第三話「秋の銀刀」
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The Awakening
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週の半ば、水曜日。
この世界の暦において、もっとも人々の生気が削がれると言われる日。
かつての世界に安息日などなく、毎日が生存競争であった私が、まさか異世界で"曜日感覚"なるものに支配されることになろうとは。
「……ん、ぐ、ぅ……体が……鉛のように重いですわ……」
朝、薄いカーテンの隙間から差し込む容赦のない陽光に目を覚ました私は、布団から出ようとして、その場に崩れ落ちた。
全身の節々が、錆びついた甲冑のように軋みを上げている。
指先一つ動かすのにも、魔力を練り上げる時のような気合が必要だった。
「これは……呪い、ですわね。昨夜、寝ている間に闇の神官による『石化の呪法』を掛けられたに違いありませんわ」
「……いや、ソフィア。それは単なる乳酸の蓄積だ」
早朝の鍛錬を終えたばかりのアルフレッドが、冷静かつ沈痛な面持ちで告げた。
彼もまた、いつもの俊敏な動作とは程遠い、重厚な動きで首を回している。ボキボキ、という骨の音が、静かな六畳一間に響き渡った。
「乳酸……? そのような毒を盛られた覚えはありませんけれど」
「筋肉疲労物質だ。慣れない立ち仕事に、君の身体は限界を迎えている」
アルフレッドは私の背後に回ると、無骨な手を私の肩に乗せた。
「うっ……!?」
「じっとしていろ。応急処置を施す」
彼の親指が、私の僧帽筋の凝り固まった一点を、正確無比に捉えた。
かつて敵将の喉元を寸分違わず貫いたその精密動作性が、今は私の肩こりを粉砕するために使われている。
「――ぐっ、あ、あだだだだっ!! い、痛いっ! 貴方、急所を探っていませんこと!? 尋問なら何も喋りませんわよ!?」
「力を抜け。……相当キているな。岩のように硬い」
「うぅぅ……、容赦がありませんわね……」
痛気持ちいいを通り越して、魂が抜け出るような激痛と快感の波状攻撃。
数分後、解放された私は、ほうっと息を吐いて畳の上に突っ伏した。確かに、肩周りの血流が奔流となって巡るのが分かる。
「すまない。現場仕事で握力が強化されているようだ。……俺も腰に来ている。昨日は建材(石膏ボード)を、階段で5階まで担ぎ上げた代償だ」
「この世界には様々な便利な魔導具があるでしょう? 人の手で荷物を運ばなくても、よいのではありませんか?」
「かつての世界でもそうだが。道具に頼るよりも、人を集めて運んだほうが、結果的に速く、確実に済むこともある」
「そういうものですか……」
「ああ。しかし、人手不足でな。俺だけで、いったい何往復したのやら……」
彼は事もなげに言うが、魔力による身体強化を呼吸するように自然に使う彼だから出来ることだろう。
この世界の貧弱な肉体だけでやり遂げたというのなら、それはもはや英雄譚というより、周囲の目には怪談に見えたに違いない。
「最強の騎士と謳われた貴方も、この世界では生身の人間ですものね……。このままでは、週末の決戦までに体が持ちませんわ」
「ああ。戦力低下は否めない。早急に回復手段を講じる必要がある」
アルフレッドはスマートフォンを取り出し、神妙な顔つきで画面を操作し始めた。
その指先は、戦況図を確認する指揮官のように素早く、迷いがない。
「……ここだ」
「錬金術の万屋ですわね。いつも近所のお店には、お世話になっていますわ。ポーションや解毒剤を入手するので?」
「情報によると、疲労回復に特化した錬金アイテム"入浴剤"なるものが存在するらしい。ただの湯を、瞬時にして"癒やしの薬湯"に変える魔法の粉だ」
「癒やしの薬湯……!」
その響きに、私は希望の光を見た。
公爵家の屋敷には広大な浴場があったが、薬湯を用意させるには薬師と使用人を総動員して半日掛かりだった。
それを、この慎ましい我が家でも再現できるというのか。
「互いの任務終了後、駅前の『マツモトキヨシ』で合流。"入浴剤"を入手し、身体機能の完全回復を図る」
「了解ですわ。……まずはこの強張った体で、今日一日を乗り切らなくては……」
私たちは互いに湿布を貼り合い、背中にスースーとした冷感を感じながら、戦場へと出立した。
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High Heavens
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昼下がりの秋葉原。
雑居ビルの5階にあるコンセプトカフェ『王宮の庭園』は、今日も今日とて奇妙な熱気に包まれていた。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
私の声に、いつものような腹の底から響く覇気がない。
いけない。気高い王宮侍女たるもの、客に疲れを悟らせるなど、プロフェッショナルとしてあるまじき失態。
私は背筋をピンと伸ばし、優雅な微笑みを能面のように貼り付けた。
足元のパンプスが、一歩踏み出すたびに悲鳴を上げる踵を責め立てる。この靴は拷問器具の一種なのだろうか。
だが、そんな弱っている時に限って、厄介な客は現れるものだ。
「ねえねえ、ソフィアちゃんさぁ」
窓際の席、日差しを背にして陣取る、顔の赤い男性客。
昼間から酒に酔い、オークのような風体で、生産性のない無駄話を続けている。
「はい、何でしょうか」
私はテーブルの脇に立ち、完璧な角度で小首をかしげた。
「そんな固い接客やめてさぁ、もっと近くに来てよ。ほら、手ぇ貸して? 俺、手相見るの得意なんだよ。君の運命、占ってあげるからさ」
男がニヤニヤと粘着質な笑みを浮かべ、私の手を掴もうと、ずいっと身を乗り出してきた。
不敬なる狼藉。
同僚メイドのメイメイ曰く、この業種においては避けては通れない試練、なんだそうだ。悪臭も漂うほど、忌まわしき悪習だ。
この客のようにわかりやすい狼藉であれば、容易に拒絶することも出来る。『王宮の庭園』では明確に禁じられている行為だ。
そもそもだ。わたくしのような高貴な令嬢に触れていいのは、社交界のダンスにおける手のひらだけ。
それを破るような無礼者は、腕の一本や二本、切り落とされても文句は言えない。
ここで、王宮侍女として働くうちに、その手の輩に対する免疫がついたのは認めよう。
普段なら「ここでは接触は禁じられています、ルールを守って楽しんでくださいませ」と、冷たく返し、ひらりと回避する。
下手に反応することは、むしろこの手の輩を喜ばすだけだ。
けれど今の私は、限界まで疲れている。
目の前に迫る客の手が、理性のかけらもない蛮族の棍棒か、あるいは魔獣の前足に見えてくる。
ああ、いっそ魔法で消し炭にしてしまいたい――そんな危険な衝動が、頭をもたげた。
取り繕うのも、もう面倒だ。
「運命ですって? わたくしの運命よりも、貴方の運命が心配ですわ。平日の昼間から、酒に逃避されているそのお姿……。組織の中で誰からも必要とされず、出世の道も閉ざされた『行き止まり』の相が、お顔全体に浮かんでおりますわよ?」
「なっ!?」
「酒に酔って気が大きくなっているのか、あるいはそう装うことで許されるとでも勘違いしているのか。女性に触れようと必死になるその卑しい根性……。それこそが、貴方が誰からも愛されず、精神的な孤独に朽ちていく原因だと、お気づきになって?」
男の動きが、ぴたりと止まった。
まるで石化の魔眼に睨まれたかのように、空中に伸ばしかけていた手は硬直し、指先がわなわなと震え始める。
貼り付いていた卑猥な笑みは、みるみるうちに引き攣り、凍りつき、やがて形容しがたい絶望の表情へと崩れ落ちていった。
「あ……、ぅ……」
男の口から、空気が漏れるような情けない音がこぼれる。おそらく、図星だったのだ。
薄っぺらな酔いを瞬時に蒸発させ、彼がアルコールの中に沈めて見ないようにしていた"自身の惨めな現実"を、引きずり出したに違いない。
真っ赤だった顔色は、一瞬にして土気色へと変わっている。
私はふう、と小さく息を吐き、営業用のスマイルを貼り直した。
「あら、ごめんあそばせ。罵倒のサービスが過ぎましたね」
石像と化した男に優雅に一礼する。
「……あら、お呼びがかかりましたわ。他にご用事がなければ、これにて」
私はそれ以上、男の顔を見ることなく踵を返した。
背後から、何かが崩れ落ちるような気配を感じたが、振り返る必要はないだろう。
これに懲りたら、次からは身の丈に合った振る舞いをしてほしいものだ――そう願いつつ、私は足早にその場を離れた。
「……やれやれ。次から次へと、湧いてくるものですわね」
私は小さく嘆息し、乱れたエプロンの裾を指先で直した。
まったく、世の男性の考えることは、この世界でも、私のいた世界でも同じ。
まだ、紳士に振る舞おうとする姿勢だけ、元の世界の方が品がある。
私は店内の喧騒に視線を巡らせる。今のところ私の領域を脅かす敵性反応はない――。
いや、待て。
私の思考が、ある一点で不快なノイズを拾った。
視線の先、店内の奥まったボックス席。
そこに、同僚のメイメイが接客しているテーブルがあった。
客は、まだ二十代半ばと思われる若い男だ。
だが、その男が纏う空気は、先ほどの酔っ払いとも、一般的な客とも明らかに異質だった。
枯れ草のように脱色された金髪は、手入れもされず無造作に逆立ち、根元から黒い地毛が覗く様子は、まるで病んだ植物のよう。
耳には、威嚇する毒蛇の牙のごとく鋭利な銀のピアスが三つ、冷たい光を放っている。
上等な生地だが品のない刺繍が入った黒いジャージを羽織り、首元には太く重々しい銀の鎖をジャラジャラと巻き付けていた。
市井の目から見れば、"関わってはいけない手合い"として恐怖の対象に映るだろう。
だが、私の目は誤魔化せない。
あれは、力の誇示ではない。自信の無さを虚勢で塗り固めた、弱き者の武装だ。
そして何より目につくのは、左の眉を分断するように走る、一本の深い"古傷"だ。
その傷跡が、彼がまっとうな道を歩んでいないこと、そして暴力という手段を躊躇なく選べる人間であることを、無言のうちに雄弁に語っていた。
貴族社会という伏魔殿で生き抜いてきた私の直感が、最大級の警鐘を鳴らしている。
あの男の目は、獲物を品定めする野獣――いや、腐肉を漁るハイエナのそれだ。
表立っては親しげに振る舞いながらも、その仮面の下に、粘着質で昏い支配欲を隠し持っている。
「ツーショットチェキ、撮ってやるよ。お前のポイントになんだろ? ……感謝しろよなぁ、めぐみ」
男の声が聞こえる。
なれなれしく、粘りつくような口調。
メイメイの幼い顔立ちが、引きつりながらも必死に笑顔を作ろうとしているのが見て取れた。
「あ、ありがとう……ございます。タカ……いえ、お客様」
彼女はこの店でも指折りの人気メイドだ。
裏表がなく、どんな客の要望にも常に全力で応えようとする、ひたむきな少女。
けれど、その"素直さ"は、時として防御力の欠如と同義になる。
私は静かに、そのテーブルへと近づいていった。
撮影の準備が進む中、男の要求が、陰湿さを増していくのが見て取れる。
「なんだよその呼び方。水臭いじゃんか。昔みたいに"タカちゃん"って呼べよ」
「で、でも、お店の決まりだから……」
「ケッ、お堅いねえ。……ま、いいや。ほら、もっと寄れよ」
「あ、はい……。これくらいですか?」
「うーん、もっと顔を近づけて……、そう、髪が触れるくらい」
「え?」
男が鼻をひくつかせ、メイメイの髪から漂う香りを嗅ぐように顔を寄せた。
その左眉の古傷が、ニタリと歪む。
メイメイの笑顔が、わずかに引きつる。嫌悪感を抱いている証拠だ。
だが、彼女は過去のしがらみに囚われているのか、強く拒絶できずにいる。
「じゃあ、手はこうして……ハートを作ろうぜ」
「……ハート、ですね」
「違うよ、指と指をこう、ガッツリ絡めて……『恋人繋ぎ』だろ? 俺たちなんだからさ」
「……」
男の指が、獲物に巻き付く蛇のように、粘性を帯びた湿気を伴って、ヌルリと動いた。
『王宮の庭園』においてはキャストとの直接的な接触は厳禁だ。
だが、この男はそのルールを"俺とお前の仲"という理屈ですり抜け、既成事実として接触を強行しようとしている。
拒絶しづらい空気を醸成し、メイメイの善意と過去につけ込む、卑劣極まりない手口。
先ほどの酔っ払いのような直情的な獣よりも遥かにタチが悪い、悪知恵の働く害獣。
「ええ? せっかく来てやったんだからさぁ。減るもんじゃねぇし、固いこと言うなよ」
「あ、あの、それはちょっと……」
困惑するメイメイに、男は顔をさらに近づけ、声を落として言い放った。
その声は、さきほどまでの軽薄さが消え、裏社会のドブ川のような冷たさを持っている。
「――おいおい、俺の頼みが聞けないのかよ? 俺たちがどんな付き合いだったか、忘れたわけじゃねえよな?」
「や、やめて……。ここでは、私は」
「お前の昔のこと、ここでぶちまけてもいいんだぞ?」
「ッ……!」
メイメイが息を呑み、硬直した。
彼女の大きな瞳が、過去の亡霊を見たかのように、恐怖で見開かれている。
"昔のこと"。
その言葉が、彼女にとってどれほどの呪縛力を持っているのか、一目瞭然だった。
男はその反応を見て、嗜虐的な笑みを深める。眉の傷がピクリと跳ねた。
メイメイの弱みにつけ込み、抵抗できない相手を弄ぶ。
それは、私が最も忌み嫌う"強者の皮を被った下劣な者"のやり口だ。
男の手が伸びる。 硬直して動けないメイメイを、乱暴に掴もうとして――。
――下郎が。
私の内側で、何かがパチンと弾けた。
あの薄汚い手が、純真なメイメイの肌に触れるなど、"わたくし"の矜持にかけて許容できない。
男の指が、メイメイの指に絡みつこうと伸びる。
さらに、反対側の手は、メイメイの腰へ伸ばされていくのも見逃さない。どさくさに紛れて抱き寄せるつもりだろう。
「……っ」
メイメイが身を強張らせた、その刹那。
優雅さを損なわないギリギリの速度で滑るように移動し、エプロンのポケットから愛用の扇子を抜き放つ。
狙うは、男とメイメイの間の、わずかな空間。
バヂィッ!
扇子が勢いよく開かれ、空気を裂く音が、一瞬だけ店内のBGMを掻き消した。
男の手とメイメイの手の間、わずか数センチの空間に割り込み、障壁となって彼の下劣な動線を遮断していた。
男の手が、空中でピタリと止まる。痛みはないはずだ。触れてはいないのだから。
しかし、男は本能的に"これ以上進めば危ない"と悟ったのか、あるいは私の放つ気迫に圧されたのか。
指先を微かに震わせて硬直した。
「……おやめなさい」
私は扇子を引かず、静かに告げた。
声を張り上げる必要はない。絶対的な上位者としての理を説くだけで十分だ。
「女性の肌に許可なく触れれば、その手首……床に落ちてましてよ?」
一瞬の静寂。
男は自分が何を言われたのか理解できなかったようで、数回まばたきをした後、羞恥と怒りで顔を一気に沸騰させた。
「は、はぁ? 何言ってんだよ、たかがメイドが……!」
男がガタリと椅子を鳴らして立ち上がろうとする。
その目は、自分の非を棚に上げ、"サービス業の店員に恥をかかされた"という逆恨みの炎で濁っていた。
「客に向かってなんだその口の利き方は! ほんのジョークだろうが! こっちは金払って――」
男が激昂し、テーブルを叩こうと腕を振り上げた、その時だ。
カタン。
テーブルの上にあった水の入ったグラス。その上部三分の一が、音もなく斜めに滑り落ちた。
チャプン、と濡れた音を立てて、切断面から水がテーブルクロスに染み出していく。
あまりに鮮やかな、鏡のように滑らかな切断面。
まるで、神話級の名刀か、あるいは見えない刃物で空間ごと両断されたかのような光景だった。
……あ。
扇子を抜いた際、無意識にほんの少しだけ、魂に刻まれた『風の刃』を纏わせてしまったようだ。
極限の集中状態と、連日の労働による疲労で、魔力制御が甘くなっていたらしい。
物理的な扇子ではなく、圧縮された空気の刃が、男の腕ではなく、運良く射線上にあったグラスを撫でてしまったのだ。
「ひっ……!?」
男はのけぞり、振り上げていた腕を空中で止めたまま、腰を抜かして椅子にへたり込んだ。
切断されたグラスと、私の手にあるただの紙製の扇子を交互に見つめ、酸欠の金魚のように口をパクパクさせている。
あぶない、うっかりで、本当に男の手を切り落としそうだった。
この世界に魔法は存在しないことになっている。これは、あくまで"偶然"で処理せねばならない。
周囲の客も息を呑み、異様な静寂が広がっていた。
私は何事もなかったかのように扇子を懐にしまうと、エプロンからハンカチを取り出し、濡れたテーブルを優雅に拭き始めた。
「あら、グラスが割れてしまいましたわね。……お客様、お怪我はありませんか?」
「あ、あ……いや、だいじょうぶ、です……」
男の声が裏返っている。
目の前で起きた超常現象を脳が処理しきれず、しかし本能的な恐怖だけが彼を支配しているようだ。
「それは重畳。……貴方の五体満足な人生を守るため、このグラスが身代わりになったのでしょうね。感謝なさい?」
ニッコリと、花が咲くような満面の笑みを向ける。
その笑顔の裏にある"次は外さない"という絶対零度の殺気を感じ取ったのか、男は青ざめた顔でコクコクと首を縦に振った。
「す、すみませんでしたぁ!」
「メイメイさん、グラスの交換をお願いします」
「あ、は、はい! すぐに!」
状況が飲み込めず呆然としていたメイメイだが、私の指示には反射的に反応し、慌ててカウンターへと走っていく。
彼女をこの場から遠ざけることには成功した。
私はそのまま、メイメイが座るはずだった椅子を引き、優雅に腰を下ろした。
逃がしはしない。
グラスを割った罰(弁償)を負うハメになるかもしれないのだ。
少なくともこの男には、たっぷりと"教育"を施してから帰ってもらわねば割に合わない。
「さて」
私は小首をかしげ、怯える男の目を覗き込んだ。
「それで、先ほどはどんな楽しいお話をされていましたの? 『恋人繋ぎ』でしたっけ? わたくし、興味がありますわ」
男は小さな悲鳴を上げ、助けを求めるように店内を見回したが、誰も彼と目を合わせようとはしなかった――。
――たっぷりと"教育"を施して、バックヤードに戻ると、痛みにじっと耐えるように、自分の身体を抱きしめているメイメイがいた。
「メイメイ……」
震えているメイメイは、私に気がつかないようだ。
すこし大きく足音を鳴らしながら、メイメイに近づいた。
「メイメイ、大丈夫?」
「ソ、ソフィアさん……」
メイメイは涙ぐんだ目で私を見上げ、それからハッとしたように視線を逸らした。
「ご、ごめんなさい……迷惑、かけちゃって……」
「いいえ。迷惑なのはあの無礼な客の方ですわ。……お怪我はなくて?」
「うん……平気、です。ありがとうございます」
彼女は無理に作った笑顔を浮かべたが、その指先はまだ小刻みに震えていた。
"お前の昔のこと、ここでぶちまけてもいいんだぞ?"。あの男が口にした言葉の意味を、私は知らない。
けれど、彼女が抱えている闇が、思った以上に深く、重いものであることだけは理解できた。
「……メイメイ。あなたは――」
「ソフィアさん、彼、幼馴染みなんです」
「幼馴染み……ですって?」
「はい。……昔、地元の田舎にいた頃、その……男女として、お付き合いしていた時期もありました。でも、もう何年も前のことで、今は全然、そういう関係じゃないんです」
メイメイは視線を床に落とし、スカートの裾をぎゅっと握りしめた。
「それなのに、つい最近、急に連絡が来て……私がここで働いてることを知って、店に来るようになって。最初は懐かしかったんですけど、だんだん……」
「エスカレートしてきた、と?」
「はい……。他のお客様の手前もあるし、特定の知り合いと馴れ馴れしくするのは良くないから、もうやめてほしいって伝えたんです」
「正論ですわね」
「でも……『水臭いこと言うなよ』って聞いてくれなくて。それに、昔のことを周りにバラすぞって……」
メイメイの声が震える。
かつての恋心や共有した時間が、今は彼女を縛る鎖になっているのだ。
過去という弱みを握り、拒絶できない相手を追い詰める。その卑劣なやり口に、私は吐き気すら覚えた。
「……メイメイ。貴方は優しすぎますわ」
私は彼女の肩に置いた手に、少しだけ力を込めた。
「そのような輩は、言葉で言っても理解しません。自分が安全圏にいると勘違いして、どこまでも増長するだけですわ」
私の脳裏に、かつて領地で見た野盗や、裏切り者の貴族たちの顔が浮かぶ。彼らに慈悲は通用しなかった。必要なのは、畏怖のみ。
「一度、わたくしが"教育"して差し上げましょうか? 二度とこの店の敷居を跨ごうなどと思わないよう、骨の髄まで……いえ、魂に刻まれるほどに『痛い目』を見せてあげることは可能ですわよ?」
私の提案に嘘はない。
社会的に抹殺するもよし、あるいは闇討ちで物理的な恐怖を与えるもよし。手段はいくらでもある。
かつて、一国の王子にすら恐れられた"悪役令嬢"である私にとっては、造作も無いことだ。
けれど、メイメイはハッとしたように顔を上げ、慌てて首を横に振った。
「い、いいえ! そんなっ、ダメですソフィアさん!」
「なぜ? 貴方を守るためなら、手段は選びませんわ」
「気持ちは嬉しいです、本当に。……でも、彼はやっぱり幼馴染みだから。根っからの悪人じゃないって、信じたいんです。私が我慢すれば、そのうち飽きて来なくなると思うし……」
「メイメイ……」
「ありがとうございます、ソフィアさん。……もう、大丈夫ですから。仕事、戻りますね」
メイメイは無理に作った笑顔を私に向け、ぺこりと頭を下げると、逃げるようにバックヤードを出て行った。
その背中は、以前よりも小さく、脆く見えた。
「……我慢、ですか」
一人残された私は、誰もいない空間に呟いた。
彼女のその甘さが、いつか致命的な刃となって彼女自身を傷つけなければよいのだが。
胸の中にわだかまる黒い予感を振り払うように、私は大きく息を吐き、壁に寄りかかった。
「……ふぅ」
張り詰めていた気が緩むと同時に、魔力の消耗による強烈な倦怠感が、ずしりと肩にのしかかってきた。
ポケットのスマートフォンが、短く震えた。
アルフレッドからだ。
『現在、資材運搬中。鉄骨の角で作業着が破れたが、肉体には傷一つない。……そちらは? 変な虫はついていないか?』
『追い払いましたわ。……少しだけ、魔力を使ってしまいましたけれど』
『無事ならいい。自衛のための武力行使は正当だ。……待っていろ、あと数時間で"入浴剤"を手に入れる。必ず君を回復させてみせる』
その無骨で過保護なメッセージに、張り詰めていた気がふわりと緩んだ。
彼もまた、どこかの空の下で、筋肉痛と戦いながら私を案じている。
それだけで、鉛のような体が少しだけ軽くなる気がした。
早く、彼に会いたい。そして、噂の"入浴剤"とやらで癒やし、そして泥のように眠りたい。
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Deep Silence
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夜の帳が下りた頃、東京銀座に二人は居た。
私たちは、闇夜に浮かぶ『マツモトキヨシ GINZA FLAG』の前に立っていた。
灰色の石畳と、空を切り裂くような硝子の摩天楼。
この国における王都とも呼ぶべき銀座の街並みは、私の知る優雅さとは異なる、鋭利な美しさに満ちていた。
その洗練された風景の中で、突如として視界に飛び込んできたのは、目が覚めるような"黄色と青"の色彩だ。
周囲に立ち並ぶ格式高い装飾品店とは明らかに異なる、しかし堂々たるその佇まい。
「ここが……伝説の大賢者『マツモトキヨシ』の宝物庫……」
錬金術の万屋は、知っている。
近所にあるお店にはあしげく通うほどに、お世話になっているからだ。
しかし、これほどの規模となると、いったいどれほどのものなのか、期待が膨らむ。
「ああ。心して掛かるぞ、ソフィア」
一歩店内へと歩みを進める。
天井から降り注ぐ白昼のような光。所狭しと並べられた極彩色の商品の数々。
その情報密度は、王都の国立大図書館の全蔵書を、一室に圧縮したかのごとき威圧感だ。
「な、なんですの、この物量は……!?」
私は入り口付近の棚を見て、絶句した。
『目薬』の聖域だけで、十数種類もの小箱が並んでいるのだ。
「疲れ目に」「充血に」「乾きに」「クールな刺激」。
眼球という、人体で最も繊細な器官一つに対して、これほどの種類の錬金薬が開発されているとは。
この国の医療技術への執念は、もはや狂気の域にある。
「ソフィア、こちらだ。秘薬の棚を見てみろ」
アルフレッドが指差す先には、黄金色や茶色の液体が封じられた小瓶が、壁一面に整列していた。
『リポビタン』『ユンケル』『アリナミン』……。
それぞれの瓶には、「滋養強壮」「肉体疲労時の栄養補給」「皇帝のごとき活力」といった、力強い言霊が踊っている。
「これらは全て、上級ポーションなのかしら……」
「恐らくな。一本数百円の下級薬から、数千円する『エリクサー』級の代物まであるようだ。……だが、今日の目標はこれではない」
アルフレッドは数多の誘惑を断ち切るように奥へと進み、ついに目的の地、"入浴剤コーナー"へと辿り着いた。
そこは、香りの園だった。
薔薇、柚子、森、ラベンダー……封じ込められた香りの見本が、鼻腔をくすぐる。
箱に描かれた極楽浄土のような温泉の絵を見ているだけで、肩の力が抜け、魂が昇華されそうだ。
「この数ある秘薬の中から、俺が選定したのはこれだ」
彼が、聖剣でも抜くかのように厳かに手に取ったのは、鮮やかなピンク色の箱。
『バブ ローズの香り』と銘打たれている。
「『炭酸ガス』が温浴効果を高め、血行を促進する。……今の我々に必要なのは、即効性と、高貴なる精神のリストアだ」
「バラの香り……素敵ですわ。かつての誇り高い記憶を呼び覚ましてくれそうです」
「ああ。元公爵令嬢である君には、やはり花の女王こそが相応しい」
アルフレッドの真剣な眼差しに、私は思わず頬を緩める。
「ふふ、お上手ですこと。……では、ついでにこの『蒸気でホットアイマスク』という魔導具も確保しましょう。視界を奪う代償として、眼球を熱で癒やす呪具のようですわ」
「視界封じのあとに回復魔法だと? ……日本の発想は底が知れないな」
私たちは戦利品をカゴに入れ、レジへ向かう。
店員が「ポイントカードはお持ちですか?」と、会計時における"定型の儀式"を口にする。
アルフレッドは面倒くさそうに「いや、持ち合わせてな――」と断りの言葉を口にしかけた。
彼とて仕組みを理解してはいる。しかし、カードを管理する手間を、面倒だと感じているタイプだ。
だが、この現代日本でお得に生きる術を心得た私に、ポイントの取り逃しなどあり得ない。
彼が言葉を結ぶよりも速く、私は財布から例のカードを抜き放ち、制するように差し出した。
手際よくスキャンされたカードが、ピリッという電子音を上げる。
私はモニターに表示された加算数字を確認し、小さく、しかし満足げに頷いた。
この世界での"賢い生き方"を、一歩たりとも譲るつもりはない。
――アパートへの帰還。
狭小なユニットバスだが、今日ばかりはここが我らの聖域となる。
「さあソフィア、これが秘宝だ」
アルフレッドが箱を取り出す。美しいバラをあしらった意匠に、書かれた文字を読むと"現代の複合疲れにメンテナンス浴"とある。
さらに"疲労、肩こり、腰痛、冷え性"など、その効能を示すように、並べられた症状は、まさに私たちのために用意されたかのようだ。
開けると、中から個包装された角が丸められら四角い固形物が出てきた。
薄紅色の硬質なタブレット。まるで魔力が結晶化した賢者の石のようだ。
「これが……入浴剤……?」
「使用法は簡単だ。湯船に投入するだけ。……先に入れ、ソフィア。一番風呂の権利を、君に譲渡する」
「よろしいのですか? ……では、お言葉に甘えて」
私は浴室へ向かい、湯気の立つ浴槽にその錠剤を恭しく投げ入れた。
チャポン。
静寂は、一瞬だけだった。
ボコボコボコボコボコッ!!
「きゃあっ!?」
凄まじい咆哮と共に、お湯が沸騰したように激しく泡立った。
静かな水面が突如として牙を剥き、紅色の泡が爆発的に広がっていく。
「アルフ! お湯が! お湯が暴れていますわ! 制御不能です! 何かの召喚儀式が始まってしまったのでは!?」
「落ち着けソフィア! それは炭酸ガスだ! マナの暴走ではない!」
アルフレッドが脱衣所から顔を出し、慌てず解説を加える。
「その猛烈な泡こそが、血管を拡張させ、疲労物質を強制排出する『浄化の気泡』なのだ。ガスが溶けきるまで待つんだ」
恐る恐る見守っていると、やがて嵐のような発泡は収まり。
お湯が透明感のある淡いロゼカラー――最高級のロゼワインのような色合いに染まっていた。
そして浴室いっぱいに立ち上る、甘く、芳しい香り。
王宮の舞踏会へと続く回廊のような、圧倒的な華やかさが充満する。
「……なんていい香り。まるで、屋敷のバラ園のようですわ」
「だろう? 現代科学が再現した『貴族の嗜み』だ。さあ、ゆっくりと浸かってくるといい」
ドアが閉まり、私は服を脱いで、その薔薇色の泉へと身を沈めた。
「……ふぁぁ……んぅ……」
声にならない吐息が、喉の奥からとろりと漏れ出た。
温かい。ただのお湯とは明らかに違う、慈愛に満ちた熱量。
肌にまとわりつくような滑らかな湯ざわりは、見えない無数の侍女が、全身を優しくマッサージしてくれているようだ。
鼻孔を満たす、人工的なはずなのにどこか切なく、懐かしい花の匂い。
瞼の裏に、かつて実家の公爵邸にあった、広大なバラ園の風景が蘇る。
専属の庭師たちが丹精込めて育てた、数千本の薔薇たち。
午後のティータイムには、風に乗ってその香りがテラスまで漂い、私はそれを当たり前のように享受していた。
最高級の絹のドレスを纏い、何一つ不自由なく、ただ美しく咲くことだけを求められていた、ガラスケースの中のような日々。
今の私は、スーパーの特売シールに一喜一憂し、足を伸ばすこともできないプラスチックの浴槽に浸かる一般市民だ。
けれど。
「……不思議ですわね」
あの大理石でできた冷たく豪華な浴室よりも、この狭いお湯の方が、なぜだか魂が満たされている。
ここにあるのは、数百円の入浴剤の香りと、壁一枚隔てたところにいる、心から信頼できる伴侶の気配だけ。
虚飾のドレスも、重たい宝石もここにはない。あるのは温もりだけだ。
「……幸せ、ですわね……」
私は湯船の縁に頭を預け、天井についた結露を見つめた。
湯気に霞むその水滴の一つ一つが、かつて私が身につけていたどんな高価なダイヤモンドよりも、美しく、温かく輝いて見えた。
お風呂上がり、体がポカポカと温まった状態で、私たちはテーブルを囲んだ。
今夜のメニューは、帰りにスーパー『オオゼキ』でアルフレッドが「この輝きは名刀の如し」と絶賛して購入した『サンマ』だ。
「……見事ですわ。焼く前はあんなに鋭い銀色だったのに、今はこんがりと黄金色の鎧を纏っています」
テーブルの中央には、細長い皿に乗った二尾のサンマの塩焼き。
焦げ目のついた皮からは、パチパチと小さな音を立てて脂が滲み出し、部屋中に香ばしい煙を漂わせている。
その横には、雪山のように盛られた大根おろしと、徳島産のすだちが添えられている。
「『魚焼きグリル』という魔導具の火力、侮れんな。上下からの遠赤外線放射により、中までふっくらと焼き上げている。野営の焚き火では、こうはいかん」
アルフレッドは箸を持ち、サンマに向かい合った。
その眼差しは、真剣そのものだ。戦術的な解体作業に着手する目だ。
「ソフィア、サンマの攻略法を覚えているか?」
「ええと……そのままかぶりつく……のでしたっけ?」
「剛毅だな。いや、それもまた一興だが、今日は上品にいこう。……見ていろ」
まず、彼は箸を寝かせて、サンマの上にのせて、マッサージするように押さえていく。頭から、尾に向かって、丁寧に。
「頭から尾にかけて圧を加える。これで身と骨の結合を断つ」
次に、箸を銀製ナイフのように鋭く構え、横倒しになっているサンマの中心線をなぞるように、切っ先を浅く差し込み、切り込み線を描いていく。
「ここで力を込めて、骨を絶たず、内臓を傷つけ、ないように、慎重に……」
「――貴方の得意技でしょうに、骨まで絶ち斬るのは」
「ああ。敵ならば、な。だが、任せておけ」
プツ、プツ、と微かな音を立てて、箸が尾に向かって進んでいく。
尾に到達すると、再び頭の方に戻り、切り込み線に沿って箸を差し込み、広げていく。
箸とは、なんと機能美に満ちた道具なのだろう。
わずか一対の棒でありながら、ナイフで切り、フォークで刺し、スプーンで掬う。
……それら三つの役割を、これだけで優雅にこなしてしまうのだから
「まずは、半身を食べよう。……さあ、骨のない身だ。安心して食べてくれ」
彼は、サンマの背の部分にあたる身を、私のために皿に取り分けてくれた。
「あ、貴方の分は……?」
「まだ、十分に残っている。半身ずつとしよう」
私はその身に醤油を垂らした大根おろしをたっぷりと乗せ、口へと運んだ。
「……んん~っ……!」
パリッとした皮の香ばしさと共に、ジュワッと濃厚な脂の甘みが口の中で爆発する。
サンマの脂は、肉のそれとは違い、サラリとしていてくどくない。
そこに、大根おろしの辛味と清涼感が加わり、脂っぽさを瞬時に洗い流していく。
「美味しいっ!王宮の晩餐会で供されたどんな料理も、今のこの一箸の感動には及びませんわ……!」
「俺もいただこう」
アルフレッドも同様に、ほぐした身と大根おろしを口に運ぶ。 彼は目を閉じ、数回咀嚼すると、深く満足げな吐息を漏らした。
「ふむ。火加減、脂の乗り、完璧だ。野営の焚き火で焼いた川魚も野趣があって悪くはないが、この均一な熱伝導による焼き上がりは、素晴らしい」
彼は箸先を向け、まだ手をつけていないサンマの腹、黒く焼けた部分を指し示した。
「さて、身の旨さは確認した。次は……この腹の部分、内臓のある場所も食べられるが、どうする?」
「もちろんいただくわ。自然が育てた命、余すところなくいただくのが狩る者の務め……それに、貴方が『名刀』とまで称した魚ですもの」
「だが、ソフィア、心してかかれ。ここは苦みが強い」
「ええ」
アルフレッドは箸先で器用に、黒く濁った内臓の部分をひとくち分、切り取った。
見た目は、正直に言って美しくはない。内陸の国で育った私にとって、魚の内臓とは即ち"捨て去るべき不浄"だった。
しかし、この国——日本における食文化の深淵は、私の想像を遥かに超えていることが多い。
私は意を決して、その黒い塊を口へと運んだ。
「ん……」
舌に乗せた瞬間、ねっとりとした食感と共に、強烈な苦味が口いっぱいに広がった。
脳髄を揺らすような、野生的な苦味。 普通の令嬢なら、悲鳴を上げて茶で流し込むところかもしれない。
けれど、私はかつて社交界の荒波を生き抜いた"悪役令嬢"。眉一つ動かさず、その味を吟味する。
「……なるほど」
「どうだ? 苦すぎるなら無理はしなくていい」
心配そうに覗き込むアルフレッドに対し、私はゆっくりと首を横に振った。
そして、口元の脂をナプキンで優雅に拭い、微笑んでみせた。
「いいえ、悪くありませんわ。……ええ、懐かしい味です」
「懐かしい? 故郷にサンマはなかったはずだが」
「この、舌にまとわりつくような重厚な苦味……。わたくしがシルヴェリウス殿下に手渡され、飲み干した、あの『毒』によく似ています」
「……ソフィア、それは食レポとしてどうなんだ」
アルフレッドが呆れたように苦笑する。
私は箸を伸ばし、雪山のような大根おろしと、搾ったすだちを、その苦いワタにたっぷりと絡めた。そして、白いご飯と共に再び口に運ぶ。
すると、どうだろう。
先ほどまでのドロドロとした怨念のような苦味が、大根の清涼感と柑橘の酸味によって浄化され、驚くほど芳醇な"旨味"へと昇華されたではないか。
「あら……! これは……驚きました。あんなに救いようのなかった苦味が、大根とすだちの介入によって、これほど深みのある味わいに変わるなんて」
「だろう? サンマのワタは、酒にも合うが、白飯の甘みを引き立てる最高の相棒なんだ」
「ええ、素晴らしいですわ! まるで、孤立無援だったわたくしが、貴方というパートナーを得て、本来の輝きを取り戻した時のようです!」
「……俺は大根おろしか」
「ふふっ。最高の褒め言葉ですわよ、アルフ」
私は炊きたての白米をかきこんだ。
日本の秋。サンマの苦味。そして、隣には愛しい人。
かつて社交界で味わったどんな豪華な晩餐よりも、この六畳一間で突っつく焦げた魚の方が、今の私には愛おしい。
「さあ、アルフレッド。貴方も召し上がれ。この"毒の苦み"を知ってこそ、高貴な人生というものですわ」
「"毒"はお断りだが……。では、ご相伴にあずかろう」
二人で一つの魚を突き合いながら、私たちは笑い合った。
狭いアパートの部屋には、バラの香りの入浴剤の残り香と、焼き魚の匂い、そして微かな湿布の匂いが入り混じっている。
けれど、それすらも"生活"という名の香水のように愛おしい。
「ごちそうさまでした。……さて、明日は木曜日ですわね」
「ああ。週の後半戦だ。だが、入浴剤とサンマ、そして君の笑顔があれば、恐るるに足りない」
「ええ。頑張りましょう」
私たちは食器を片付け、早めに布団に入った。
バラの香りに包まれて、今夜は泥のように眠れる気がする。
隣から聞こえる彼の寝息が、どんな子守唄よりも心地よく、私の意識を優しい闇へと誘っていった。
(……おやすみなさい、アルフ)
私は重いまぶたを閉じ、深い眠りの底へと落ちていった。
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Tales Untold
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暗闇の中、隣で規則正しい寝息を立てるアルフレッドの気配を感じながら、私は己の体内に意識を潜らせた。
(……やはり、消耗していますわね)
『王宮の庭園』で放った『風の刃』。
ほんの指先ほどの小さな魔法。かつての世界であれば、息をするよりも容易い初歩的な術式だった。
だが、大気中の魔素が極端に希薄なこの異世界において、自身の魔力を外部へ放出するという行為は、予想以上に魂を削る"愚行"だったようだ。
身体の芯に、ぽっかりと空いた穴のような虚無感がある。
血管を巡る魔力回路が、干上がった川のように渇き、鈍い痛みを訴えていた。
もし、なんのケアも出来ていなければ、私は"魔力欠乏症"による高熱で、数日は寝込んでいたかもしれない。
けれど――。
(……温かい)
手足の先まで、不思議な熱が留まっているのが分かる。
枯渇しかけていた私の魔力回路を、優しく満たす薄紅色の波動。
それは、間違いなく先ほど浸かった『バブ ローズの香り』の効能だった。
"炭酸ガス"という未知のエネルギー体が、私の強制的な魔力放出によって傷ついた回路を修復し、血流という名の魔力伝達物質を活性化させているのだ。
日本の錬金術、恐るべし。
まさか数百円の固形物が、上級司祭の『ヒール』に匹敵する治癒効果をもたらすとは。
「……アルフ」
不安に耐えきれず、私は闇に向かって小さく問いかけた。
魔力は回復傾向にある。それは分かっている。
それでも、この世界で"力"を使ってしまったという事実と、その代償の重さが、私の心を細く尖らせていた。
「――ああ。どうした、ソフィア」
即座に、しかし穏やかな声が返ってきた。
彼は眠っていても、私の気配の変化には敏感だ。
暗闇に慣れた目が、こちらを向いた彼の輪郭を捉える。
「あ。……、ごめんなさい。起こしてしまうつもりはなかったのですが」
「いいんだ。……眠れないのか?」
「いえ。ただ、少し怖くなったのです。わたくし、今日、魔力を使ってしまいました」
「ああ。聞いたよ。しかし、恩のある同僚を守るためだったのだろう。代償として、やむを得ないと思う」
「ええ。後悔はしていません。でも……。もし、このまま力が戻らなかったら。あるいは、この世界の理に拒絶されてしまったら、と」
布団の端を握りしめる。
最強の悪役令嬢として振る舞ってきた仮面が、夜の静寂と疲労の前で剥がれ落ちていく。
「もし、わたくしの魂はおそらく奈落へと落ちていくのでしょうね。それだけ罪深い――」
「ソフィア」
遮るように、温かく大きな手が、私の手を包み込んだ。誰よりも安心できる無骨な手のひら。
「……」
「考えすぎだ。すべては変則的な状態にある。毒により異世界同士で魂が入れ替わり、その魂に残った魔力だけが頼りの綱」
「……」
「そして、入浴剤によって、微量とはいえ、魔力の回復が観測できた」
そう。絶え間なく続いていた、魂が肉体から浮き上がっているような不快な"浮遊感"が、今は驚くほど静まっている。
まるで、あつらえたばかりの絹のドレスが肌に馴染むように、魂がこの身体に深く沈み込み、固定されている感覚がある。
昼に魔力を使ったにもかかわらず、だ。
「琅汰の記憶を共有する私には、これは驚天動地の出来事なんだ。まさか、入浴剤で魔力回復できるなんて」
「……」
「傷を癒やすために山深い秘湯を巡った、あの武田信玄もびっくりしているだろう」
「たけ、だ、しんげん?」
「ああ。この国にかつて存在した武将だ。あるいは、黄金の茶室よりも有馬の湯を愛した、あの太閤秀吉も震え上がらせよう」
「……ふふ。だれですの、それ?」
「農民という最下層の身分から、知略と人たらしの才だけでこの国の頂点……天下人にまで登り詰めた、伝説の英傑だ」
「へぇ、すごい御仁なのですね」
「ああ。我々の世界で言えば、名もなき村人が、皇帝をも凌ぐ権力を手中に収めたようなものだな」
「あり得ますの? そんなこと、考えられませんわ」
「だが、実在したんだ。そして、彼は黄金を愛し、贅を尽くして戦の疲れを癒やそうとした。そんな彼が巨万の富を投じても、この『数百円の炭酸泉』には手も足も出まいよ」
「……その話の意味するところはまったくわかりませんけど。……でも、あなたの言いたいことはわかりましたわ」
それは、慰めかもしれない。
あの鉄血鋼鬼と呼ばれた男が、悪役令嬢であった私を慰めるためだけに、愉快な話をしてくれる。
「そして俺たちの胃袋を満たしたのは、異国の魚『サンマ』だ。……我々はこの世界で、新たな力を、取り込んでいる」
アルフレッドの声は、確信に満ちていた。
戦場で兵たちを鼓舞した時と同じ、揺るぎない響き。
「魔力が減ったのなら、また『バブ』で補えばいい。腹が減れば、うまいものを食えばいい。この世界には、我々を生かすための知恵と技術が溢れている」
彼は私の手を、ぎゅっと握りしめた。
「案ずるな。今はただ、バラの香りに包まれて眠るといい。明日には、また新しい一日が始まる。神秘に満ちた食材を探そう」
彼の言葉が、冷えた心に沁み込んでいく。
そうだった。彼はいつだって、私の不安を切り裂き、道を示してくれる騎士だった。
「ふふ。そうですわね。貴方がついているのですもの」
「さあ。……おやすみ、ソフィア」
「ええ。おやすみなさい、アルフ」
繋いだ手から伝わる体温が、入浴剤の温もりと混ざり合い、心地よいまどろみへと変わっていく。
魔力の残滓も、不安も、全てが湯上がりの気怠さの中に溶けていった。
何も恐れることはない。
私は深く息を吐き、バラの香りの残る夢路へと旅立った。




