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悪役令嬢はポイントカードの還元率を侮らない。  作者: 柏原夏鉈


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第五話「闇鍋風ごった煮」


┏━━━━━━━●

The Awakening

┗━━━━━━━●


金曜日。

それは、現代日本という過酷な労働環境に生きる民にとって、"希望"と同義の言葉であると、アルフレッドが言っていた。

長い戦いの果てに約束された、安息日(週末)への入り口。


しかし、その希望の朝に、私たちは最大の危機に直面していた。


「……アルフ。下肢が……動きませんわ」

「奇遇だな、ソフィア。俺もだ。下半身の感覚が、この熱源と同化している」


場所はリビング。時刻は、出勤のリミットまであとわずか。

本来であれば、身支度を整え、玄関で靴紐を結んでいるはずの時間帯だ。


しかし、私たちはローテーブルにふかふかの布団が融合した魔導具――その名を『炬燵こたつ』という――に、腰から下を完全に飲み込まれていた。


「恐ろしい装置だ。恒温維持機能が人間の『活動意欲』というパラメータを物理的に削ぎ落としに来ている」


アルフレッドが、マグカップを両手で包み込みながら、戦慄したように呟く。

彼の瞳は虚ろで、かつての"鉄血鋼鬼"の鋭さは見る影もない。ただの"暖を貪る大型動物"になり果てている。

例えるなら、"もうシベリアには帰れないシベリアンハスキー"。


「ええ。窓の外は氷の精霊の狂乱というべき寒波が荒れ狂っていますもの。ここから出ることは、極寒の雪山に裸で放り出されるのと同義ですわ」


私はとろんとした目で、コタツの天板に置かれた黄金の果実みかんに手を伸ばした。

鮮やかなオレンジ色の果皮を剥くと、爽やかな柑橘の香りが広がる。

それを一房口に放り込み、甘酸っぱい果汁と共に、温かな空気を肺いっぱいに吸い込む。


至福。これぞ堕落の極み。


テレビでは、お天気お姉さんが「今日はこの冬一番の冷え込みになります! 外出の際は暖かくしてくださいね」と、残酷な宣告を笑顔で行っていた。


「だがソフィア、出撃時刻は刻一刻と迫っている」

「わかっていますわ。……でも、あと五分。あと五分だけ、この聖なる加護に包まれていたいのです。私の足先が、まだ完全には解凍されていませんの」

「合理的判断だ。末端冷え性は機動力を著しく低下させる。体温低下によるパフォーマンスダウンを防ぐため、ギリギリまで充填を行うべきだ」


結局、私たちは互いに"合理的"という言葉でコーティングした言い訳を重ね、出発の十分前までその場を動かなかった。


時が無慈悲に進む。


「……アルフ。あと十分ですわ」

「……ああ。計算上、今すぐ離脱しなければ遅刻確定だ」

「でも、体が……抜け出せません……」

「くっ……! なんという強力な拘束術式だ……!」


私たちは、まるで泥沼にハマった冒険者のように、炬燵こたつの布団を握りしめた。

このままでは、社会的信用という名のHPがゼロになってしまう。

アルフレッドが、決死の形相で私を見た。


「ソフィア! カウントダウンを行う! ゼロと同時に、意識を脚部に集中させ、緊急離脱するぞ!」

「りょ、了解しましたわ……!」


「3、2、1……今だッ!!」


「せーのっ!!」


「「うおおおおおっ!!」」


私たちは戦士の咆哮(奇声)を上げ、布団を跳ね飛ばして立ち上がった。


瞬時に襲い来る室内の冷気。

奪われた加護に悲鳴を上げながら、私たちは半狂乱で着替えを開始した。


「ソフィア、カバンは!?」

「持ちました! 貴方、お弁当は!?」


「確保した!いくぞ! ……ああっ、炬燵こたつのスイッチを切り忘れたか?」

「安心して!私がが切ったわ! 指差し確認もした!行きましょう!」


バタン! と勢いよくドアを閉め、私たちは寒風の吹きすさぶ朝の街へと飛び出した。

金曜日の朝は、こうして優雅さの欠片もなく、慌ただしく幕を開けた。


┏━━━━━━━●

High Heavens

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ランチタイムの激戦ピークを越え、午後のティータイムに入った店内は、比較的穏やかな空気に包まれている。


「お帰りなさいませ、ご主人様」


私の声は、心なしか弾んでいた。今日を乗り切れば、明日は安息日。

その事実は、どんな高位の回復魔法よりも心身を軽くし、私の接客スマイルに自然な輝きを与えていた。


しかし、週末の午下がりというのは、得てしてトラブルが現れやすい時間帯でもある。

油断していた私の前に、その"魔物"は現れた。


「おいおい、新人ちゃん。水が遅いよ、水が」


カウンターの奥まった席。

そこに陣取ったのは、少し恰幅の良い中年男性だった。

着古したネルシャツに、使い込んだデニム。


そして何より目を引くのは、その腕に巻かれた数本のリストバンドだ。

それらは、この店の周年イベントや、特定の推しメイドの生誕祭で配られた限定品。

つまり、彼がこの店の"古参"であることを示す勲章だった。


「も、申し訳ありません……!」


新人メイドが、震える手でお冷を置く。男はそれを鼻で笑い、ふんぞり返った。


「まったく、最近の子はなってないねぇ。俺の顔、覚えてない? 店長ともマブダチだし? 俺のオーダーはメニューになくても通るのが常識なんだけど?」

「……え、あの、そういうのはやってないって……」


「はぁ? マニュアル通りの対応しかできないの? つまんないねぇ」


彼が要求したのは『裏メニューの激辛パフェ』なる代物。

そんなものは存在しないし、調理場も困惑して動きを止めてしまっている。


彼の大きな声と威圧的な態度に、周囲の新規客――おそらく初めてこの店に来たであろう若者たち――が、怯えて縮こまっているのが見えた。

せっかくの休日のティータイムが、暴力的な緊張感で台無しだ。


(……空気が、濁っていますわね)


私はスッと息を吸い込み、表情筋を完全な"王宮侍女モード"に切り替えた。


お盆を胸に抱き、冷ややかな、しかし気品ある微笑みを湛えて彼に歩み寄る。

私の足音は、不思議と店内の喧騒を吸い込むように響いた。 新人の肩を優しく叩いて下がらせ、私がその男の正面に立つ。


「お客様。……いえ、我が『王宮の庭園』の誉れ高き『騎士様』とお見受けします」


男はグラスに口をつけようとしていた手を止め、怪訝そうに顔を上げた。


「あ? お、おう。なんだ、ソフィアちゃんか」


私が急に芝居がかった口調になったことに、男は少し虚を突かれた顔をした。

私は彼の隣に膝を折らない程度に身を屈め、彼の自慢であるリストバンドを指先でそっと示した。


「その腕輪……幾星霜もの時を超え、長きにわたりこの王宮を支えてこられた証ですね」

「お、おう。そ、そうだろう? わかるか?」


「ええ、分かりますとも。歴戦の勇士にのみ許された、栄光の数々……。貴方様がどれほどこの国を愛し、貢献されてきたか。私にも、その魂の重みが伝わってまいります」

「さすがソフィアちゃん、わかってるねぇ」


男が鼻高々に胸を張り、緩んだ顔で頷く。


周囲への威嚇に使っていた"古参"の鎧を、私に認められたことで武装解除したのだ。

承認欲求が満たされ、彼の精神防壁が完全に下がった瞬間。


私は、声を一段低くし、しかし慈愛を込めて厳かに切り込んだ。


「――ならば何故、その『騎士の誇り』を汚すような真似をなさるのです?」

「えっ?」


男の動きが凍りついた。

私は悲しげに眉を寄せ、まるで裏切られた主君のような、あるいは出来の悪い教え子を諭す家庭教師のような瞳で彼を見下ろした。


「嘆かわしいことですわ。貴方様ともあろうお方が、これほど『美しくない』振る舞いをなさるとは」


店内が水を打ったように静まり返る。


周囲の客たちは、何が始まったのかと固唾を飲んで私たちを見つめている。

私は、恭しくテーブルに一冊の書物を置いた。


安っぽいラミネート加工のメニュー表ではない。

深紅のビロード張りで仕上げられた表紙には、金箔でこの店の紋章が刻印されている。


私たちはそれを"晩餐会のプログラム"と呼んだ。


規律ルールというものには、必ず"そうなるべくして成った"という歴史の重みが伴うものです」

「き、規律……?」


「ええ。ご覧なさいませ。これらは、我が『王宮の庭園」の料理人が研鑽を重ねた、至高の演目」


分厚い羊皮紙をめくると、見開きの左側には「本日の演目メニュー」と題された一覧が並んでいる。


<『深紅の宝石ルビー白亜の城塞シタデル』 ~契約のいちごパフェ・王家の印を添えて~>

<『午後の優雅なる戯れロイヤル・ティー・パーティー』 ~3段ケーキスタンドとスコーンの盛り合わせ~>

<『黄金の玉座ゴールデン・スローン』 ~ふわとろデミオムライス・ケチャップの魔法~>

<『近衛騎士団の凱旋ヴィクトリー・ミート』 ~黒毛和牛の爆弾ハンバーグ~>


「歴史とは、積み重ねてきた数多の試行錯誤と物語ストーリーの上に成り立つもの。未熟な若者や、無法な蛮族ならば、そうした規律を軽んじ、歴史を破りたがるのも理解できます。ですが……」


私は一拍置き、彼の目を射抜くように見据えた。


「貴方様は、この『王宮の庭園』を守護する騎士ではありませんか? 規律を遵守し、歴史を守ることこそが、ご自身の『権威』を守ることに繋がるのです。貴方様なら、当然ご存知のはずでしょう?」


論理のすり替えだ。 ルールを守るのは"従順だから"ではない。"高潔な騎士だから"と定義し直したのだ。

男の口がパクパクと動くが、言葉が出てこない。


「騎士様。貴方が求められた『裏メニューの激辛パフェ』など、言うなれば―― 『厳粛なる戴冠式の最中に、飼いかいばませよとわめく』がごとき蛮行」

「か、飼い葉……!?」

「ええ。我が国の料理人が腕を振るった『演目』よりも、そのような家畜の餌がお望みならば……どうぞ、お里の馬小屋へお帰りあそばせ?」


男は、雷に打たれたような顔をした。

"出来ない"と言われれば反発できただろう。


だが、「騎士としてあるまじき行為だ」と諭され、彼は自らの振る舞いが、いかにこの場の"魔法"を解いてしまっていたかを自覚させられたのだ。

男もまた、客席で口を開けてステージを見ているだけの観客ではない。この場を構成する、演者キャストの一人なのだと。


周囲の若者たちの視線も変わる。"怖いおじさん"から"空気の読めないカッコ悪い人"へ。

その無言の圧力に気づいたのか、男の顔がみるみると赤くなる。


「わ、私は……」


男は自身の未熟さを認めた。しかし、振り上げた拳の下ろし方がわからないのだろう。


私は表情を一気に緩め、慈愛に満ちた聖母の微笑みを向けた。


飴と鞭。そして、最後には必ず"逃げ道"という名の救済を用意する。

それが統治者の務めだ。 私は"晩餐会のプログラム"を、まるで舞踏会の招待状のように優雅に差し出した。


「貴方がこの国を愛してくださっていることは、誰よりも私が存じております。真の重鎮とは、王道グランドメニューを誰よりも優雅に味わってこそ。さあ、この場は騎士らしく、オーダーなさいませ」


私はウィンクを一つ添えて、囁く。


「『深紅の宝石ルビー白亜の城塞シタデル』<いちごパフェ>を!……それが、貴方様の品格を取り戻す、唯一の儀式オーダーですわ。……よろしいですね?」


男はハッとして顔を上げた。そこにはもう、卑屈な色はなかった。

ソフィアという"高貴な存在"から、直々に名誉挽回のチャンスを与えられたのだ。


彼は背筋をピンと伸ばし、まるで騎士団の入団式のような面持ちで叫んだ。


「はっ! 喜んで! いちごパフェ、一つ!」

「かしこまりましたわ」


運ばれてきたパフェを前に、男の態度は一変していた。

背中を丸めてガツガツ食べるのではなく、銀のスプーンを丁寧に扱い、一口一口を味わうように口に運ぶ。


その、どこか滑稽で、しかし一生懸命に"エレガント"であろうとする姿に、怯えていた若者たちの表情も緩んでいく。

恐怖の対象だった男が、今は少し微笑ましい"変わった常連さん"へと昇華されたのだ。


帰り際、彼はレジで深々と頭を下げた。


「ご馳走様でした! ……あの、騒がしてすまなかったね」


その言葉は、私ではなく、怯えさせてしまった新人メイドに向けられたものだった。


「い、いえ! ありがとうございました!」


新人の明るい声が響く。

男は少し照れくさそうに鼻をこすり、しかし入店時よりもずっと凛々しい足取りで店を後にした。


ふぅ、一件落着ですわ。


私は小さくため息をつき、スカートの埃を払う仕草をした。

これくらいの手綱捌き、王宮の古狸たちに比べれば、赤子の手をひねるようなものですもの。


バックヤードに戻りスマートフォンを見ると、アルフレッドからのメッセージが入っていた。


『現在、戦線離脱。現場の資材搬入および最終防衛ラインの構築完了』


彼は今、様々な工事現場に助っ人として飛び回っている。

力仕事から精密な作業までこなす彼は、どこの現場でも重宝されているらしい。


『お疲れ様。こちらも厄介な騎士を一人、改心させたところよ』

『騎士? ……まさか、貴族の刺客か?』


『ふふ、違うわ。ただの忠義に厚いお客様よ。……帰りに麦酒ビールを買ってきてくださる? 今夜は宴ですわ』

『了解した。プレミアムな聖水ビールを調達する』


┏━━━━━━━●

Deep Silence

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「「一週間、お疲れ様でした!」」


カシュッ! という小気味よい音と共に、缶ビールのプルタブが開けられる。

アパートの狭いリビングには、幸せな湯気と香りが充満していた。


炬燵こたつの中央に鎮座するのは、我が家の家宝(ドン・キホーテで買った土鍋)だ。


「今夜は『鍋』ですわ。冷蔵庫の余り物を全て投入した、名付けて『在庫一掃・闇鍋風ごった煮』です!」

「素晴らしいネーミングだ。混沌カオスの中に秩序が見える」


アルフレッドが鍋の蓋を開ける。


ふわぁっと広がる、出汁と醤油の優しい香り。

白菜、ネギ、えのき、豆腐、そして豚バラ肉と鶏団子。

色とりどりの具材が、グツグツと煮える黄金色のスープの中で踊っている。


「闇鍋」とは言ったものの、中身は至ってまともな寄せ鍋だ。

ただ、冷蔵庫の奥で眠っていたちくわや、賞味期限ギリギリの油揚げも入っているので、バラエティ豊かではある。


「いただきます」


私たちは小皿に取り分け、熱々の白菜をハフハフと言いながら口に運んだ。

出汁が染み込んでクタクタになった白菜。噛むたびに、熱いスープがジュワッと溢れ出す。


「……んんっ! 熱い、けど美味しい!」

「ああ。体が芯から温まる。五臓六腑に染み渡るとはこのことか」


アルフレッドも、眼鏡を湯気で曇らせながら、至福の表情で頷いている。


「このスープ、何を使っているんだ? 複雑玄妙な味わいだ。王宮の料理長でも、この味を出すには丸一日煮込む必要があるぞ」

「ふふ、驚かないでくださいね。スーパーで売っていた『鍋の素・寄せ鍋味』ですわ」


「……なんと」


アルフレッドが目を見開く。


「あのパウチに入った液体か。……恐るべき技術だ。液体を入れるだけで料亭の味になるなんて、日本の食品ギルドには大魔導師、あるいは錬金術の大家がいるに違いない」

「同感ですわ」


冷たい麦酒ビールを流し込むと、熱々の鍋で温まった食道と胃袋がキュッと引き締まる。

熱さと冷たさが喉で喧嘩して、最高に心地よい刺激となる。これが「整う」という感覚なのかもしれない。


アルフレッドも、普段の無表情を少し崩して、リラックスした様子で鶏団子をつついている。

その姿を見ているだけで、一週間の疲れが溶けていくようだ。


「そういえばソフィア。メッセージにあった『騎士』の話だが」

「ああ、あのお客様のこと?」


私はビールを置き、昼間の出来事を詳しく話して聞かせた。

常連客が我儘を言ったこと。それを「騎士」に見立てて説教し、プライドをくすぐって改心させたこと。


「……なるほど」


アルフレッドの手が止まった。

箸でつまんでいた豆腐が、ぽちゃんと鍋に戻る。


彼の目が、スッと細められた。

室内の空気が、一瞬で数度下がった気がした。コタツに入っているのに、背筋が寒い。


「その男、君が騎士と呼ぶほどの資格があるとでも?」


声のトーンが低い。地を這うような重低音だ。


「え、ええ。あくまでお店の中での話しですわ。貴族の社交界にも居ますわ、"着飾った石像"と呼ばれる者たち。主催者に敬意を払わず、会話を投げ返すこともしない。ただそこに在り、磨き上げられた床の面積を無駄に占有するだけの障害物です。だから、騎士と呼ぶことで、目を覚まして差し上げたのですわ」


「――私が社交界で、ソフィアから名を呼ばれ、差し出した手に手を乗せてもらうまで、どれほど時間がかかったと。 ……特定は容易だ。琅汰の記憶にある技術で、店の予約リストと防犯カメラの映像を照合すれば……」

「ちょっと! 何ブツブツ言っていますの!?」


彼がスマホを取り出し、何やら不穏なことを言い始めたので、私は慌ててその手を掴んだ。


「貴方、何をしようとしていますの!?」

「ソフィア。もしその男が、君に対して『忠誠』以上の感情……、例えば、異性としての好意や執着を抱いた場合、それは排除対象となる。早期に芽を摘む必要がある」


彼の目は本気だった。


「念のため、来週から私が店の前の電柱の影で歩哨を行おうか? この身体も、仕上がってきているから、声も出すことすら許さずに制圧は可能……」

「絶対におやめなさい!!」


私は思わず立ち上がり、彼のおでこをペチッと叩いた。


「営業妨害で通報されますわよ!? 貴方は工事現場の平和だけを守っていればいいのです!」

「……む。しかし……君は無防備すぎる。君のその魅力が、無自覚に男を狂わせることを理解していない」


彼は眉間に皺を寄せ、不満げに口を尖らせた。

その拗ねたような子供っぽい表情に、私はふと気づいてしまった。この鈍感な武人が、こんな風に感情を露わにする理由。


私は怒るのをやめて、口元を緩めた。

そして、わざとらしく身を乗り出し、彼の顔を覗き込んだ。


「もしかして……嫉妬なさっているの?」

「ッ……!?」


図星だったらしい。


「あら……? アルフ、お顔が赤いですわよ?」


「……鍋の熱気のせいだ」

「いいえ、そんなごまかしは通用しませんわ。その不満げな目、尖らせた唇……、間違いありません」


私は人差し指で、彼の胸板をつん、とつついた。

アルフレッドがビクリと肩を震わせ、わかりやすく狼狽した。


「ば、馬鹿な。私はただ、君の身の安全を……リスク管理の一環として……」

「ふふ、正直におっしゃいなさいな。他の殿方が私を『姫』と呼んだのが、面白くなかったのでしょう?」


「…………」

「私が他の誰かに笑顔を向けるのが、嫌だったのでしょう?」


畳みかけるように問うと、彼は観念したように大きく息を吐き、そっぽを向いた。

耳まで真っ赤だ。


「……そうだ。不愉快だった」


絞り出すような、低い声。


「君は私の婚約者だ。君の前で跪くのも、その笑顔を独占するのも、本来は私の特権のはずだ。……それを、どこの馬の骨とも知れぬ男が享受するなど、万死に値する」

「まあ……ふふふっ!」


私は堪えきれずに笑声を上げた。


なんて可愛らしい人。かつて数千の兵を率いた将軍が、たかがカフェの客一人にここまで焼き餅を焼くなんて。

愛されているという実感が、全身を駆け巡る。


「……笑うな」

「ごめんなさい。でも、嬉しいのですもの」


私は居住まいを正し、少し顔を赤らめて、まっすぐに彼を見た。


「心配しなくても大丈夫ですわ。私は永久に貴方だけの"心"。これは神にも誓った、絶対の証でしょう?」

「…………」


「貴方以外の誰かに、心を捧げるつもりなんてありませんわ。……これでも不安かしら?」


アルフレッドが目を丸くし、それから数秒フリーズする。

やがて、彼は口元を片手で覆い、深々と溜息をついた。


「……いや。十分すぎるほどだ。……完敗だよ、ソフィア」

「わかればよろしい。さあ、お野菜も食べて。煮えすぎてしまいますわよ」


私は微笑んで、彼の器に鍋の中で一番大きく育った鶏団子を入れてあげた。

鍋の湯気が、二人の間の甘く照れくさい空気を優しく隠してくれる。


「ねえ、アルフ」

「……なんだ?」


「明日のことなのですけれど」


私が話題を変えると、彼はようやくこちらを向き、いつもの穏やかな表情に戻っていた。


「ああ。明日は土曜日、安息日だな」

「ええ。そこで提案がありますの。……明日は早起きして、街へ繰り出しませんか?」


「早起き? ……この炬燵こたつによる遅滞戦術を採用しないのか?」


彼が不思議そうに首を傾げる。

私は悪戯っぽく微笑んで、スマートフォンの画面を見せた。


そこには、三段重ねの分厚いパンケーキの写真が映っていた。


「メイメイから、素晴らしい情報を仕入れましたの。『伝説のパンケーキ屋』が、駅の向こうに開店したそうですわ」

「パンケーキ……」


「噂によると、その食感は『天使の羽毛布団』のようで、口に入れた瞬間に溶けて消えるそうです。しかも、朝一番に並ばないと整理券が手に入らないとか」

「……なるほど。天使の羽毛布団か」


アルフレッドの目に、狩人の光が宿った。


「つまり、明日の作戦目標は、その伝説の甘味スイーツの確保ということだな?」


「その通りですわ。コタツで惰眠を貪っている場合ではありません。……付き合ってくださいますか?」

「愚問だな」


彼はニヤリと笑い、残りのビールを飲み干した。


「君が望むなら、地獄の釜の底だろうと、行列のできるパンケーキ屋だろうと、どこへでも供をしよう。……必ずや、その天使の羽毛布団とやらを君に献上してみせる」

「ふふ、頼もしい騎士様ですこと」


窓の外では寒風が唸り声を上げているけれど、この部屋の中は春のように暖かい。


炬燵こたつの熱と、鍋の熱と、そして愛しい人の体温。一週間の労働と、小さなトラブルと、甘い嫉妬。

それらを全部ひっくるめて、私たちはこの鍋のように、少しずつ煮込まれて、味を深めている。


「ごちそうさまでした。……さて、洗い物はジャンケンですわよ?」


私が拳を構えると、アルフレッドも真剣な眼差しで構えた。


「望むところだ。……最初はグー」

「ジャンケン……」


金曜日の夜は、穏やかに、そして甘く更けていく。

明日は待ちに待ったデート。それだけで、世界はこんなにも美しい。


┏━━━━━━━●

Tales Untold

┗━━━━━━━●


あとは寝室に移動して眠るだけ。

しかし、明日は休みなのだからと、この時間をいつまでも味わっていたい、眠るのが惜しい。


二人で炬燵こたつに並んで座ってる。

彼の手が、私の髪を優しく撫でている。


穏やかで、幸せな時間。

けれど、私の意識は時折、遠のきそうになる。


私の存在は、もう数本の糸でぶら下がっているだけのようだ。

心臓の鼓動が響くたび、魂が肉体の檻からすり抜けて、冷たい虚無へと吸い込まれそうになる。

この身体が私自身であることを拒み、私の意識を外へと追いやろうとする圧力が、遥かに強まっている。


――ああ、もうすぐなのね。


私は直感的に悟っていた。

次に大きな魔力を使えば、あるいは、何かの拍子に強い衝撃を受ければ、私の魂はこの肉体から弾き出されるだろう。


けれど不思議と、心は凪のように静かだった。


かつての私は、王子に盛られた毒によって、絶望の中で死ぬはずだった。


それが、神々の気まぐれか、運命の悪戯か。

こうして別の世界で、別の肉体を得て、愛する人と結ばれるという奇跡を体験できた。


「……アルフ」

「ん? どうした、ソフィア」


彼が心配そうに私を覗き込んだ。

その瞳に映る私は、ひどく幸せそうな顔をしているに違いない。


「いいえ、なんでもありませんわ。ただ、貴方の手が温かいなと、そう思っただけです」


私は彼の手を取り、自分の頬に押し当てた。


もし、これが、毒で死ぬ直前に見ている、都合の良い夢だったとしても。

私はこの夢を、神に感謝するでしょう。


だって、こんなにも愛おしい時間を過ごせたのだから。

彼がこれほどまでに私を愛してくれていると知ることができたのだから。


それだけで、私の人生には価値があった。

かつての傲慢な悪役令嬢の最期としては、贅沢すぎるほどの幕引きだ。


「……少し、眠くなりましたわ」

「ああ、ゆっくり休むといい。私がついている」


彼の優しい声を子守唄に、私はゆっくりとまぶたを閉じた。

このまま、この温かい闇の中で、静かに溶けていくのも悪くない。


そんな誘惑に駆られながら、私は意識を手放した。


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