星のない夜に
夜。屋敷の裏庭にある小さな倉庫には、まだわずかに灯りが残っていた。
ライグは一人、土埃まみれの床に膝をつき、古びた木箱を運び出していた。昼間に比べれば涼しくなったとはいえ、汗はとめどなく流れ、背中のシャツにじっとりと染みていた。
「本当に……真面目になったのね、あなた」
ふいに背後から声がして、ライグは動きを止めた。
振り返ると、ランタンを手にしたセリアが、控えめな笑みを浮かべていた。
「昔のあなたなら、途中で逃げてたでしょ」
「……まあな。俺自身が、何かの“役目”から逃げてたんだと思う」
セリアはその言葉を、黙って受け止めた。
数日間の共同作業の中で、彼は確かに変わり始めていた。荒れた手、筋肉痛を隠さない動き、そして無言で黙々と作業を進める姿勢。
貴族の娘であるセリアにとって、それはとても“泥臭くて、地に足の着いた努力”に見えた。
「あなたが……もしも昔、こうだったら」
ぽつりとつぶやいたその声に、ライグが小さく反応する。
「何か、変わってた?」
「分からない。たぶん、私の方も、変わらなきゃいけなかったんでしょうね」
静かな空気が、二人の間に流れた。
* * *
その夜遅く。
セリアの部屋に、使用人が慌てて駆け込んできた。
「お嬢様! 子供たちのことで――領都の“星結び監査官”が急遽、訪問されると!」
「……なんですって?」
星結び監査官。
それは、国家が定める婚約制度「星結び」の管理と、血統の記録を行う権限を持つ人物だった。
没落した家の子供たち――特に、女児――が保護される場合、「誰が保護しているのか」「その家の意図は何か」が厳しく問われる。
監査官の報告ひとつで、子供たちは“管理不適格”として、孤児院や労働施設へ送られる可能性すらある。
「まずいわね……これは完全に、牽制よ」
セリアの目が鋭くなる。
「“誰か”が、私たちの動きに目をつけたってことね。保護している子供たちを、正式に“家族”として受け入れていない以上、言いがかりはつけ放題よ」
「じゃあ、どうする……?」
ライグが問いかけたとき、セリアは迷わず言った。
「演じましょう、“私たち”の理想の形を。完璧な共同保護者を。少しの嘘と、少しの演技で、子供たちを守り抜くの」
ライグの眉が上がる。
「つまり……俺たちは、偽りの“夫婦”ってことか?」
「偽りじゃないわ。“かつて婚約した者同士が、子供たちの未来のために協力している”。それは、あなたが選び、私が承諾した現実よ。堂々としていなさい」
セリアの声には、力がこもっていた。
彼女自身、この提案に心のどこかで躊躇がなかったわけではない。
けれど――今、子供たちの未来を守るためにできる最良の手段は、ただ一つ。
“共に立つ”ことだった。
* * *
その夜、セリアは久しぶりに眠れなかった。
ベッドに横たわりながら、星結びのことを思い出していた。
生まれたときから“誰と結ばれるべきか”を国家が決める制度。
それが貴族社会の礎であり、血統の保証であり、女児たちは生まれた瞬間から「誰かの妻になるための存在」として数値化される。
ずっと嫌だった。
何度、帳簿を見ながら「これは人間の扱いじゃない」と思ったか分からない。
けれど、今。
その制度の外で、「自分の意思で手を取り合おうとする」男と出会い直してしまった。
それが“かつての許婚”であるという皮肉とともに――
彼女は目を閉じる。
その夜、空には星がひとつも見えなかった。
だがそれは、むしろ良かったのかもしれない。
誰に決められたでもない、自分の道を見つけるには――
星のない夜のほうが、きっとふさわしい。