第一話「中トロ刺身定食」
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The Awakening
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この世界には、朝を告げる"魔導具"が存在する。
その"魔導具"は枕元に鎮座し、時刻になるとけたたましい警笛を鳴らし、私の安眠を無慈悲に引き裂くのだ。
「……ん、ぅ……うるさい、ですわ……」
私は重いまぶたは閉じたまま、白い手を伸ばし、その"魔導具"――目覚まし時計を止めようと手探りした。
しかし、指先が冷たい画面に触れるより早く、大きな手がそれを覆い隠し、警笛を一瞬にして沈黙させた。
寝ぼけていた私は、つい"以前の癖"で叱責しようとする。
「……わたくしの眠りを妨げるなど、万死に値するわ。さっそくお父様に……」
「おはよう、ソフィア。定刻だ」
頭上から降ってくる、低く、けれど温かみのある声に、重いまぶたをようやくにして開けた。
早朝の鍛錬を終えたばかりの私の婚約者が――、いえ、この世界の言葉で言うところの"同棲中の彼氏"が立っていた。
かつて、鉄血鋼鬼と恐れられた歴戦の戦士の面影はない。
体に張り付くような黒い機能性シャツと動きやすそうな短パン姿は、かつての丸太のような剛腕と分厚い胸板ではなく、貧弱で頼りなく見える。
(……とはいえ、その優男然とした風貌も、見慣れてきましたわ)
「おはよう、アルフ。貴方はいつも早いですわね」
「ああ、おはよう。世界が変わろうとも習慣は変わらない」
彼の言うとおりだと、私も思った。
先ほど、寝ぼけていたのもあって、つい"悪役令嬢"であったころの癖が抜けずに「万死に値する」などと口走ってしまった。
"悪役令嬢"であったころのわたくし――公爵令嬢であった"ソフィア・フォン・クライスト"。
王子に盛られた"毒"によって、私の魂と、この世界の"神楽坂 咲夜花"の魂が、入れ替わってしまった。
"鉄血鋼鬼"と呼ばれた彼――若き辺境伯当主であった"アルフレッド・フォン・バルテンベルク"。
私が神と交渉して、契約によって、私の魂と強く結びついていたアルフレッドの魂と、この世界の"長谷川 琅汰"の魂を、入れ替えた。
そうして、二人でこの世界の、"日本"という国で、細々と生活している。
元々、咲夜花と琅汰は同棲していなかった。
だが、私にはあまりにも"生活力"がなく、この世界では、一人では生きていくことが出来ない。
対して、アルフレッドには神の計らいにより、琅汰の記憶を共有している。
この世界のことを詳しく知っている。
そのため、彼を頼り、私は琅汰の住まいに同居することにした。
「この身体はあまりに脆弱だ。わずか10キロの行軍で悲鳴を上げるとは……。いざというときに我が"心"である君を守れなくては困る」
「この世界では、貴方に守ってもらうようなことにはならないでしょう?」
「……そうであれば、良いのだが。しかし、備えは必要だ」
彼が、そうは言ってくれるのは、素直に嬉しい。
王命による"婚約者という鎖"や、公爵家という"権威"が消え失せた今となっては、何よりも確かなもの。
(でも。私のような我儘な女を見限り、素敵な女性を選んだとしても、私には止める権利などありませんけれど)
アルフレッドは小さな声で何かを呟きながら、カーテンを開け放った。
「――力を失えば、君の隣にいる資格まで失う」
「え?」
寝起きで、頭がはっきりとしてなく、私も私で考え事をしていたので、その言葉を聞き逃した。
「気にしないでくれ。……いい天気だぞ?」
差し込む朝日。窓の外には、魔獣も騎士団もいない、平和な街並みが広がっている。
私は眩しさに目を細めながら、重たい体を起こした。
「……平和ですわね」
「ああ。敵襲の警鐘ではなく、小鳥の囁きで起きられるとはな。さあ、朝餉を食べよう」
アルフレッドがキッチンへと向かう背中を見送りながら、私は大きく伸びをした。
さあ、月曜日。
この世界の人々が少し憂鬱になるという、一週間の始まり。
けれど私にとっては、愛しい彼と生活を紡ぐ、大切な一日の幕開けだ。
キッチンから漂ってくるのは、香ばしいパンの焼ける匂いと、コーヒーの芳醇な香り。
私が身支度を済ませてリビングに入ると、小さなテーブルの上にはすでに完璧な朝食が並べられていた。
「すごい……。この『トースター』という魔導具、何度見ても不思議ですわ。ただの白いパンが、数分で黄金色のカリカリに変わるなんて」
「火加減の調整がいらない分、かまどより優秀だな」
アルフレッドはコーヒーを一口啜り、毎朝届けられる新聞を手に取って広げ始めた。
その仕草一つとっても、作戦会議中の指揮官のような威厳があるのだが。
――彼が見ているのはスーパーのチラシだということを私は知っている。
私は居住まいを正し、目の前の皿に鎮座する"トースト"へと恭しく手を伸ばした。
こんがりと黄金色に焼き上がったその表面には、バターがとろりと溶け出している。
朝の光を受けて宝石のような輝きを放っている。
上品に一口かじりつくと、「サクッ」という軽快な音が静かな部屋に響いた。
その直後、驚くべき食感が私を襲う。
外側は香ばしくカリカリでありながら、内側はまるで雲のようにふんわりとしている。
絹のようにしっとりと舌に絡みつくのだ。
噛みしめるたびに、小麦本来の甘みとバターの塩気が口いっぱいに広がっていく。
「なんと、罪深い味でしょう」
かつて。
公爵家で口にしていたパンは、たとえ最高級品と言われるものであっても、これとは似ても似つかぬ代物だった。
保存性を重視したそれは、まるで煉瓦のように硬く、パサパサとしていて、スープに浸さなければ顎が疲れるほどの"味気ない固形物"でしかなかったのだ。
だというのに、この日本の「主食用パン」はどうだ。
水分をたっぷりと含んだこの柔らかさは、もはやパンという概念を超越した、別の食べ物ではないか。
さらに驚くべきは、この焼き加減だ。
食卓の片隅に置かれた"トースト"なる小型の箱型魔導具。
これに白い切り身を放り込み、ダイヤルを回すだけで、誰であっても寸分違わずこの"外はカリカリ、中はフワフワ"という至高の状態を再現できるという。
王宮のパン職人が薪窯と格闘してようやく生み出せるかどうかの奇跡を、この世界では卓上で済ます。
「魔法のない世界にあっても、魔法としか思えないわ。……底が知れませんわね」
平和な朝。至福の時間。
私は熱いコーヒーを一口含み、その文明の味に、ほうっと幸せなため息をついた。
しかし、その静寂は、向かいの席から発せられた鋭い息の音によって破られた。
「ッ……なんと……!」
アルフレッドが、手にしたチラシを鷲掴みにし、目を見開いている。
その表情は、かつて隣国の侵略を察知した時のような。
あるいは撤退戦で殿を務めると決めた時のような。
ただならぬ緊張感を漂わせていた。
私もトーストを持つ手を止める。
「どうしましたの、アルフ。また卵の安売り合戦でも始まるのですか?」
「いや、事態はもっと深刻だ、ソフィア」
彼はチラシの一点を指差し、重々しく告げた。
「今夜は『月曜恒例・生鮮食品売り尽くし』だ。駅前のスーパー『オオゼキ』にて、例の特級食材(中トロ)が売りに出る」
「ま、まさか、あの特級食材(中トロ)を再び……?」
その響きに、私はごくりと喉を鳴らした。
先週、一度だけ食べたあの味。口の中で雪のように溶け、濃厚な旨味が広がる、あの奇跡の切り身。
かつての公爵家でも、あそこまで新鮮な魚介は滅多にお目にかかれなかった。
それが、この世界では平民……いえ、一般市民の手にも届く場所にあるというのだから、恐ろしい。
アルフレッドの瞳が、獲物を狙う狩人のそれに変わる。
「しかも、職場の同僚から、本日19時より半額シールの貼付が開始されるとの情報を得た」
「19時……! 私のシフトが終わる時間とぴったりですわ!」
「現地にて合流し、総員をもって突撃を敢行する。 狙うは一点のみだが、あわよくば――」
「ま、まさか、あの前回に逃した"あれ"を狙うと?」
「ああ。雪辱を遂げよう。心して掛かるぞ。あの戦場には、数多の伏兵が潜んでいる」
「了解しましたわ。私も職場での任務を迅速に遂行し、必ずや定刻に合流します」
「頼もしい限り。……我ら二人、必ずや生きて凱旋し、共にあの至高の戦果(中トロ)を味わおう」
「ええ!」
扇の裏で微笑みながら毒を盛り合うような、あの絢爛で冷酷な社交界とは違う。
けれど、どの世界であっても、口を開けていれば食べ物が飛び込んでくるわけではない。
今日も私たちは生き抜いていく。
私は私の持ち場で、気高く責務を全うしてみせましょう。
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High Heavens
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昼下がりの秋葉原。
雑多な看板と極彩色の電子音がひしめくこの街は、まるで異界の迷宮のようだ。
通りを行き交う人々は、何かの魔術に掛かったかのように虚ろな目だ。
あるいは熱に浮かれたような瞳で、それぞれの聖地へと吸い込まれていく。
私が勤めるコンセプトカフェ『王宮の庭園』は、そんな喧騒を見下ろすビルの5階にある。
私はしっかりと衣装を身にまとった。
更衣室の鏡に映るこの姿は、かつて激務にやつれ果てていた"神楽坂 咲夜花"とは別人のようだ。
荒れ果てていた黒髪は、濡れたような漆黒の艶を取り戻している。
錬金術の万屋で手に入れた"椿油"という秘薬を毎夜擦り込み、献身のブラッシングの成果だ。
水分が抜けきり、今にも崩れそうな質の悪い羊皮紙のようであった肌も、陶磁器のようなきめ細やかさを蘇らせていた。
この肌のためにかけた苦労は、"聖なる霧の洗礼"や"潤いの封印儀式"、"最終防壁の展開"など、言い出したらキリがないから、ここでは省く。
そして何より、この装いである。
『王宮の庭園』から支給された衣装は、スカート丈が膝上という、あまりに破廉恥で機能性を欠いた"布切れ"であった。
上級貴族の令嬢であった私が身に纏える物ではない。当然、抗議したのだが、無情にも聞き入れられなかった。
そこで、妥協案として、自前で用意することを提案した。
私は、仲良くなった同僚メイドに頼み込み、二人で"古着屋"なる市井の店を巡り、ようやく発掘したのである。
この足首まであるロングスカートの黒衣こそ、真の王宮侍女にふさわしい。
糊を効かせた純白のエプロンを結び、私は鏡の中の自分に満足げに頷いた。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
私の発声は、他の可愛らしいメイドたちとは少し違うらしい。
腹の底から響くが、決してうるさくはない、よく通る声。
『王宮の庭園』の主曰く「ロイヤルな響きねぇ」だそうだ。
貴族の令嬢として、物心つく前、自らの足で立ち上がったときから訓練してきたのだから。
魂に刻まれている、その振る舞いは、完璧だと自負している。"メイド"と"王宮侍女"の違いを見せつける。
「ソフィアちゃーん! こっちこっち! オムライス頼むよ!」
「はいはい、ただいま」
常連の男性客がちぎれんばかりに手を振っている。
私は優雅に、しかし無駄のない足運びでテーブルへと向かった。
手には、錬金術の赤き結晶――ケチャップ。
この世界の錬金術師が生み出した、トマトを凝縮し、旨味と甘味を封じ込めた魔法の調味料だ。
「おいしくな~れ、ってやってよ! ソフィアちゃんのやつ!」
「……本気でおっしゃっていますの?」
私はわざとらしくため息をつき、冷ややかな、それでいて慈愛を含んだ瞳で彼を見下ろした。
これが、この店での私の役職だという。
当初は抵抗があったものの、今では客の関心を掌握するのも、務めだと割り切っている。
「いい年をした殿方が……。嘆かわしいことですわ」
「そこをなんとか! ソフィアちゃんの許可がないと食べられないから!」
男性客が嬉しそうに身をよじらせる。
この世界の民の嗜好は、未だに理解しがたい。罵倒されたいのか、癒やされたいのか。あるいは、その両方か。
けれど、彼らが求めているのが、退屈な日常を打破する"非日常"であることだけは理解できる。
ならば、与えて差し上げましょう。異世界の王宮仕込みの、本物の"非日常"を。
私は背筋をスッと伸ばし、オムライスの黄色い卵肌に、ケチャップ容器の先端を向けた。
描くのはハートマークなどという俗な記号ではない。対魔獣用結界の防護術式――によく似た、幾何学模様の魔法陣だ。
「――このわたくしが、許可します」
凛とした声で、私は厳かに宣言した。
まるで、騎士に叙勲を与える女王のように。
「我が民の糧として、その滋味を余すところなく発揮せよ!」
「おお……!」
歓声を上げて、見とれている客は、今にもオムライスに飛びつきそうな勢いだが、私が許可するまでは、じっと耐えている。
「……さあ、食すがよい。わたくしが許したのです、不味かろうはずがありません」
「ははーっ! いただきます!」
客が仰々しく頭を下げ、スプーンを握る。そして、勢いよくオムライスを大きく開けた口に掻き込み始める。
周囲の席からも、くすくすと笑い声と小さな拍手が起こる。
客を残し、私は小さく会釈をして、ドレスの裾を翻し、カウンターへと戻った。
(……ふぅ。これで良かったのかしら)
バックヤードに入り、少しだけ肩の力を抜く。
公爵家での外交よりも、こちらの世界の接客の方が、よほど精神力を削られる気がする。
ポケットに入れた連絡用の魔導具――スマートフォンが、短く振動した。
画面を見ると、アルフレッドからのメッセージ通知だ。
『現在、休憩中だ。そちらの戦況はどうだ?』
添付されているのは、コンビニのおにぎりと、黄色いヘルメットを被った彼の自撮り写真。
無表情でピースサインをしているその姿に、思わず口元が緩んでしまう。
かつて数千の兵を率いて数万の敵を迎え撃つことさえあった辺境伯当主が――。
今は工事現場で安全第一を掲げているのだから、平和とはなんと滑稽で、愛おしいものか。
『こちらは順調ですわ。ただ、相変わらず民たちの要求が不可解で』
『平和な証拠だ。敵意のない要求なら、適当にあしらって問題ない』
「そうしますわ。貴方も、怪我をなさいませんように、と……」
そう入力して、送信ボタンを押す前に、ふと彼の写真を見返す。
無表情でピースサインを作る彼の背後に、小さく写り込んでいる人影――ヘルメットを被った、若い女性の姿が気になった。
私は指先を止め、反射的に問いかけていた。
『後ろに写っている女性は?』
『現場事務所の事務員さんだ。雑務をしてくれている』
その淡々とした文面に、私は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
荒々しい男たちだけの職場だと思い込んでいましたけれど、そうですわね。
この高度に発達した社会では、女性もまた当たり前のように職を持ち、こうして社会の一員として機能している。
家柄という籠の中で守られている貴族令嬢だったころの"わたくし"とは違う。
私は小さく息を吐くと、再び文字を入力した。
『貴方も、怪我をなさいませんように』
嫉妬心を塗りつぶすように送信ボタンをタップした。
彼の身体は、"長谷川 琅汰"の物であり、かつての強靱な肉体ではない。
しかし、彼も私も、魂に備わった魔力を、この世界でも少しだけ使うことが出来るようだ。
彼は、転生前は"魔力による身体能力の強化"を得意としていた。そして、琅汰の身体であっても、それは発現する。
結果として、この世界の基準からすれば、十分に怪力無双だ。
だから、彼は求められる存在だ。"頼れる力持ちの現場作業員"として受け入れられている。
この世界は寛容だ。あるいは、他者に無関心なだけかもしれないけれど。
「ソフィアさーん、3番テーブル、オーダーお願いします!」
「ええ、今行きますわ」
私はスマホをポケットにしまい、再び"冷徹な王宮侍女ソフィア"の仮面を被る。
けれど、その仮面の下には、確かな温もりが灯っていた。
あと数時間。
この労働を終えれば、彼に会える。
そして今夜は、スーパー『オオゼキ』での中トロ争奪戦だ。
「さあ、お待たせいたしました。……ご主人様、何を求めているのですか?」
私の声は、少しだけ弾んでいたかもしれない。
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Deep Silence
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駅前のスーパー『オオゼキ』。
そこは、煌々と照らされた屋内戦場であった。
「――ソフィア、無事に着いたか」
「少し遅れましたわね。申し訳ありませんわ、レジ締めが少し長引いてしまって……! 戦況は!?」
入り口で合流したアルフレッドは、すでに買い物カゴを装備し、鋭い眼光で店内を見渡していた。
作業着姿が妙に周囲に馴染んでいるが、放つオーラだけは歴戦の騎士のそれだ。
二人して、目的地へと早足で向かいながら、状況を確認し合う。
「まだだ。主婦層の包囲網が、ゆっくりと鮮魚コーナーや精肉コーナーを回遊するかのように、巡っている」
「間に合ったのですわね……!」
「ああ、"シール貼り部隊"は、まだ到着していない」
「では、まずは、現地を下見して、特級食材の配置を確認して――」
「待て。その前に、あの集団を見てみろ」
「あの集団……!まさか!」
私の視線の先、精肉コーナーの一角に、明らかに周囲の空気から浮いている男たちの群れがあった。
夕飯の献立に悩む主婦たちや、カゴにカップ麺を放り込む一人暮らしの男性たちとは、纏っているオーラが決定的に違う。
彼らは会話をしない。ただ腕を組み、獲物を待つ猛禽類のように鋭い眼光を、陳列棚――まだ定価のままの肉塊――へと注いでいる。
「あれは……、ただの市民ではありませんわね?」
「ああ。奴らは兵站部隊だ」
アルフレッドが忌々しそうに吐き捨てた。
「近隣の居酒屋や定食屋の店主たち……。つまり、店の仕入れのために来ている連中だ。奴らの気迫は、主婦とは異質だぞ」
言われてみれば、彼らの装備は、油にまみれたエプロンや、使い古されたジャージなど、実戦向きのものばかり。
何より、その目が違う。
"今夜のおかず"を探す家庭的な温かさは微塵もない。
"利益"という冷徹な計算と、生存本能だけがぎらついている。
「奴らは、半額シールにより値引きされた精肉を、遠慮も慈悲もなく、ごっそり買い占めていく。我々のように"今夜食べる分だけ"という慎ましさはない。根こそぎだ」
「根こそぎ……! なんて無粋な!」
「俺は奴らの本質は"山賊"と同じだと考えている。一度動き出せば、ハゲタカのように根こそぎ奪っていく。野蛮でルール無用の連中だ」
アルフレッドは私を背に庇うようにして、警戒態勢をとった。
「ソフィア、奴らには近づくな。店員がシールを貼り始めたら、奴らは魔獣とかわらない。巻き込まれれば、その華奢な体などひとたまりもないぞ」
彼の警告はもっともだ。
かつての戦場でも、正規軍より始末に負えなかったのは、飢えた野盗の群れだった。
彼らは生きるために手段を選ばない。このスーパーという名の戦場において、彼らは最強の略奪者なのだ。
けれど――。
「いいえ、アルフ。私は退きません」
私は一歩、前へと踏み出した。
スーパーの冷気に靡く髪を払い、凛と顔を上げる。
「ソフィア……」
「私は、辺境伯の婚約者として、腕力では彼らに及ばずとも、気迫で負けるようなことだけはありません!」
「……!」
「それに、私たちには守るべきもの(中トロ)があります。ここで引いては、クライスト公爵家の名折れ。……いいえ、我が家の家計に関わります!」
私はドレスの裾をつまむように、ふわりとスカートを広げ(実際はキュロットだが)、優雅に、しかし不敵に微笑んだ。
「見せて差し上げましょう。"山賊"風情に、高貴なる者の戦いぶりというものを」
私の決意に、アルフレッドは一瞬目を見張り、やがてフッと口元を緩めた。
「……そうだったな。君は、ただ守られるだけの令嬢ではなかった。その名を轟かせた"悪女ソフィア"――」
「ふふ、それは昔のことよ。今は、貴方とこの世界で生き延びようと必死にあがく女。けれど、気高き魂はここにあり!」
アルフレッドは私の隣に並び立ち、精肉コーナーを見据えた。
「行くぞソフィア。作戦目標は特級食材(中トロ)の確保。だが、隙あらば、狙うぞ!」
「ええ。前回、手に入れることが出来なかった、最高級食材"Wagyu Beef(和牛)"を!」
「やつらも、狙っているはずだ。慎重に、しかし果敢に動くぞ!」
「了解ですわ!目に物見せてやりましょう!」
その時。
バックヤードの扉が開き、この戦場の支配者――"半額シール"を手にした店員が現れた。
店内のBGMが、私には進軍のラッパのように聞こえた。
「――全軍、突撃!!」
アルフレッドの掛け声と共に、私たちは一歩を踏み出した。
平和な日本のスーパーマーケットで、今、誇りと夕飯を懸けた、壮絶な戦いの火蓋が切って落とされた。
――スーパーからの帰還後。
シャワーで汗を流した私たちは、狭いながらも我が城であるリビングのテーブルを囲んでいた。
そこに並ぶのは、今宵の勝利の証。
「……美しいですわ」
私は箸を持ったまま、目の前の光景にうっとりと見惚れた。
中央に鎮座するのは、鮮やかな桜色をした『中トロの刺身』。
その脇を固めるのは、深緑が目に優しい『ほうれん草の胡麻和え』。
滑らかな純白の『冷奴』、その上には刻みネギと生姜が彩りを添えている。
そして、磯の香りを漂わせる『あさりの味噌汁』と、宝石のように輝く炊きたての『白米』。
完璧な布陣だ。これぞ、東方の島国が誇る食文化の極致"中トロ刺身定食"の形式美。
「さあ、いただこうか。鮮度が落ちては、あの戦いに散った魚たちに申し訳が立たない」
「ええ、いただきます」
私は恭しく刺身を一切れ、箸でつまみ上げた。
小皿に注がれた黒い液体(醤油)に、ほんのりと脂の乗った身を浸す。
表面にぱっと油の華が咲く。
それを、炊きたての白米の上に一度バウンドさせ、口へと運んだ。
「……んっ……!」
舌に乗せた瞬間、体温で脂が溶け出し、濃厚な旨味が口内を蹂躙する。
噛む必要すらない。それは雪解けのように儚く消え、あとには甘美な余韻だけが残る。
すかさず白米を追いかけるように頬張れば、米の甘みと魚の脂が渾然一体となり、脳髄が痺れるほどの多幸感が押し寄せた。
「……見事だ。これほどの食材が、わずか数百円で手に入るとは」
「金貨と交換してもお釣りが来るレベルの味ですわね。……ふふ、苦労した甲斐がありましたわ」
私が微笑みかけると、箸を進めていたアルフレッドの手が、ぴたりと止まった。
彼の表情に、ふっと影が落ちる。
「……すまない、ソフィア」
沈痛な面持ちで、彼は箸を置いた。
「本来であれば、この食卓には『半額和牛』も並ぶはずだった。私の不徳の致すところだ」
「あら、気に病むことはありませんわ。今回は、引き際が肝心だっただけですもの」
そう。私たちは今日、中トロだけは確保した。
しかし、その直後に始まった"和牛争奪戦"においては、敗走を余儀なくされた。
原因は――。
「あの大柄な男――。その腕だけは、異様なほどの筋肉であった。見せかけの筋肉ではない、実践で絞り上げた本物の筋肉。おそらく重い鍋を振るい続けた証。やつが牛肉パックを狙って、異形とも言える腕を、君に向かって鋭くのばした瞬間だ――」
決して、その腕は私を狙った物ではなく、たまたま私に当たりそうになった。それだけのこと。
しかし、アルフレッドの目には、あたかも私が悪漢によって襲われそうな場面に見えたそうだ。
アルフレッドが自身の右手をじっと見つめ、拳を握りしめる。
「私の本能が、彼を"敵"と認識してしまった。あやうく、魔力を込めた不可視の斬撃を放つところだった」
あの瞬間、精肉コーナーの気温が氷点下まで下がったかのような錯覚を覚えた。
周囲の主婦たちが一斉に動きを止め、震え上がったほどの、凄まじい殺気だった。
もし私が「アルフ、撤退です!」と叫んで彼の腕を引き、その場を離脱しなければ――。
スーパー『オオゼキ』は本物の戦場と化していただろう。
「理解しているつもりだが……。君の身に危険がおよぶと感じると、どうにも抑えが効かん」
彼は深く溜息をつき、うなだれた。
「スーパーの買い物ひとつ、まともにこなせんとはな。……私は、未だこの世界に馴染めていないのかもしれない」
その姿は、まるで雨に濡れた大型犬のように小さく見えた。
私は箸を置き、そっと彼の手の上に自分の手を重ねた。
「アルフ。貴方は、自分を責めすぎですわ」
「君を守るための牙が、この平和な世界では君を傷つけるだけの"異物"になり果てて、いつか君に……」
「え?」
「いや。……君に和牛を食べさせてやることができなかったことを悔やんでいる」
今、明らかに、心の内を語った。
アルフレッドにしては珍しい。弱音を吐くなんて。
だから、私はつとめて明るい声で言った。
「ふふ、欲張ってはいけませんわ。見てご覧なさい、この素晴らしい中トロを」
私は空いた手で、卓上の刺身を示した。
「二兎を追う者は一兎をも得ず、という言葉がこの世界にもあります。もし、あそこで無理に和牛を追っていれば、私たちは周囲との無用な軋轢を生み、この平穏な夕飯の時間さえ失っていたかもしれません」
「……ソフィア」
「それに。貴方がそれほどまでに私を案じ、守ろうとしてくれている。その気持ちだけで、最高級の和牛よりも胸がいっぱいになりますわ」
嘘ではない。
かつての世界で、政略と裏切りに満ちた公爵家で育った私にとって、ただ純粋に"私を守る"ために殺気立ってくれる存在が、どれほど愛おしいか。
世界が違っていたとしても、その真摯さは何物にも代えがたい。
「……君は、寛大だな」
「いいえ、計算高いだけですわ。こうして貴方を慰めておけば、次は『ハーゲンダッツ』あたりを買ってもらえるのではないかと」
「っ、ははは! 違いない」
アルフレッドがようやく声を上げて笑った。その顔に、いつもの穏やかな光が戻る。彼は私の手を握り返すと、力強く頷いた。
「分かった。次は必ず、平和的に、かつ迅速に、君の望む甘味を確保しよう」
「ええ、期待していますわ。……さあ、冷めないうちに味噌汁をいただきましょう? このアサリもまた、素晴らしい出汁が出ていますのよ」
「ああ、そうだな」
再び箸を取り、私たちは温かな食事を再開した。
窓の外は夜。遠くで電車の音が聞こえる。かつての栄華も、魔法も、剣もない。
けれど、半額の中トロと、少し不器用な愛しい人がいる。
(……十分すぎますわね)
私は味噌汁を一口啜り、身体の芯まで染み渡る温もりに、ほうっと幸せな息を吐いた。
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Tales Untold
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「……ふぅ。ごちそうさまでした。本当においしかったですわ」
私は空になった茶碗を置き、満足げに微笑んだ。
至福の時間。心もお腹も満たされた。
だが、向かいに座るアルフレッドの表情は、どこか硬かった。
彼は真剣な眼差しで、懐から小さな手鏡と、一冊の手帳を取り出した。
「ソフィア。……『定着率』の確認を」
「……はい」
私の笑顔も、すっと消える。
私はおそる、自分自身の胸に手をあて、探るように魔力の波紋を送り込む。
波紋が、身体の中に染みこんでいき、様々な反響の果てに、この身体から弾き出され、霧散する。
「どうだ? 中トロは、魔力含有量は期待できたはずだが――」
アルフレッドが期待を込めて問う。
私は、一つ呼吸をおく。……そして、小さく首を横に振った。
「いえ。定着は進んでいません。拒絶されます」
部屋の空気が、一気に重くなる。
「……! なぜだ、以前は十分に効果を期待できたというのに!?」
「おそらく、魔力受容体の飽和。あるいは、魔力枯渇による波長縮退。残留魔力による不協反発なども考えられますわ」
「この世界には魔法という技術は無いようだが、魔力は存在する。しかし我々の世界とは波長が違い、上手く馴染まない」
「だから、この世界の食べ物から、この世界の魔力を取り入れて、馴染ませる必要がありますが――」
アルフレッドが手帳を開く。
その手帳には、これまで私たちが試してきた食材のリストが並んでいた。
『特選中トロ刺身』の評価は、"好反応"から"無反応、ただし観察"へと変更された。
私たちの仮説――"この世界の美味なる食事で魔力を補う"という希望は、まだ確信には変わっていない。
「申し訳ありません、アルフ。貴方が命がけで勝ち取ってくれた戦果でしたのに」
「謝るな。……まだだ。まだ、この世界には無数の『食材』がある」
彼は私に近づき、震える私の肩を力強く抱き寄せた。
その温もりだけが、迫りくる死の恐怖を和らげてくれる。
「ラーメン、カレー、寿司、天ぷら……。ここは"飽食の迷宮"だ。必ずあるはずだ。君の魂を繋ぎ止め、満たすことができる"運命の一皿"が」
「ええ……そうですわね。諦めるには、まだ早いですわ」
私たちは顔を見合わせ、頷き合った。
タイムリミットは刻一刻と迫っている。
明日もまた、生き残るために食べなければならない。




