は不在。皆、一体何に忠誠を誓い、何のために動いていますの?』と」
「……それで、彼女は何と答えた?」
「メイメイは、少し困ったように笑ってこう言いましたわ。――『それはきっと、対価っていう名の神様です』ですって」
「それは神の名ではない、しかし――祈りよりも多くの膝を折らせ、法典よりも遍く広められ、世界を動かす力の呼び名だ」
「よくわかりませんが……。でも、その神様のおかげで、真夜中に温かい食べ物が手に入り、凍えるような夜に灯火が絶えないのであれば……。私も少しだけ、その神様に膝を折りたくなってしまいますわ」
「ところでアルフ、この世界での生活は快適ですけれど、元の世界で「これだけはやり残した」と思う心残りはありますの?」
「 ……そうだな。今の職場で使うような「インパクトドライバー」や「高圧洗浄機」を持って、バルテンベルク家の領地にある城や砦の補修をしたかった」
「貴方らしい、と言えば良いのか……。領地のことは心配ではありませんの?」
「まったく気にならないとは言わない。だが、琅汰が上手くやってくれると信じているからな。ソフィア、君はどうなんだ?」
「どう、とは?」
「やり残したことだ。王子への復讐を考えたりはしないのか?」
「そうですわね――。わたくしがしてきたことを思えば、シルヴェリウス殿下だけを責めることはできません。復讐とまで言わずとも、引っ叩いてやりたいとは思いますが」
「そうか」
「あなたと同じように、この世界の物を持ち込めるのだとしたら、例えばコンビニスイーツを茶会に持ち込むだけで、それはもう極上の優越感に浸れたかもしれない、とか考えますわね。あるいは美容関係の品を権力者のご婦人たちに配って回れば、社交界の勢力地図を書き換えることさえ出来たでしょう」
「……君がそれをやると、復讐どころか国を裏から支配しそうで怖いな。――ソフィア。もっと個人的なことはないのか?」
「個人的なこと、ですの?」
「そう。例えば、クライスト家ではなく、町娘として生まれ変われたとしたら、どうだろうか?」
「……。それは、本当に夢のようなお話ですわね」
「ああ」
「コンビニで見かける若い男女のやりとりなどを見ていると、思いますの。もしわたくしが、悪役令嬢でも上級貴族でもなく、どこにでもいる平民の娘として生まれていたのなら。……あんな風に、騒がしくて、愉快で、等身大の、恋というものを、してみたかったかしら、と思います」
「恋、か」
「今ならわかりますわ。それがどれほどに美しく、繊細で、眩い奇跡のようなものかということが」
「俺も、君も、生まれた瞬間からもう、背負わされていたものがあったからな。恋など、考えることさえ許されなかった」
「ええ。あちらの世界での『愛』は、常に重すぎる価値を背負わされていました。領土を広げるための契約であり、家系を繋ぐための義務であり、あるいは人を操るための甘い毒……。わたくしたち貴族にとって、心をそのまま差し出すなど、丸腰で戦場に立つような愚行でしたもの」
「俺たちの関係も、向こうの世界ではそうであったな」
「ええ。ですが、この世界の恋はどうでしょう。家柄も、親の許しも、ましてや国益など何一つ背負わずに、ただ『貴方が好きだから』という、それだけの理由で隣を歩ける。――それは、黄金の冠を授けられるよりもずっと誇らしく、贅沢なこと」
「何の打算もなく、ただ隣にいたいと願う。そんな純粋な心のやり取りが許されるなら、それは確かに至高の"やり残したこと"だな」
「ええ。わたくしのやり残したこと。それは、黄金も、策略も、悪役の仮面もすべて捨てて――。ただのソフィアとして、一人の殿方に、この世界の恋人たちのように真っ直ぐな想いを伝えてみたかった、ですわね」
「最後に一つ。ソフィア。君がレジで必死に提示している「ポイントカード」だが。あれは、本当に集める価値があるのか? 一ポイント一円というレートは、あまりに遠い道のりに見えるが」
「アルフ……。貴方、何も分かっていませんわね」
「む……?」
「あれは「魂の欠片」を集める儀式ですわよ! 先日の「オオゼキ」での戦い(中トロ争奪戦)で貯まったポイントを使い、今日、わたくしは何をしたと思いますの?」
「何か高価な魔導具でも召喚したのか?」
「いいえ。"ハーゲンダッツの期間限定・華もち"を、全額ポイントで錬金(決済)いたしましたの!」
「 ……!」
「あの瞬間の高揚感! 労働の対価ではなく、これまでの"賢い買い物"の結果として得られる甘美な報酬! お得に得られたと言う達成感! これこそが、ポイントカードの魅力なのです! 貴方も明日から、必ずポイントカードを提示なさい。いいですね?」
「……了解した。これもまた、この世界で生き抜くための"兵法"なのだな。心して掛かろう」
こうして、二人はこの世界に馴染んでいく。




