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悪役令嬢はポイントカードの還元率を侮らない。  作者: 柏原夏鉈


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第六話「幻のパンケーキ」


┏━━━━━━━●

The Awakening

┗━━━━━━━●


週に一度、この世界の歯車が緩やかな回転へと移行する聖なる日――土曜日。

本来であれば、私と彼は泥のように眠り、昼過ぎに起きてブランチを食むという惰眠を貪る権利を有しているはずだった。

しかし、無情にも運命は我々に平穏を許さない。


「……すまない、ソフィア。現場監督からの至急の救援要請だ」


玄関にて、アルフレッドは、足元を固める"安全靴"の紐を結びながら、沈痛な面持ちで眉を下げた。

かつて数万の軍勢を率いた"鉄血鋼鬼"の威厳はそのままに、彼が身に纏うのはニッカポッカと呼ばれる、この世界の作業用戦闘服である。


「聞けば、搬入された資材の配置を巡り、他業者のトラックが立ち往生して現場が膠着状態にあるらしい。重機も入れず、人力での解決が不可欠とのことだ」

「まあ……。重機代わりの人間重機が必要というわけですわね」


私は彼の作業着の襟を整え、その頼もしい肩をポンと叩く。

ここで駄々をこねるような愚かな女ではない。将の妻たるもの、戦場へ赴く夫を笑顔で送り出すのが務めというものだ。


「貴方の現場での信頼は、私たちの生活基盤を支える重要な防壁ですもの。行ってらっしゃいませ」

「……感謝する。任務が完了次第、最速で現地の座標へ合流する」


「ええ、お待ちしていますわ」


バタン、とアパートのドアが閉まる。


遠ざかる彼の足音を確認してから、私はクローゼットを開け放った。

今日は、同僚のメイメイに教えてもらった"行列のできるパンケーキ屋"へのデートを行う予定だ。


私はお気に入りの衣装に着替え、鏡の前で念入りに化粧を施した。


┏━━━━━━━●

High Heavens

┗━━━━━━━●


目的のパンケーキ屋へ向かう道すがら、路地裏から漏れ聞こえる不協和音に、私の足が止まった。


「だからぁ、金がないなら店に来て働けって言ってんの!」

「い、嫌です! 離してください!」


下卑た怒声と、悲痛な叫び声。

この辺りは治安があまり良くないと聞いていたけれど、白昼堂々、蛮行が行われているとは。


そして何より、その被害者の声には聞き覚えがあった。


建物の影からそっと様子を窺う。

そこには、薄汚れた路地裏の壁際に追い詰められた小柄な少女――メイメイの姿があった。

愛すべき陽だまりのような彼女が今、恐怖に顔を歪めている。


彼女を取り囲んでいるのは、六人の男たち。

一様に派手な装飾品を身につけ、清潔感のない髪型をした彼らは、いわゆる「半グレ」と呼ばれる非正規武装集団だろうか。


「……嘆かわしいですわね」


私は小さく息を吐き、持っていたハンドバッグを物陰の室外機の裏へと隠した。

万が一、乱闘になってバッグの中の"スマートフォン"が破損しては一大事だ。それに、身軽な方が動きやすい。

武器も通信手段も手放すことになるが、相手はただの暴漢。素手で十分だ。


カツ、カツ、カツ。


私はヒールの足音をあえて高く響かせ、淀んだ空気の路地裏へと踏み入った。


「そこまでになさい。か弱い淑女を六人がかりで囲むなど……恥という概念をご存知なくて?」


私の凛とした声が響くと、男たちの動きが止まる。

一斉に向けられる視線。その中に、安堵の色を浮かべたメイメイの顔があった。


「そ、ソフィアさん!」

「お待たせ、メイメイ。少し遅くなりましてよ」

「来ちゃダメです! こいつら……!」


「あぁ? なんだお前……」


メイメイが警告を発するより早く、一人の男が、ニヤニヤと粘着質な笑みを浮かべてこちらへ歩み寄ってきた。


「なんだ、連れか? ヒュー、上玉じゃねえか。モデルか何かか?」


「お褒めにあずかり光栄ですが、貴方のような殿方の審美眼には興味がありませんわ。――不潔です」

「あぁ!? 生意気言ってんじゃねえよ、このアマ!」


その男は激昂し、手を振り上げるが――、遅い。

私は半身になってそれを紙一重で躱し、流れるような動作で男の手首を掴み、関節を極めて石畳へと投げ飛ばした。


「ぐあっ!?」

「て、てめぇ!」

「やりやがったな!」


残りの男たちが一斉に殺気立つ。

私は冷静に間合いを見切り、二人目の鳩尾に掌底を入れ、三人目の蹴りを避けて足払いをかけた。


ここまでは順調だった。

だが、四人目の男が私の前に立ちはだかった瞬間、私の動きが止まった。


「ひっ、あ……あ、あんたは……ッ!?」


情けない悲鳴を上げて後ずさったその男に、私は見覚えがあった。

手入れされていない枯れ草のような金髪。ジャラジャラと鳴る品のない銀の鎖。

そして何より、左眉を分断する深い"古傷"。


以前、店でメイメイに付きまとっていた幼馴染み――タカだ。


彼はメイメイに対してはあれほど強気で尊大だったが、今の彼はどうだ。

顔面を蒼白にし、私の顔を見るなり、幽霊でも見たかのように震え上がっている。


「貴方は……あの時の。どうして貴方がこのような無法者たちと?」

「ち、違うんだ! 俺はただ……こいつらが……めぐみを呼び出せば、借金を待ってくれるって言うから……!」


男の声は震えている。

どうやら彼はこの集団の仲間ですらない。金に困り、弱みを握られ、昔の女を売るための"駒"として利用されているだけのようだ。


背後の男たちが、そんなタカを見て嘲笑う。


「おいおいタカちゃんよぉ、ビビってんじゃねえよ。女一人だぞ?」

「……ち、ちがうんです、こいつ、なんか妙なことを――」


タカはおろおろと視線を泳がせている。


店で見せた威勢はどこへやら。強い者には尻尾を振り、弱い者だけを虐げる、典型的な小悪党の姿がそこにあった。


一瞬の躊躇。


私は彼を即座に無力化せず、そのあまりの情けなさに毒気を抜かれ、身構えを解いてしまった。


「おやめなさい。メイメイを売って自分だけ助かろうなどと……恥を知りなさい」


その隙が、命取りとなった。


バチヂヂヂッ!!


「……っ!?」


背後から、雷撃に打たれたような衝撃が全身を駆け巡った。


視界が白く弾ける。

筋肉が意思を無視して収縮し、思考が一瞬で断絶する。


(し、しまった……背後の二人を、見落とし……!)


崩れ落ちる私の視界の隅に、背後に隠れていた別の男が、長方形の黒い小箱を構えているのが見えた。

その先端では、青白い火花がパチパチと音を立てて爆ぜている。


「へっ、油断したな……。いい動きだが、こいつには勝てねえよなぁ」

「ソフィアさんっ!!」


メイメイの悲鳴が遠くなる。


すぐに頭をよぎったのは、アルフレッドに助けを求めることだった。

路地の入り口、室外機の裏に隠したバッグの中にはスマートフォンがある。


だが、今の私には指一本動かすこともできない。

意識が急速に闇へと沈んでいく中で、私は己の甘さを呪った。


――


目が覚めると、そこは埃っぽい倉庫の中だった。


鼻をつくカビと油の臭い。

手首は背中で拘束具により締め上げられ、冷たいコンクリートの床に直に座らされている。

隣には、同じように縛られたメイメイが、小刻みに震えていた。


「うぅ……ソフィアさん……ごめんなさい……私のせいで……」

「泣かないで、メイメイ。……笑顔が台無しですわよ」


私は努めて冷静に声をかけたが、内心は焦燥に駆られていた。

拘束された状態で、男は六人。場所は不明。


スマートフォンは路地裏のバッグの中。誰にも連絡できない。


まさに孤立無援。


「起きたか、お姫様たち」


鉄扉が開き、先程の男たちが入ってきた。手にはナイフを弄んでいる。

その後ろには、気まずそうに下を向くメイメイの幼馴染みだという男の姿もあった。


「めぐみちゃんよ? あんたが金を返さねぇから、こうやって直接回収することになったんだろうが。……ま、この美人な先輩の方も、いい金になりそうだ」


「お、お金なんて、借りてませんっ!」

「おいおい、何を言ってる。この書類にサインしたじゃないか?」


そう言って、男が取り出した書類には、メイメイの署名らしきものが見える。

書類のタイトルは「クラウドファンディングの応援メッセージ」とあり、メイメイとは別の署名も書かれているようだ。


男は、メイメイの幼馴染みだという男を指さしながら言った。


「タカと一緒に、クラウドファンディングに出資するという書類にサインした」

「そ、それは、応援メッセージを書いてほしいって言われたから……」


「よく読んだのか? この書類は、クラウドファンディングが目標額に達しない場合は、不足分を補填するという内容だ」

「え……」


「応援、ってのはそういうことだろ? 本当に良い賞品だから商品化したいが、しかしクラウドファンディングなんてもんは、思うように集まらないこともある。だから、万が一、集まらなかったときには、不足分を補填してでも商品化を"応援したい"という意思を確認するためのものだ」


「な……そんな、無茶苦茶です……!」


メイメイが悲鳴のような声を上げた。

無理もない。それはあまりに一方的で、子供の屁理屈よりも粗末な論理だった。


しかし、男は薄汚い歯を見せてニヤリと笑うと、書類の隅、虫眼鏡でなければ読めないような小さな文字を爪で弾いた。


「ここに書いてある。『サポーターは、プロジェクト遂行における全リスクを共有するものとする』とな。お前がサインした時点で、お前はこいつの抱えた借金……もとい、プロジェクトの赤字三百万を背負うことに同意したんだよ」

「さ、三百万……!? タカ、嘘だよね……? 私、タカの新しい夢を応援してほしいって言われたから……」


メイメイが縋るような目で、うつむいているタカを見た。

タカは、メイメイと目を合わせようともせず、脂汗を垂らしながらボソボソと呟いた。


「ご、ごめん……ごめんよ、めぐみ。でも、俺も金がなくて……こいつらが、めぐみを紹介すれば、俺の借金はチャラにしてくれるって……」

「え……?」


「だ、だからさ、少しの間だけ……その、こいつらの店で働いてくれれば……」

「ッ……!」


メイメイの顔から、さっと血の気が引いていく。

信頼していた幼馴染みの裏切り。それも、金のために自分を売ったという事実は、物理的な暴力よりも深く彼女の心を抉ったようだった。


彼女の瞳から光が消え、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。

その様子を見て、私は腹の底から湧き上がる冷たい怒りを覚えた。


「……話になりませんわね」


静まり返った倉庫に、私の冷ややかな声が響いた。


「あぁ?」


「そのような紙切れ、鼻紙にもなりませんわ。錯誤、公序良俗違反、そして強迫。どこの国の法に照らしても無効です。……貴方たち、頭の中まで腐っていますの?」

「……テメェ、状況が分かってんのか?」


一人の男が、私の言葉に苛立ち、ツカツカと歩み寄ってきた。私はひるまず、蔑むような視線で彼を見上げる。


「分かっていますわ。貴方たちは法で勝てないから、暴力という原始的な手段で私たちを屈服させようとしている。……そしてタカ、貴方はもっと罪深い」


私は視線の矛先を、震えるタカへと向けた。


「貴方は、彼女の『善意』を利用しました。彼女が貴方に向けてくれた純粋な応援の心を、己の欲望と保身のために踏みにじった。……それは、騎士道において最も恥ずべき行為ですわ」


「う、うるさい! 俺だって被害者なんだよ! 金返せって脅されて……!」

「だからといって、無垢な少女を生贄に捧げて良い理由にはなりません!」


私の喝破に、タカは「ヒィッ」と悲鳴を上げて後ずさった。

図星を突かれた男の顔は、醜く歪んでいる。


「チッ、御託はいいんだよ!」


男が舌打ちをし、私の胸ぐらを掴み上げた。


「法だの騎士道だの、ここじゃ関係ねえんだよ。ここにあるのは、俺たちというルールと、暴力という執行権だけだ。……分からせてやるよ」


男の手には、銀色に光るナイフが握られている。

その切っ先が、私の頬にぴたりと当てられた。冷たい感触。じわりと肌が切れる痛み。


「やめて……! ソフィアさんに手を出さないで!」


メイメイが叫ぶが、他の男たちに押さえつけられている。


「へっ、いいザマだ。動画でも撮っておまえの男にでも送りつけてやろうか? そうすれば、男が金を用意してくれるだろ?」


男の卑俗な視線が、私の体を舐めるように這う。

私は背筋を伸ばし、公爵令嬢としての矜持だけで彼を睨み返した。


「……私の婚約者は、貴方たちが想像するより遥かに恐ろしい存在ですわよ。今のうちに解放して、警察に自首することをお勧めしますわ」

「ハッ、強がり言ってる場合かよ!」


私は奥歯を噛み締めた。


これは、精一杯の虚勢だ。


私の唯一の通信手段であるスマートフォンは、あの路地裏の室外機の裏で埃をかぶっている。彼に救難信号ひとつ、送れていないのだ。

このコンクリートの迷宮のような街で、彼が私の居場所を特定する術など、論理的に考えて存在するはずがない。探知魔法もなければ、使い魔もいない。


私の冷徹な理性が、"彼は来ない"という絶望的な事実を突きつけてくる。体が震えそうになるのを、必死に耐える。


けれど。

それでも、縋ってしまう。


論理も確率も超えて、あの男なら――あの"鉄血鋼鬼"ならば、現れてくれるのではないかと。


私たちはかつて、神へと誓った契約によって魂でつながっていた。異なる世界を超えてまで、彼とはつながっていたのだ。

それは、誇り高い公爵令嬢らしからぬ、弱く、情けない乙女の祈り。


(……お願い、アルフ。私を見つけて……!)


「……強がりではありませんわ。ただの慈悲です」

「慈悲ぃ? 舐めてんのかこのアマ!」


男が激昂し、手を振り上げたその時。


ドォォォォォン!!!


何かが爆発したかのような、凄まじい轟音が倉庫全体を揺るがした。


分厚い鉄扉が内側にくの字にひしゃげ、蝶番を引きちぎって吹き飛ぶ。


砂煙が舞う入り口。

逆光の中に、ヘルメットを被った作業着姿のシルエットが立っていた。


「……あ?」


男たちが呆気にとられて振り返る。

その人影――アルフレッドは、私の胸元を掴む男の手と、突きつけられたナイフを、絶対零度の瞳で射抜いた。


「……その薄汚い手を、我が"心"から離せ。――いや、そのままにしていろ。直ちに殲滅する」

「な、誰だテメェ!」


アルフレッドは、冷徹な青い瞳で、倉庫内をスキャンするように、見回した。位置関係や空間構成を確認したのだろう。

その瞳が、私とメイメイ、そして六人の男たちを捉えた。


「掌握、という言葉のまま、すべてを握り潰さん」


その声には、怒りも、焦りも、殺気さえもなかった。

ただ、事務的な"処理"を行う機械の冷たさだけがあった。


「な、なんだテメェ!」


男の一人がバットを振り上げ、怒鳴りながら駆け寄る。

アルフレッドは歩みを止めず、進み続けるが、その肩口目掛けてバットが振り下ろされた。


ゴッ。


鈍い音がして、バッドはたしかに、アルフレッドに直撃したが、その音は人を殴ったときの音にはほど遠い。

まるで、大きな岩にでもたたきつけたかのような音。


「なっ!?」


ダメージはむしろ、殴った方に向かった。バッドが手からこぼれ、カランカラン、と乾いた金属音が響く。


次の瞬間。

男は、糸の切れた操り人形のように、クシャッと地面に崩れ落ちた。

悲鳴すらない。アルフレッドはただ、右手を前にかざしているだけで、触れていない。

しかし、よく見れば、男の手や足が、曲がってはいけない方にぐにゃりと曲がって、ビクッビクッと痙攣している。


誰の目にも、男が何をされたのかわからなかっただろう。

しかし、私の目には、アルフレッドが纏う、禍々しい魔力の大きな手が、男を押しつぶしてるのが見えた。


「や、やれ! 殺せ!」


残りの男たちがナイフやスタンガンを構えて襲いかかる。

だが、それは戦いではなかった。


アルフレッドが手をかざすだけで、男たちは地面に押しつぶされていくのだから。


鉄血鋼鬼てっけつこうき

「な、なんだって……?」

「あの化物の異名ですわ。ああなっては、私の声さえ届かない」


あっという間に、立っているのは一人の男だけになった。

男は顔を引きつらせ、後ずさりする。


「ば、化け物……ッ!」


男はパニックになり、私の背後に回り込んで、喉元にナイフを突きつけた。


「く、来るな! 近づいたらこいつを殺すぞ!」


刃先が私の首筋に食い込む。チクリとした痛みが走り、熱いしずくが伝う。

普通の彼氏なら、ここで足を止めるだろう。「やめろ!」と叫び、交渉を試みるだろう。


けれど、アルフレッドは止まらない。

彼は私と男を見据えたまま、一定のリズムで、カツ、カツ、と安全靴の音を響かせて歩を進めてくる。


その瞳には、私の命を案じる色など微塵もない。

あるのは"標的までの距離"を測るレンズのような冷徹さだけ。


「ひ、ひぃッ! 本気かよ!? こいつが死んでもいいのかよ!」


男の手が恐怖で震え、刃が肌を揺らす。それでも、アルフレッドは歩速を緩めない。


「嘘だろ……なんで止まらねえんだよ……!」


男が泣きそうな声で叫ぶ。

私は彼への哀れみすら感じながら、深くため息をついた。

そして、震える男に告げる。


「……無駄ですわよ」


私の声に、男がギョッとして私を見る。


「彼は感情で戦ったりしませんわ。今の彼は、ただ無言で、無感動に、敵を排除するつるぎそのもの。鉄の血で動く鋼の鬼。……現代の言葉で言うなら、まさに『殺戮機械デスマシーン』ですわ」

「は……?」

「人質? 何の意味もありませんわ。今の彼にとって、わたくしは"攻撃対象ではない"程度の認識でしてよ?」


それは、紛れもない事実。

かつて、わたくしも"悪役令嬢"として、社交界では恐れられた存在だったが、戦場において、彼ほど恐れられた存在はいない。


"鉄血鋼鬼"と呼ばれた彼――若き辺境伯当主であった"アルフレッド・フォン・バルテンベルク"。

かつて、隣国との国境紛争において、彼はたった一騎で万の部隊を敗走させたという伝説がある。


だが、人々が、そして敵国の将軍たちが真に震え上がったのは、その圧倒的な武勇ではない。

彼という存在に対し"人間的な駆け引き"が一切通用しないという、絶望的な事実に対してだ。


敵が占領した村の民を盾にし、降伏を迫ったことがあった。普通の騎士ならば剣を止め、苦渋の決断を迫られる場面だ。

しかし"鉄血鋼鬼"は止まらない。眉一つ動かさず、歩調さえ緩めず、民ごと敵将を槍で貫いた。

結果として、民は奇跡的にも――あるいは神業のような計算によって――急所を外れ、傷一つで生還し、敵将のみが絶命した。

助けられた民でさえ、感謝の前に失禁して震え上がったという。


「人質を取れば助かる」「情に訴えれば止まる」


そんな人間らしい甘えや希望的観測は、彼という災害の前では無意味。

彼はただ、最適かつ最短のルートで"敵の殲滅"という解を出力するだけの、殺戮機構なのだから。


そして今。

私を人質にとった男も、同じ過ちを犯し、同じ絶望の淵に立たされている。


「ひ、ひぃぃぃ……!」


男の喉から、言葉にならない悲鳴が漏れる。

アルフレッドの背後から立ち昇る、濃密な魔力の揺らぎ。男には見えていないはずの魔力は、空間を歪ませるほどだ。


男の手が震え、ナイフが私の首筋から離れた、その一瞬。


アルフレッドが、無造作に左手を振った。

まるで、目の前の羽虫を払うかのような、軽い動作。


ドォォォン!!


「がはっ……!?」


次の瞬間、男の体は、見えない巨人の拳に殴られたかのように真後ろへと吹き飛んでいた。

私の首筋を切り裂く暇など与えられない。


不可視の衝撃波マナ・インパクトが、男のあばら骨を粉砕しながら、彼を倉庫の壁まで運搬したのだ。

ズドンッ! と、コンクリートの壁に男がめり込む。そのままズルズルと崩れ落ち、二度と動かなくなった。


┏━━━━━━━●

Deep Silence

┗━━━━━━━●


一瞬の静寂。


アルフレッドは、残心をとることもなく、ゆっくりと周りを見回した。

その瞳から、先ほどまでの冷徹な氷の色が消え、いつもの少し困ったような、不器用な青年の色が戻ってくる。


彼はふぅ、と小さく息を吐くと、慌てた様子で私に駆け寄ってきた。

その手つきは、先ほど男たちを鉄屑のように排除した時とは打って変わり、壊れ物を扱うように繊細で優しい。


「ソフィア! 無事か!? 怪我は……首に、血が!」

「かすり傷ですわ。貴方が来るのが遅いから、蚊に刺されたようなものです」


「すまない……!私の魂が君の危機を感じ、すぐに駆けつけたんだが、市街地を駆け抜けるのに手間取った」


彼は痛ましげに顔を歪めると、作業着のポケットから清潔な手拭いを取り出し、そっと私の首筋に当てた。

その温かい手のひらに、私はようやく、張り詰めていた緊張を解いた。


「もう……相変わらず無茶苦茶ですわね、あの状態となったあなたは」


私は苦笑し、彼の手に自分の手を重ねた。

部屋の隅では、腰を抜かしたメイメイが、信じられないものを見る目でこちらを見ている。


「ソ、ソフィアさん……その人は……一体……?」

「ああ。紹介していませんでしたわね、わたくしの婚約者ですわ。一緒に暮らしていますの」


「こ、こんやくしゃ!」


なぜか、メイメイよりも先に、メイメイの幼馴染みにして今回の元凶――タカが反応した。

だか、私もアルフレッドも、そしてメイメイも意識的に彼の存在を無視した。


「ああ。あなたがメイメイか。私はアル――、いや、長谷川琅汰はせがわろうただ。ソフィ――咲夜花さよかから、恩人だと聞いている」

「彼女には、ソフィアで、大丈夫ですわ」


「そうか。私からも感謝する。ソフィアはまだここに馴染めていないころ、心細い思いをしていたが、あなたのおかげで――」

「い、いえ!私の方こそ、ソフィアさんにはいつも助けてもらってばかりで――」


メイメイとアルフレッドが、なぜか私を中心にして親睦を深め始めていた。

遠くから、パトカーのサイレンが聞こえてきた。

アルフレッドが突入前に通報しておいてくれたのだろう。


騒動の幕引きは、迅速かつ事務的に行われた。


駆けつけた警察と救急隊によって、倉庫はたちまち喧騒に包まれた。

担架で運ばれていく男たちの姿は、それはもう無残なもので、手足があらぬ方向へ曲がっていたり、壁にめり込んだ衝撃で全身打撲を負っていたりと散々な有様だった。


しかし、奇跡的にも全員、命に別状はないとのことだった。


「……手加減はした。殺してしまっては、君が悲しむだろうからな」


アルフレッドはポツリとそう言った。

どうやら、彼の中に宿る現代人"長谷川琅汰"としての理性が、"鉄血鋼鬼"の暴走にギリギリでブレーキを掛けてくれたらしい。


「しかし、素手でこれだけの人数を……一体どうやったんです?」


現場検証をする警官の困惑した問いに、彼は顔色一つ変えずにこう答えた。


「武術の心得が少々ありまして」


嘘ではない。こちらの世界には存在しない流派というだけだ。

警官は狐につままれたような顔をしていたが、彼が武器を所持していないことは明白だったため、"よほどの手練れ"ということで納得したようだった。


そして、連行されていく男たちの中には、あの裏切り者のタカの姿もあった。


「め、めぐみ! 俺は違うんだ、助けてくれ!」


パトカーに乗せられる際、彼は必死にメイメイに縋り付こうとした。

けれど、メイメイは私とアルフレッドの背中に隠れ、震える声で警官に告げた。


「……私、あんな人知りません。あそこの怖い人たちの仲間です」

「えっ!? めぐ……!?」


「私たちも、あのような殿方に見覚えはありませんわね」

「ああ。ただの犯罪者の一味だろう」


私たちの冷徹な拒絶に、タカは絶望の表情を浮かべたまま、パトカーへと押し込まれていった。

自業自得だ。幼馴染みのメイメイを裏切り、欲望のためにメイメイを売ったのだ。

その報いは法の下でたっぷりと受けてもらわねばならない。


騒動が落ち着き、夕闇が迫る頃。

メイメイが改めて、私たちに向かって深々と頭を下げた。


「ソフィアさん、琅汰さん……本当にごめんなさい。私のせいで……」


「気にしないで。貴女が無事で本当によかった」

「あの……お詫びと言ってはなんですけど、今度、後日改めて、私が『幻のパンケーキ』をご馳走します! 予約も私が死ぬ気で取りますから!」


涙目で訴える彼女に、私はふわりと微笑んだ。

今日のパンケーキは幻と消えたけれど、代わりに得たものは大きかったかもしれない。


「ええ、楽しみにしていますわ。……でも、その時は」


私は隣で、心配そうに私の首の傷へ絆創膏(救急隊員から譲ってもらったらしい)を貼ろうとしている、愛しい"鉄血鋼鬼てっけつこうき"を見上げた。


「最強の護衛付きでお願いね、メイメイ」


こうして、私たちの波乱に満ちた休日は、遠ざかるパトカーの音と共に幕を閉じたのである


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Tales Untold

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秋の夜風が、火照った頬を撫でていく。

街灯が等間隔に並ぶ帰路を、私たちはゆっくりと進んでいた。


「……重くはありませんこと?」

「羽毛のようだ。装備したフルプレートメイルに比べれば、着ていないのと同義だ」


アルフレッドの背中で、私は小さく息を吐いた。

今の私は、彼の広い背中に背負われている――いわゆる"おんぶ"の状態だ。


倉庫を出た後、私は「自分の足で歩けます」と気丈に振る舞った。

けれど、足元がおぼつかないことは、歴戦の戦士である彼の目をごまかすことはできなかった。


『なら、こうしよう』


彼はそう言うなり、衆目の中で私を軽々と横抱き――"お姫様抱っこ"をしようとしたのだ。

公道で、しかも作業着とメイド服という異様な出で立ちでそれをされるのは、さすがに羞恥心で死んでしまう。


私は必死の抵抗の末、この"おんぶ"で妥協してもらったのだった。


「……アルフの背中は、広いですわね」

「そうか? この世界の肉体は貧弱だ。もっと鍛え直さねば、君を守る盾として心許ない」


彼の作業着からは、鉄錆と埃、そして男らしい汗の匂いがした。

かつての煌びやかな軍服の香りとは違う。けれど、今の私には、どんな高級な香水よりもこの"労働の匂い"が愛おしく、安心できるものに感じられた。


ト、ト、ト。


彼が歩くたびに伝わってくる、規則正しい振動と体温。

その温もりに顔を埋めながら、私は密かに、胸元の洋服の上から自分の心臓を押さえた。


(……ああ、やはり)


ドクン、と心臓が嫌な音を立てて脈打つ。


先ほどの倉庫での出来事が、脳裏をよぎる。

あの時、私は恐怖に駆られ、自身の魔力で状況を打破しようと試みた。

アルフレッドが、あの場所を見つけられないかもしれないという不安から、必死に魔力を練り上げようとしたのだ。


けれど、何も起きなかった。

魔力は、まったく働かなかった。


指先一つ、空気さえも震わせることはできず、ただ無力な沈黙が返ってきただけだった。

それは、魔力の暴走よりも恐ろしい事実を私に突きつけていた。


まるで、魔力を完全に失ってしまったかのような虚無感。

つまり、もう私には、この世界に留まるための"力"が残されていない。


あとは、古びた塗装が剥がれ落ちるように、魂の崩壊が静かに、しかし確実に始まるのだろう。


魂と肉体の乖離。

本来交わるはずのない二つの世界を、無理やり繋ぎ止めていた糸が、プツリ、プツリと切れ始めている。


「……ねえ、アルフ」

「なんだ」


「今日のパンケーキ、残念でしたわね」

「ああ。だが、また行けばいい。メイメイが予約を取ると言っていた」


「……ええ。そうですわね」


行けるだろうか。

来週の土曜日、私はまだ、この温かい背中に触れていられるだろうか。


アルフレッドの足取りは力強い。

彼は信じているのだ。私たちがこの世界で生き抜き、いつか平穏な日々を手に入れる未来を。

"入浴剤"や"美味しい食事"が、私たちを癒やし、繋ぎ止めてくれると、無骨に、純粋に信じている。


けれど、私は気づいてしまった。


この背中から伝わる圧倒的な"生"の熱量とは対照的に、私の内側にある灯火が、風前の灯のように揺らいでいることに。


(……ごめんなさい、アルフ)


私は彼の首に回した腕に、ぎゅっと力を込めた。


「ソフィア? 落ちそうか?」

「いいえ……。ただ、もう少しだけ、こうしていたくて」


もし、私がこのまま消えてしまったら、彼はどれほど悲しむだろう。

あの"鉄血鋼鬼"を、ただの迷子にしてしまうことだけが、今の私には心残りだった。


だから、今はまだ言わない。

この優しい夜と、彼の背中の温もりが続く限りは、ただの幸せな女として振る舞わせてほしい。


「……アルフ」

「うん」


「少し、眠ってもよろしくて?」

「ああ。家に着いたら起こす。ゆっくり休むといい」


「……はい。……おやすみなさい、私の騎士様」


私は瞳を閉じた。

遠くなる意識の中で、街灯の光が滲み、まるで走馬灯のように流れていく。

私は自身の終わりを予感しながら、それでも今は、愛する男の体温だけを道標に、深い微睡みへと落ちていった。

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