仮面と誓い
翌朝、屋敷の空気は、ぴんと張り詰めていた。
監査官が到着するという知らせは、使用人たちにもすぐに伝わり、準備が進められていた。
日常の忙しさとはまるで違う、重たい“演出”の時間。
セリアは白いドレスを身にまとい、慎重に髪を整えていた。控えめでありながら気品を忘れない、貴族の娘らしい出で立ち。
そしてその隣に――ライグ。
洗いたての上着に袖を通し、乱れた前髪を指で整えていた。
生まれ育った街では粗野な身なりが当たり前だった彼にとって、今の姿は仮面のようにも感じられた。
「……似合ってるわよ、あなた」
セリアがぽつりと漏らしたその言葉に、ライグは少しだけ目を見開いた。
「皮肉じゃなくて?」
「仮にも、私の“共同責任者”でしょう? 体裁くらい整ってないと」
「なるほどな。じゃあ、今日は“旦那”らしく振る舞えばいいのか?」
セリアはそれには返さず、少しだけ頬を赤らめた。
言葉にすれば、すべてが芝居。
でも、芝居の中にしか本音を置けない夜も、あるのだ。
* * *
午前十時。
黒馬に乗った使節が、ヴァルドール邸の前に現れた。
中央から派遣された星結び監査官――ハイリヒ・ドラーゼン。
灰色の外套と、金縁の記録帳を抱えた、冷徹そうな男だった。
「事前連絡なしに申し訳ない。だが、国家制度の信頼性は、抜き打ちによってのみ保たれる」
彼の第一声が、それだった。
セリアは一歩も引かず、礼儀正しく頭を下げた。
「もちろんです。私どもは常に、透明性をもって行動しておりますので」
そして、ライグ。
セリアの隣に立つその姿に、ハイリヒはわずかに目を細めた。
「……おや、貴女の“かつての許婚”が、ここに?」
「はい。事情をご説明します」
セリアはあらかじめ用意していた文書を差し出した。
「彼と私は、星結びの契約を正式に破棄しましたが、その後、彼の家が没落し、彼の妹たちが行き場を失いました。現在、当家での保護と再建を目的として、“共同保護者”としての協力関係を築いております」
「法的な夫婦関係ではない、と?」
「いいえ。便宜上、再び“星結びの元・当事者”という形式を活かし、“再交渉中”という申請を行っております。子供たちの福祉のため、臨時の措置です」
ハイリヒは黙って文書に目を通し、表情一つ変えず頷いた。
「……なるほど。興味深い運用だ。星結びの制度を“人道目的で活かす”というのは前例がほとんどない。だが――」
彼の目が鋭くなる。
「形式よりも、私は実態を重視する。あなた方が“真に共にある”のか、それとも名ばかりの関係なのか。そこを、確認させていただきたい」
その言葉に、セリアの心が一瞬だけ波立った。
それでも、動じないふりをして、そっとライグの手を取った。
「構いません。必要ならば、生活空間も、日々の記録も、すべてお見せします」
ライグが一瞬だけ戸惑ったが、次の瞬間にはその手を握り返した。
「嘘じゃない。俺たちは今、共にある」
その手の温度は、芝居を超えていた。
* * *
監査官が滞在した数時間は、緊張の連続だった。
子供たちの暮らし、教育計画、使用人の証言、生活記録、資金の出処――
あらゆる角度からチェックが入り、ひとつでも矛盾があれば取り上げられる。
そのすべてに対し、セリアは冷静に対応し、ライグは堂々と受け答えをした。
──そして、最後の質問。
ハイリヒは椅子に座ったまま、ふたりを見つめた。
「最後にお聞きします。あなた方は、“将来的に結婚する意思”がありますか?」
空気が止まった。
セリアは目を伏せ、ほんのわずかに言葉を選んだ。
「私たちの関係は、過去に制度によって決められ、失われました。そして今――私たちは、“必要に応じて”再び手を取り合っています。未来をどう定義するかは、誰にも預けられないと思っています」
そして、ライグ。
「俺は……今まで何も選べなかった。だが、もしまた選ぶ日が来るなら――今度は、自分の意思で、選びたい」
ハイリヒは少しだけ目を細めたが、頷いた。
「十分だ。今日の訪問内容は、肯定的に記録する。今のところ、子供たちの環境は“適切”と判断する」
そして、彼は立ち上がった。
「だが忘れないでほしい。あなた方が手を取ったのは、理想ではなく“責任”だ。綺麗事では、守り切れないものがある」
セリアとライグは、無言で頭を下げた。
ハイリヒが去った後。
セリアは長いため息をついた。
「はぁ……一日で三ヶ月分くらい寿命が縮んだわ……」
ライグは、思わず吹き出した。
「けど、やり切っただろ。少なくとも、子供たちは守られた」
「そうね。あなた……よくやったわ、本当に」
セリアは言って、自分でも驚くようなことをした。
ライグの手を、そっと握り返した。
ほんの一瞬。
言葉にしない、誓いのような温度だけを交わして――
その日、ふたりは、初めて“自分の意思で”、同じ方向を見つめたのだった。