第四話「漆黒のハンバーグ」
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The Awakening
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木曜日の朝。
一週間の折り返しを過ぎ、週末への渇望と蓄積された疲労がせめぎ合う、微妙な重力が発生する。
私たちのアパートの窓からも、どことなくどんよりとした空気が街全体を覆っているのが感じ取れた。
「……ん、やはり体が重いですわね」
私はダイニングの椅子に深く腰掛け、少し気怠げに呟いた。
目の前には、いつもの完璧な朝食ではなく、少し手抜きをした……いえ、"効率化"を図ったメニューが並んでいる。
トーストと、昨夜の残り物のポテトサラダ、そして即席のスープ。
「ソフィア、顔色が少し優れないな。今日は無理をせずに、家で静養していてはどうだろう?」
向かいに座るアルフレッドが、心配そうに眉を寄せる。
彼は今日も変わらず、朝の鍛錬を終えた清々しい顔をしているけれど、その目尻には微かな疲労の色が見え隠れしていた。
かつての強靭な肉体とは違う、現代人のひ弱な器。彼とて、連日の肉体労働で摩耗していないはずがない。
「いいえ、大丈夫ですわ。ただ、この"木曜"という曜日には、人の生気を吸い取る呪いでも掛かっているのではないかと思いまして」
「ふむ。確かに、兵站が尽きかけ、士気が下がり始める頃合いに似ているな。ここが正念場だ」
アルフレッドは真剣な顔で頷き、リモコンを手に取ってテレビの電源を入れた。
画面に映し出されたのは、いつもの騒がしいニュース番組……ではなく、時代劇の再放送だった。
どうやらニュースの時間は終わり、娯楽の時間帯に入ったらしい。
「……ねえ、アルフ」
私はトーストの耳をナイフで切り落としながら、画面を指差した。
ちなみに、この国の食パンは"耳"と呼ばれる外皮部分まで驚くほど柔らかく、そのまま食しても何ら不都合はないのだが。
公爵家で染み付いた習慣というのは恐ろしい。無意識のうちに、私はパンの中心部のみを摂取しようとしてしまうのだ。
「この"暴れる"将軍様のことですけれど」
「ああ。徳川吉宗公だな。この国の歴史における名君の一人にして、民草に紛れて悪を討つヒーローだ」
「彼は護衛もつけずに市井を徘徊し、あまつさえ悪党のアジトに単身乗り込んでいますわ。この国の要人警護はどうなっていますの? 」
画面の中では、煌びやかな着物を着た将軍様が、抜身の刀を掲げ、悪代官の屋敷とおぼしき場所で大立ち回りを演じていた。
「余の顔を見忘れたか!」という名乗りの後、悪党たちが一斉に襲いかかる。
しかし、私の目にはその光景が奇妙に映った。
「見て、アルフ。あの悪党たち、斬られるのを待っていますわ」
私はバターナイフを持ったまま、呆れて指摘した。
「将軍様が刀を振り上げ、決めポーズを取るまでの間、周囲の敵兵たちはまるで時間停止の魔法にかかったように棒立ちで隙をさらしているではありませんか。しかも、斬られる順番を譲り合っているようにさえ見えます。……これでは武術の訓練にもなりませんわ」
この世界の悪党は、騎士道精神でも持ち合わせているというのかしら。
私が首を傾げると、アルフレッドはコーヒーを一口啜り、まるで兵法書を紐解く老将のような穏やかさで解説を始めた。
「ソフィア、それは見方が違う。あれは『殺陣』という様式美だ」
「タテ……? 盾のことではなく?」
「ああ。彼らは命のやり取りをしているのではなく、剣による舞踏を踊っている、と考えた方が良い」
「舞踏……? 刃を交えて?」
「そうだ。観客を楽しませるための、約束された勝利の舞だ。リズム、間合い、そして散り際の美しさ。それら全てが計算され尽くしたエンターテインメントだ」
アルフレッドは画面を指差し、続ける。
「だからこそ、あそこで悪党が本気で将軍の首を狙ってはいけない。空気を読まずに背後から襲いかかったり、将軍の話を遮って攻撃したりするのは、この世界では『無粋』であり、重罪になる」
「空気を読まずに……」
私はため息をついた。
この国の"空気"という概念は、高等魔術の理論よりも難解で、掴みどころがない。
目に見えず、誰も明文化しないのに、破れば社会的な死が待っているという絶対の掟。
「まあ、平和な証拠ですわね。剣が人を殺す道具ではなく、人を楽しませるための小道具になっているのですから」
「そういうことだ。血の流れない戦い、誰も死なない刃。……我々が目指すべき理想郷の姿かもしれないな」
「大げさですわ」
私が苦笑すると、アルフレッドもつられて小さく笑った。
時計の針が、出勤の刻限を告げている。
「さて、そろそろ出撃の時間だ」
アルフレッドが立ち上がり、空になった食器をシンクへと運ぶ。
私も最後の一口をコーヒーで流し込み、キッチンへと向かった。冷蔵庫から、朝のうちに用意しておいた包みを取り出す。
「アルフ、今日はお弁当を作ってみましたの。サンドイッチですわ。卵とハム、あと貴方の好きなツナマヨですわ」
ラップに包まれたそれは、王宮の料理人が作るような華やかなものではない。
コンビニで買った食パンに、特売の具材を挟んだだけの、庶民的な糧食だ。
けれど、アルフレッドはそれを受け取ると、まるで伝説の聖遺物でも授かったかのように目を細めた。
「感謝する、ソフィア。……君の作るサンドイッチは、具材の配置が幾何学的に整っていて美しい。断面の色彩も完璧だ」
「ただ切っただけですわよ。……潰さないように気をつけてくださいね」
「ああ。我が命に代えても守り抜く」
彼は職場に持って行くバッグに、そのサンドイッチを恭しくしまった。
その大げさな仕草に、朝の気怠さが少しだけ晴れるような気がした。
「では、行ってきます」
「行ってらっしゃいませ。……車には気をつけて」
玄関のドアが閉まり、静寂が戻る。私もまた戦場へと向かう準備を始めた。
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High Heavens
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昼下がりの秋葉原。
私が勤めるコンセプトカフェ『王宮の庭園』は、今日も今日とて、欲望と癒やしを求める現代の迷い人たちで溢れかえっていた。
そして今日の"戦場"は、いつもより少しばかり荒れていた。
「――申し訳ございません、ただいま揚げ物のオーダーが立て込んでおりまして……」
キッチンの自動揚げ物機が一台、機能不全――。つまり故障によって、沈黙しているのだ。
ランチタイムの主力火器を失った厨房はパニックに陥り、料理の提供速度は著しく低下していた。
店内には空腹という名の不穏な空気が漂い始めている。
「おい、まだかよ!」
一番奥のテーブル席。怒声が響き渡り、店内のBGMがかき消された。
声の主は、サラリーマン風の中年男性。
彼は苛立ちを隠そうともせず、自身の腕時計を指先で叩きながら、通りがかった新人メイドを威嚇していた。
「いつまで待たせるんだ! 客をなんだと思ってる! 俺の昼休みが終わっちまうぞ!」
「ひっ、も、申し訳ありません……!」
可哀想に、新人メイドは、小動物のように震えて涙目になっている。
周囲の客もビクッと肩を震わせ、気まずそうに視線を逸らしていた。
楽しいはずの空間が、恐怖と緊張に支配されていく。
(……やれやれ。美しくありませんわね)
私は小さく嘆息すると、カウンターにお冷のピッチャーを用意し、静かに、しかし堂々とした足取りでそのテーブルへと歩み寄った。
「貴女はあちらの片付けを。ここは私が引き受けます」
「ソ、ソフィアさん……!」
私は彼女を逃がし、荒ぶる男性客の前に立った。
そして、優雅に、音もなく彼の空になったグラスに水を注ぎ足す。
氷がカラン、と涼やかな音を立ててグラスの中で踊った。
「……お待たせいたしました」
私の落ち着いた声に、男がギロリと私を睨みつける。その目は血走り、余裕のなさを如実に物語っていた。
「水なんかいいんだよ! 飯だよ飯! こっちは急いでるんだ!」
「まあ、そんなに焦って……。呼吸が浅くなっていますわよ?」
怒鳴り声にも動じず、私は彼の目を真っ直ぐに見つめ、諭すように首を傾げた。
あくまで慈悲深く、迷える子羊を見るような瞳で。
「お客様。ここでは、貴方が主でしょう? 王宮の晩餐会では、料理を待つ時間にこそ、主の腕の見せ所。"同席者との会話を楽しむ贅沢なひととき"を提供するのが主の役目とされていますのよ」
「は、はぁ? 王宮? なに言ってんだお前……」
男が毒気を抜かれたように口を半開きにする。
私はゆっくりと瞬きをし、手でで口元を隠して、優雅に微笑んだ。
「……貴方、よく見ればとても知的な瞳をしていらっしゃいますのね。仕事に追われる戦士の顔……。嫌いではありませんわ」
突然の賞賛に、男が虚を突かれたように目を白黒させる。
「え、あ、そうか……?」
「ええ、とても素敵です。……だというのに」
私は一度言葉を切り、少しだけ身を乗り出して、甘く、絡め取るような視線で彼を射抜いた。
「もしや……そのような素敵な紳士が、このわたくしとの会話や、この空間の余韻よりも、ただ皿の上の肉塊を胃に流し込むことの方に魅力を感じていらっしゃるの? ……まあ、なんとも勿体ないことですわ」
「も、もったいない?」
「ええ。せっかく、わたくし、貴方のような殿方とゆっくりお話しできるのを楽しみにしておりましたのに……。私の勘違いでしたかしら?」
私はテーブル越しに、さらに身を寄せる。
この『王宮の庭園』では、客からメイドへの接触はもちろん、メイドから客への接触も厳禁とされている。聖域を守るための絶対の鉄則。
けれど、私はその見えない境界線を踏み越えるかのように、そっと白魚のような指先を、テーブルに置かれた彼の手の甲へと伸ばした。
あと数ミリ。吐息さえ触れそうな距離。
男が喉をごくりと鳴らし、私の指先を凝視して硬直する。
しかし、指が触れる直前。私はハッとしたように表情を曇らせ、パッと手を引っ込めた。
「――あ、いけない、わたくしったらはしたない。……わたくしの方から殿方に触れようとするなんて」
私は恥じらうように視線を伏せ、頬に手を当てて小さく首を振った。
「申し訳ありません。貴方の瞳があまりに力強くて、つい……引き寄せられてしまいましたわ」
もちろん、演技だ。
実際には指一本触れていない。けれど、その寸止めの熱は、直接触れるよりも強烈に彼に伝わったはずだ。
チラリと上目遣いで様子を窺うと、男の目はもう、怒りなど微塵もなく、ただ呆然と熱に浮かされたように私を見つめていた。完全に堕ちた。
「……」
「……主様?」
「あ、は、はい……!」
「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんが……」
「い、いや……! 待つ! 待たせてもらいます!」
「あら? お急ぎなのでしょう?」
「いや、その、君と話す方が大事だ! そう、この空間を楽しむんだ、俺は! 帰らない!」
「……あら、そうですか? 無理をなさらず?」
「無理じゃない! 待つ時間こそ贅沢! その通りだ!」
彼は必死になって弁解し、まるで忠実な家臣のように頷いてみせた。
単純……いえ、素直な方だこと。
「ふふ。……ご理解いただけて嬉しいですわ。では、もう少々お待ちくださいね。とびきりの魔法をかけたランチを、必ずお持ちしますから」
私が聖母のような微笑みを向けると、彼はデレデレと鼻の下を伸ばした。
先ほどまでの剣呑な雰囲気が嘘のように、大人しくスマホを見始めた。
周囲の客からも、ほっとしたような安堵の空気が漏れる。
バックヤードに戻り、私はふぅ、と心の中で息を吐いた。
どうやら、この国の男性も、正しい手順でリードしてあげれば、ちゃんと”待て”ができる生き物らしい。
その時、エプロンのポケットに入れたスマートフォンが短く震えた。
こっそりと画面を確認すると、アルフレッドからのメッセージだった。
『現在、交通誘導任務中。事故渋滞が発生し、ドライバーたちからクラクションの洗礼を受けている』
添付された写真には、工事現場の入り口で、誘導灯(赤く光る魔導の棒)を持ち、不動の姿勢で立つ彼の姿があった。
背後には長蛇の列を作った車が見えるが、彼はその喧騒をものともせず、彫像のように凛々しく立っている。
『大丈夫? 怒鳴られたりしていない?』
私は素早く返信を打つ。
『問題ない。「早く通せ」と窓を開けて叫んだ運転手がいたが、じっと目を見つめ返したら静かになった』
『……貴方、鬼のような目をして威圧したんじゃありませんの?』
『まさか。「この停滞は貴殿の安全マージンを確保するための儀式だ、心安らかに待たれよ」と心の中で祈っていただけだ』
彼のメッセージに、思わず口元が緩んでしまう。
場所は違えど、私たちは同じ空の下で、同じように"待てない人々"を相手にし、同じような苦労をしている。
それがなんだか、戦友のようで嬉しかった。
『ふふ、奇遇ね。私も今、同じような殿方を躾けたところよ』
『さすがだ、ソフィア。……互いに忍耐の木曜日だな。夕食を楽しみに頑張ろう』
『ええ。今夜は貴方の好物のハンバーグにしますから、期待していて』
送信ボタンを押し、私はスマートフォンをしまう。
ハンバーグ。
挽肉と玉ねぎを練り合わせ、焼き上げるというシンプルな料理だが、それゆえに奥が深い。
今夜は、彼を労うためにも、最高の焼き加減を目指そう。
そう心に誓って、私は再びフロアへと戻った。
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Deep Silence
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アパートのキッチンには、肉の焼けるジューシーな音と……そして、許されざる焦げ臭さが漂っていた。
「……ああっ!?」
私が悲鳴を上げた時には、すでに手遅れだった。事態は不可逆的な領域まで進行していたのだ。
フライパンの中のハンバーグ。
片面を焼き、裏返して蓋をし、蒸し焼きにしていたほんの数分間。
私は、今日あった出来事を思い返していた。
あのサラリーマンをどう手懐けたか、アルフレッドに聞かせようと思っていたから。
そしてアルフレッドの交通誘導の武勇伝をどう聞き出そうか、そんな夢想していた。
幸せな食卓の光景を思い描き、ぼんやりとしていたその隙に。
――フライパンの中の魔獣は、漆黒の鎧を纏ってしまっていた。
「ど、どうしましょう……! アルフ、ごめんなさい!」
換気扇が唸りを上げる中、着替えを終えたアルフレッドがリビングから飛んでくる。
「どうした、ソフィア。火事か? 敵襲か?」
「違います……いえ、ある意味では火事ですわ……!」
私は泣きそうな顔で、フライパンの中身を彼に見せた。
そこにあるのは、こんがりとした狐色を通り越し、闇属性の魔力を帯びたかのように黒々とした物体だった。
「ハンバーグが……焦げてしまいましたの。強火のまま蓋をしてしまって……」
「……ふむ」
アルフレッドはフライパンを覗き込み、冷静に顎をさすった。
その眼差しは、戦場の地図を確認する指揮官のように鋭い。
「炭化現象が見られるな。だが、表面積の20%程度だ。ロストではない。リカバリーは可能と判断する」
「で、でも、苦いですわよ? 失敗作ですわ……」
「ソフィア」
彼は私の手からフライパンの柄を優しく受け取ると、手際よくハンバーグを皿に移した。
「失敗ではない。野営の焚き火なんてのは、このコンロよりずっと気まぐれだからな。肉が焦げるなんてのは日常茶飯事、むしろこれが"常"だ。俺にとっては、懐かしさを感じて、上品な料理よりも身近な存在で、おいしそうに見えるよ」
「そんなの、ただの強がりですわ……。わたくし、家事のスキルはまだ見習い以下で……」
「ソフィア」
彼は私の肩に手を置き、まっすぐに私の目を見た。
「君が俺のために、肉を捏ね、形を整え、焼いてくれた。それ以上の調味料はない。……たとえこれが炭の塊であったとしても、俺にとっては至高の晩餐だ」
彼はそう言って、私にウインク……のような、少しぎこちない瞬きをして見せた。
その不器用な優しさに、胸がぎゅっと締め付けられる。
かつて公爵家では、完璧でなければ価値がないと教え込まれてきた。
けれど、彼は私の失敗ごと、丸ごと受け止めてくれる。
――数分後。
テーブルの上には、色の濃い『漆黒のハンバーグ』と、彩りのサラダ、そして炊きたての白いご飯が並んだ。
ソースは、あえてシンプルに大根おろしとポン酢にした。焦げの苦みを中和するための、苦肉の策だ。
「……いただきます」
アルフレッドは迷いなく、一番焦げている部分に箸を伸ばし、大きく口に入れた。
ガリッ、という硬質な音が静かな部屋に響く。
私は思わず身を縮めた。苦い顔をされるのではないか、無理をしているのではないかと思って。
「……うん。美味い」
「嘘ですわ! 苦いはずですもの!」
「いや、本当に美味い。中の肉汁は守られている。外側のクリスピーな食感と、内側の柔らかさの対比。……これは新しい芸術だ」
「芸術だなんて……」
「本当だ。このほろ苦さが、大根おろしの清涼感と絶妙にマッチしている。大人の味だな」
彼は本当に美味しそうに、ご飯と一緒にかきこんでいく。
その表情に、嘘やお世辞の色はない。
私も恐る恐る、自分の分のハンバーグを口に運んだ。……確かに、焦げた部分は苦い。
けれど、その奥にあるお肉はふっくらとしていて、玉ねぎの甘みもしっかりと感じられる。
ポン酢の酸味が、焦げの風味を不思議とまとめてくれていた。
「……次は、もっと上手に焼きますからね。黄金色の、完璧な焼き加減で」
「楽しみにしておく。だが、俺はこの『漆黒のハンバーグ』も嫌いじゃないぞ。君の奮闘の証だからな」
彼が笑ってビールを喉に流し込む姿を見て、私もつられて笑ってしまった。
張り詰めていた糸が切れ、温かいものが心を満たしていく。
「そういえばアルフ、朝のテレビの話ですけれど」
「ん? 暴れん坊将軍のことか?」
「ええ。私、思ったのですけれど……」
私はサラダのトマトをつつきながら、ふと考えたことを口にした。
「私たちも、この世界では『演じて』いますわよね。貴方は作業員、私はコンカフェ店員」
「ああ」
「……でも、家に帰ってくれば、その役を下りて、ただのソフィアとアルフに戻れます」
「ああ、そうだな。外の世界は戦場であり、舞台だ。ここでは鎧を脱ぐことができる」
「あの将軍様も、お城に帰ったら『疲れた~』って、袴を脱ぎ捨ててゴロゴロしているのかしら」
私の想像に、アルフレッドがビールを吹き出しそうになった。
「……ははっ! それはありそうだな。『今日の悪党は斬られ方が下手だった』とか、『峰打ちの手加減が難しい』とか愚痴を言いながら、側近に酒を注がせているかもしれない」
「でしょう? そう思うと、あの完璧なヒーローも、少し身近に感じますわ」
テレビの中の虚構も、私たちの現実も、表と裏がある。
外では完璧な"役"を演じなければならない。空気を読み、手順を守り、理不尽に耐えなければならない。
けれど、裏側を見せ合える相手がいるからこそ、私たちは明日もまた、表の舞台に立つことができるのだ。
「ソフィア」
「なにかしら?」
アルフレッドが、真剣な眼差しを私に向けた。
「今の俺にとっての"領地"は、ここだ。君がいる場所が、俺が鎧を脱げる唯一の城だよ」
「……かつて、広大な辺境の地を治め、隣国の侵略を蹴散らしていた貴方には、狭すぎる"領地"ですわね」
「いや。広さなど関係ない。重要なのは守るべきものの存在だ。数千の民を守るのも、たった一人の愛する人を守るのも、私には等しく大切なことなんだ」
「……」
「だから、ハンバーグが黒かろうが白かろうが、君がそこにいてくれるだけで、俺は無敵になれる」
真顔で言われた歯の浮くようなセリフに、私は思わず顔を真っ赤にした。
琅汰の記憶と人格が混ざったせいで、彼は時々、こういうキザなことをサラリと言うようになった気がする。
本人は大真面目なのが、なおさらタチが悪い。
「もう。ハンバーグの焦げの味がわからなくなるくらい、甘いこと言わないでくださいまし」
「事実を述べたまでだ」
「はいはい、分かりましたわ。……私も、貴方がいてくれて幸せですわよ」
照れ隠しにポン酢をたっぷりつけたハンバーグを頬張る。口の中に広がる苦みと酸味、そして肉の旨味。
夜は更けていく。
明日は金曜日。一週間のラストスパートだ。
少し焦げたハンバーグの味は、私たちの不器用で、失敗だらけで、けれど何よりも温かい、愛すべき日常の味がした。
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Tales Untold
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――それは、昼の記憶――。
「――ッ、ぅ……!」
私は更衣室のロッカーの陰に隠れ、口元を両手で覆って、その場にうずくまった。
コンカフェの休憩時間。
本来なら、同僚たちと他愛のない話に花を咲かせるはずの時間だ。
けれど、今の私にそんな余裕はない。
身体の内側から、鋭い鉤爪で引き裂かれるような激痛が走る。
それは肉体の痛みではない。もっと根源的な、魂そのものが悲鳴を上げているような感覚。
魂をこの肉体に繋ぎ止めている"楔"が、今にも弾け飛ばんばかりに軋んでいる。
身体の内側から、魂が強引に剥がされるような強烈な拒絶反応。
それは、サイズの合わない靴を無理やり履かされているような、不快な違和感を超えた、魂の摩耗。
この世界が、私の存在を異物として認識し、排除しようとする圧力が日に日に強まっている。
「……まだ、ですわ。まだ、倒れるわけには……」
私は脂汗を浮かべながら、壁に手をついて立ち上がった。
呼吸を整え、乱れた服を直す。
アルフレッドには、この痛みのことは話していない。
彼は、私をこの肉体に留めるために、毎日必死になって"運命の食材"を探してくれている。
仕事で疲労困憊のはずなのに、夜遅くまでこの世界の食文化や栄養学の本を読み漁っている彼の姿を、私は知っている。
そんな彼に「もう痛くて立っているのも辛い」などと、どうして言えるだろうか。
私は鏡に向かい、完璧な"王宮侍女"の笑みを浮かべた。
蒼白な顔色は、厚めの化粧で隠せばいい。
震える指先は、強く握りしめればいい。
あと数時間。
家に帰れば、彼の温かい腕の中が待っている。
その安らぎさえあれば、この魂を削るような痛みにも、耐えられるはずだ。
「さあ、行きますわよ。お客様が待っています」
私は自らに言い聞かせるように呟き、痛みを意志の力でねじ伏せて、喧騒の中へと戻っていった。




