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悪役令嬢はポイントカードの還元率を侮らない。  作者: 柏原夏鉈


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第二話「羽根つきの奇跡」


┏━━━━━━━●

The Awakening

┗━━━━━━━●


朝の光が薄暗い玄関に差し込む中、その"新兵"は不気味なほどの静寂を纏って鎮座していた。


完全なる円を描く、漆黒のボディ。感情を感じさせない無機質な質感。

そして、その中央には一つだけ、血管のようになまめかしく明滅する赤い光が灯っている。


「アルフ。この禍々しい黒い円盤は、何ですの? まさか、闇ギルドから取り寄せた呪いの仮面……。あるいは、対人魔導爆陣の一種かしら?」


私が眉をひそめ、警戒心を露わに指差すと、アルフレッドは愛用の安全靴の紐を締めながら、至極真面目な顔で答えた。


「いや、違う。一種の魔像ゴーレムだな。昨日、リサイクルショップでスカウトしてきた。ジャンク品扱いだったが、琅汰の記憶にある知識でバッテリーを換装したら蘇生したぞ」

「……。我が城の警護を命じるつもりですの?」


「掃除を任せようと思っている。床を隈無く巡回し、ゴミを吸引してくれるそうだ。『ロボット掃除機』と呼ぶらしい」

「ほう!」


ロボット掃除機。

噂には聞いていたけれど、実物を見るのは初めてだ。

私は恐る恐る、その黒い円盤をつついた。ピロリ、と間の抜けた電子音が鳴る。

その音はあまりに無害で、拍子抜けするほどだった。


「……ですが、こんな薄い筐体からだで、本当に役に立ちますの? 掃除機は、琅汰のものがありますが、たいへんな作業ですわよ?」

「彼の吸引力パワーは侮れない。まして、その索敵能力は、我が軍の斥候部隊にも匹敵するのではないかと考えている」


「へぇ……。あなたがそこまで推すのであれば、期待してみましょう」


アルフレッドは立ち上がり、その円盤のスイッチを恭しく指で押した。

ウィィィィン……という低い駆動音と共に、円盤がゆっくりと旋回を始める。

重厚さないが、健気な動きではあった。


「よし、起動確認。彼のコードネームは『鉄丸てつまる』だ」

「鉄丸……。相変わらず貴方のネーミングセンスは武骨ですわね」


「そうか? 強そうでいい名前だと思ったんだが」


彼は少し残念そうに肩をすくめると、私に向き直った。


「ではソフィア、俺たちは出撃だ。鉄丸てつまる、留守を頼んだぞ」

「ピロリン!」


まるで了解したかのような軽快な電子音に、アルフレッドは満足げに頷く。

私は呆れつつも、懸命に短いブラシを回転させながら床を這い始めたその小さな背中に、少しだけ愛着を感じてしまった。


「……まあ、頑張りなさいな、鉄丸てつまる。私たちが帰るまで、城を任せましたよ。彼の期待を裏切らないでね」


私たちは、その小さな守護者を部屋に残して、朝の喧騒あふれる街へと繰り出した。


┏━━━━━━━●

High Heavens

┗━━━━━━━●


昼のピークタイムを過ぎたコンカフェ『王宮の庭園』。

狂乱のようなランチタイムが去り、店内の空気は少し緩んでいた。


「はぁ……」


バックヤードの隅で、小さな溜息が聞こえた。

同僚のメイド、メイメイだ。


二十歳の女子大生だというメイメイは、子供のように愛らしい顔立ち。

そして、それに不釣り合いなほど豊かなスタイルを持つ、不思議な均衡バランスの上に成り立つ娘だ。


常にひまわりのような笑顔を振りまき、懐に遠慮なく飛び込んでくるその天真爛漫さは、まるで人馴れした仔犬そのもの。

彼女のまわりだけ重力も空気も軽いのではないかと錯覚するほど、その存在は底抜けに明るく、そして騒がしい


しかし、彼女にしては珍しく、パイプ椅子に座り込み、どこか遠い目をしている。

私は淹れたてのハーブティーを二つ持ち、彼女の隣に座った。


「お疲れ様、メイメイ。……どうかいたしまして? ずいぶんと暗い顔をしていますわね」

「あ、ソフィアさん……。いえ、なんでもないんです。ちょっとぼーっとしてただけで」


メイメイは慌てて作り笑いを浮かべたが、その眉尻は下がったままだ。

私はティーカップを彼女の前に置き、真っ直ぐに彼女の目を見つめた。


「なんでもない、ということはありませんわね。貴方の表情かおには『悩み事あり』と書いてありますわ」

「そ、そうですか? うぅ、ソフィアさんには、隠せないなぁ……」


「隠す必要などありません。メイメイ、貴女にはこの店で働くきっかけを与えてくれた恩があるのですから」


そう。あれはこの世界に転移してきて間もない頃のことだ。

現代日本の常識も知らず、路頭に迷いかけていた私は、秋葉原の街角で客引きをしているメイメイに遭遇した。


当時の私は、まだ貴族としてのプライドと、偏見の塊だった。

メイド服のコスプレをして、猫なで声でチラシ入りティッシュを配る彼女の姿が、私にはあまりにも無様に見えてしまったのだ。


『ちょ、ちょっとお待ちになって! 何ですのその姿勢は!』


思わず声を荒らげて近づいた私に、メイメイはキョトンとしていた。


『背筋が曲がっていますわ! それに、通行の方への物の渡し方! 片手で押し付けるなんて言語道断です。お辞儀の角度も浅すぎますし、言葉遣いもなっていません!』

『え、ええー?』

『いいですか、メイドたるもの、こうあるべきですわ!』


私は路上であることも忘れ、彼女からティッシュの束を奪い取ると、王宮仕込みの所作を実演して見せた。

背筋を伸ばし、楚々とした足取りで歩み寄り、恭しくお辞儀をして、両手でそっと差し出す。


本来なら警察沙汰になってもおかしくない不審者だが、メイメイという少女は違った。


『す、すごぉぉーい! めちゃくちゃ綺麗! お姉さん、本物のメイドさんですか!?』


彼女は目をキラキラさせて感動し、その場で私を慕い始めたのだ。

そして「ウチの店、今人が足りないんです! お姉さんみたいな凄い人なら店長も絶対喜びます!」と、私をこの店に紹介してくれた。


彼女がいなければ、私は今頃まだ職を探して彷徨っていたかもしれない。


「その恩は自分の矜持として、かならず返します。だから何か困ったことがあるなら、遠慮なく相談してほしいの」


私が真剣な眼差しでそう告げると、メイメイはハッとして、それから少し照れくさそうに笑った。


「ソフィアさん……ありがとうございます。なんか、ソフィアさんになら、相談できそう、って思うんですけど――」


メイメイは、うつむいて必死になって感情を言葉にしようとしてくれていた。だから、私もじっと待っている。

けれど、顔を上げたとき、メイメイの瞳に、ある種の決意を感じた。


「……いつか、きっと、ソフィアさんに相談します。でも、今はまだ、自分でどうにかしたいっていうか――」

「――いいのよ。無理には聞かないわ。でも、私はいつでもあなたに味方したい、そう思ってるってことを忘れないで。ね」


「はいっ!」


メイメイは元気よく立ち上がり、エプロンの紐を締め直した。

ちょうどその時、フロアから呼び出しのベルが鳴った。


「あ、呼ばれました! 行ってきます!」


彼女は弾むような足取りでホールへと駆け出して行った。

私はその後ろ姿を微笑ましく見送り、残りのハーブティーを飲み干して、グラスを磨くためにカウンターへと戻った。


その時だ。


「きゃあっ!?」


突然の悲鳴と、何かが砕け散る硬質な音が店内に響き渡った。

視線を走らせると、先ほど元気よく飛び出していったメイメイが、客のテーブルでアイスコーヒーを派手にぶちまけてしまっていた。

床には茶色い液体が毒沼のように広がり、氷とグラスの破片が散乱している。


「も、申し訳ありません……っ!」

「おいおい、服にかかったぞ! どうしてくれるんだ! これ高かったんだぞ!」


客の怒声に、メイメイは顔面蒼白になり、小刻みに震えている。

さっき励ましたばかりだというのに、なんという間の悪さ。私は磨いていたグラスを静かに置き、スッとカウンターを出た。


「――お下がりなさい」

「ソ、ソフィアさん……」


私はメイメイの肩を優しく、しかし力強く引いて背後に庇うと、怒る客の前に立ちはだかった。


「お客様、大変失礼いたしました。……ですが、まずはそのお召し物を」


そして、エプロンから一枚の布を取り出す。

それはただの雑巾ではない。現代の錬金術が生んだ奇跡の繊維"マイクロファイバークロス"だ。

極細の繊維が汚れを絡め取る、吸水と清掃のアーティファクト。


私は流れるような手つきで、客のシャツに飛び跳ねたシミにクロスを当てた。

ゴシゴシと擦るような野暮なことはしない。それでは汚れを広げ、繊維を傷つけるだけだ。

トントンと優しく叩き、汚れを下の布へと転移させるように、力を込める。


さらに"携帯用シミ抜きペン"――界面活性剤という名の溶解魔法が封じられた杖――も併用する。

私もまだ貴族令嬢の癖が抜け切れていないころ、何度も同じように客の衣服を汚した経験を持つ。

その際に、アルフレッドに相談したら、この杖を用意してくれた。


「……おや? 消えた?」

「ええ。初期対応が早ければ、コーヒーのシミなど恐るるに足りませんわ」


客が呆気にとられている間に、私は床の惨状へと向き直る。

ここで、本来ならモップを持ってくるところだが、それでは遅い。液体が床材に染み込む前に決着をつける必要がある。

私は近くにあったペーパータオルと、アルコールスプレーを両手に構えた。二刀流だ。


シュッ、シュッ! サッ、サッ!


「……は、速い……!」


周囲の客がざわめく。

無駄のない動きでガラス片を厚手の紙で包んで回収し、液体を拭き取り、最後にアルコールで除菌消臭。


すべてが終わるまで、わずか数十秒。

床は何事もなかったかのように輝きを取り戻している。


「終わりましたわ。ただいま、新しいお飲み物をお持ちしますわ」

「……」


「お詫びに当店自慢の焼き菓子をサービスさせていただきます。これで手打ちとさせていただけますか?」

「あ、ああ……。すごいな、魔法みたいだ」


「ふふ、魔法ではありませんわ。……『科学』と『修練』の賜物です」


私は優雅に微笑み、スカートの裾を翻してバックヤードへと戻った。

震えていたメイメイが、涙目で駆け寄ってくる。


「ソフィアさん、ごめんなさい!」

「いいのよ。すぐにカバーできて良かったわ」


「すごいです! どうやったらあんなに綺麗にできるんですか!?」

「道具を知り、汚れの性質を知ることよ。……私も彼に教わったのだけれどね」


そう、掃除とはただの作業ではない。

汚れの属性を見極め、適切な洗剤を選び、最短の手数で対応する。


それはまさに、アルフレッドが常々言っている"戦術"そのものだった。

ポケットのスマートフォンが振動する。彼からのメッセージだ。


『現在、休憩中。現場の清掃任務にて、高圧洗浄機という魔導砲を使用した』


添付された動画を開く。

凄まじい水圧の奔流がコンクリートの壁を直撃し、長年こびりついた苔が一瞬で消滅していく様子が映し出されていた。

その横で、アルフレッドが無表情でサムズアップをしている。


本当に、貴方は掃除一つでも楽しそうですわね。まるで新しい攻城兵器を手に入れた子供のようだわ。


『凄まじい威力ですわね。でも、水跳ねで風邪を引かないように。……家の鉄丸も、ちゃんと戦っているかしら』

『彼なら大丈夫だ。俺が見込んだ新兵だからな』


その言葉に、私は少しだけ不安を覚えた。

あの小さな円盤に、重い任務を任せて良い物だろうか。私たちの部屋には、彼を惑わす罠が多すぎる気がする。


┏━━━━━━━●

Deep Silence

┗━━━━━━━●


帰宅。

私たちが玄関のドアを開けると、そこは深遠な静寂に包まれていた。


「ただいま。……静かだな」

「ええ。鉄丸てつまるの駆動音もしませんわね」


パチリと電気をつける。

部屋は……驚くほど綺麗だった。


朝出かけた時に落ちていた私の長い髪の毛も、朝食のパン屑も、跡形もなく消えている。

フローリングが照明を反射し、まるで王宮の磨き抜かれた大理石のように輝いているではないか。


「やりましたわ! 見てアルフ、床がピカピカです!」

「さすがだな。任務完了だ。……だが、本人はどこへ行った?」


私たちは部屋を見渡した。

充電ステーションであるはずの部屋の隅に、彼の姿はない。


「まさか、脱走……? 戦場の過酷さに耐えかねて?」

「あり得ない。ドアは施錠されていた。……待て、微かな電子音が聞こえる」


アルフレッドが片手を上げて私を制し、鋭い聴覚で音源を探る。


ピ……ピ……ピ……。


それは、まるで瀕死の兵士が瓦礫の下から発する救難信号のような、弱々しいビープ音。


「こっちだ!」


彼が向かったのは、寝室のベッドの下。

覗き込むと、そこにはコード類に絡まり、赤いランプを点滅させて力尽きている鉄丸の姿があった。


鉄丸てつまる!!」

「なんてこと……! 延長コードにかかったのですわね!」


アルフレッドが慌ててベッドの下に手を伸ばし、彼を救出する。

裏返った鉄丸の車輪には、スマートフォンの充電ケーブルが、まるで食人植物の蔦のように複雑に絡みついていた。

彼は身動きが取れなくなるその瞬間まで、車輪を回し、任務を遂行しようとしていたのだ。


「くっ、俺の不手際だ……。戦場の地形把握を怠ったせいで、彼をこんな目に……」

「アルフ、しっかりして! まだ息はありますわ!」


私たちはまるで野戦病院の医師のように、連携して処置にあたった。

私が鉄丸を押さえ、アルフレッドが器用な手つきで絡まったコードを解いていく。


「よし、外れた。……回転ブラシにホコリが詰まっているな。これも取るぞ」

「はい! ……うわぁ、こんなに取れましたわ。彼、本当によく働いたのですね」


ダストボックスを開けると、そこには驚くほどのゴミが灰色の塊となって圧縮されていた。

文句も言わず、暗いベッドの下で、力尽きるまで戦い続けた小さな戦士。

私は布で彼のボディを優しく拭いてあげた。


「お疲れ様、鉄丸てつまる。……貴方は立派な騎士ですわ」

「ピロリ」


充電台に戻すと、彼は安堵したような音を立てて、オレンジ色のランプを点滅させ始めた。

まるで、傷ついた体を癒やしの泉に浸したかのように。


それを見届けて、私たちはようやく顔を見合わせ、安堵の息を吐いた。


「……ふぅ。一時はどうなることかと思いましたわ」

「ああ。だが、彼の尊い犠牲のおかげで、俺たちは快適な夜を過ごせる」


アルフレッドは優しい目で鉄丸を撫でると、立ち上がってキッチンへと向かった。


「ソフィア、今夜は『羽根つき餃子』にしよう。冷凍庫にストックがある」

「ええ、いいですわね。鉄丸てつまるの勝利を祝して、盛大に焼きましょう!」


ジュウウウゥ……!


フライパンから、食欲をそそる音と香ばしい匂いが立ち上る。

私は水溶き片栗粉ならぬ、添付の"羽根の素"を流し込み、蓋をした。

この数分が勝負だ。水蒸気を利用して中まで火を通し、最後に油の力で底面を焼き上げる。

それは"蒸し"と"焼き"という相反する属性を一つの料理に封じ込める、高等な調理魔術。


「アルフ、お皿の準備を」

「了解。タレの配合は、酢と醤油を1対1、ラー油を少々でいいか?」

「完璧ですわ」


そして、運命の開封オープン


カパッ。


蒸気が晴れたそこには、奇跡が広がっていた。


「……おお」


アルフレッドが感嘆の声を漏らす。


そこには、黄金色の薄い膜を纏った、完璧な円盤状の餃子が焼き上がっていた。

全ての餃子が薄い氷のような「羽根」で結ばれ、一つの巨大な盾を形成している。


「見ろソフィア。この形状……まるで鉄丸てつまるのようだ」

「ふふ、本当ですわね。でも、こちらは熱々で美味しそうですわ」


ここからが最難関だ。

私はフライパンにお皿を被せ、一呼吸置く。手首のスナップと、重力の支配。


エイッ!


ひっくり返し、フライパンを外す。

パリパリッという小気味よい音と共に、羽根つき餃子が皿に着地した。崩れも焦げもない、完全なる黄金の円盤。


テーブルを囲み、私たちは手を合わせる。


「いただきます」


パリッ。


箸を入れると、黄金の羽根が軽やかに割れる。その儚い音は、勝利のファンファーレだ。

中の皮はもちもち、噛めば肉汁がじゅわりと溢れ出す。


「……んん! 美味しいっ!」


熱々の肉汁が舌を焼き、ニンニクとニラの強烈な風味が鼻腔を突き抜ける。

そこにパリパリの羽根の香ばしさが加わり、食感のオーケストラが奏でられる。


「ああ。この皮の食感のコントラスト、冷凍技術の極致だな。白米が進む」

「ビールにも合いますわね。……ふふ、お掃除してくれた綺麗な部屋で食べるご飯は、格別ですわ」


私は冷えたビールを一口飲み、部屋の隅で静かに充電している鉄丸てつまるに視線を送った。


以前の私なら、掃除なんて使用人の仕事だと思っていた。床に這いつくばることなど、一生なかっただろう。

けれど今は、自分たちの城を、自分たちの手で――時には便利な相棒の手を借りて――守ることが、こんなにも誇らしく、愛おしい。


「アルフ」

「ん?」


彼が白米を頬張ったままこちらを見る。


「明日は、コードをちゃんと束ねてから出かけましょうね」

「ああ、そうだな。……あと、彼に目玉のシールでも貼ってやろうか。愛着が湧くかもしれん」

「もう、やめてくださいまし。……でも、赤いリボンくらいなら、つけてあげてもよくてよ?」


私たちは顔を見合わせ、笑い合った。


窓の外には東京の夜景。

部屋の中には、湯気の立つ餃子と、微かな充電音。


かつての栄華はないけれど、ここには確かな”生活”という名の温かい戦いがある。

今日もまた、平和で騒がしい夜が更けていく。


┏━━━━━━━●

Tales Untold

┗━━━━━━━●


深夜。

隣で眠るアルフレッドの規則正しい寝息だけが、静寂に包まれた部屋に響いている。


私は音を立てないように細心の注意を払いながらベッドを抜け出し、洗面所へと向かった 2。

ひんやりとした空気が、火照った肌を刺す。


私は震える手で、洗面台の鏡を覗き込んだ。

鏡の中の自分と目が合う。


そこに映っているのは、かつて鏡を見るたびに誇らしさを感じていた、あの銀灰色の瞳を持った"ソフィア・フォン・クライスト"ではない。

"椿油"や"聖なる霧の洗礼"によって整えられてはいるが、元は激務にやつれ果てていた一人の日本の女性、"神楽坂 咲夜花"の容貌だ。


「……だれ、ですの……?」


声にならない呟きが、白く冷たい陶器に吸い込まれていく。


指先で、自身の――いいえ、この肉体の頬に触れてみる。

指先に伝わる柔らかな皮膚の質感は、紛れもなく生きている人間のものだ。


だというのに、私の意識はそれを"借り物"であることを受け入れられず、激しい違和感という名の火花を散らす。


私は、この女性の人生を不当に奪ってしまったのではないだろうか。

この女性は、今、"ソフィア・フォン・クライスト"となり、どのような困難に直面しているのだろうか。

この"偽りの器"の中で、私の魂はいつか自分自身の輪郭さえも見失ってしまうのではないだろうか。


陶磁器のようにきめ細やかさを蘇らせた肌も、濡れたような漆黒の艶を持つ髪も――。

すべてが私のものではないという事実が、鋭い刃となって胸を突き刺す。


鏡の中の瞳が、私を"魂の簒奪者"として責めているように見えた。


――あなたは、だれ?


深淵を覗き込むような恐怖が、背筋を這い上がる。


隣の部屋には、私の魂と強く結びついたアルフレッドが眠っている。

けれど、彼が見つめ、抱きしめているこの姿は、本当のわたくしではない。


この世界で生きていくということは、永遠に"神楽坂 咲夜花"を演じ続け、鏡を見るたびに自らの喪失を突きつけられるということなのだ。


「……」


私は寝室の方を振り返った。

彼は、私たちがこの世界で共に生活を紡いでいけると信じて疑っていない。


『――必ずあるはずだ。君の魂を繋ぎ止め、満たすことができる"運命の一皿"が――』


あんなにも力広く希望を語ってくれた彼の心を、私の独りよがりな苦悩で曇らせるわけにはいかない。


この"姿が変わってしまったことへの絶望"は、私一人で抱え込まなければ。

たとえ鏡の中の顔が他人であろうとも、その奥にある魂が"ソフィア"であることを、私自身の生き方で証明し続ける。


それが、彼に守られ、愛される私の、せめてもの矜持だから。


私は強く唇を噛み締め、鏡から視線を逸らした。

冷たい水で顔を洗い、葛藤で強張った表情を無理やり笑顔の形に歪める。


大丈夫。私はまだ、ここにいる。


明日もまた、彼と美味しい食事をするのだから。

私はそっとベッドに戻り、彼の温かい背中に、すがるように額を押し付けた。


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