始まりの部屋
朝の陽が差し込む小さな部屋の中。
まだ眠そうに目をこする末の妹を抱き上げながら、ミナがテーブルに朝食を並べていた。
パンとスープ、それから甘く煮た果実のコンポート。ヴァルドール邸で用意された朝食は、彼女たちがかつて知っていたどんなごちそうよりも贅沢で、最初の頃は手をつけるのにも躊躇していた。
けれど、今では少しだけ慣れてきた。食べ物に感謝しながらも、警戒心なく笑えるようになった。ミナはそんな妹たちの姿を見て、何度も胸を撫で下ろしていた。
その日は、少し特別だった。
「……お兄ちゃんが、来てるの?」
ミナがセリアにそう尋ねたのは、朝食の片付けをしていたときだった。
セリアは、テーブルクロスを畳みながら小さく頷いた。
「昨夜、来たわ。あなたたちのことを心配して、迎えに来たのよ」
「ほんとに……?」
ミナの大きな瞳が潤む。
「お兄ちゃん、ずっと帰ってこなかったの。誰に聞いても、どこにいるか分からなくて……夢みたい……」
セリアは少し躊躇ったが、ミナの頭をそっと撫でた。
「今はもう、大丈夫よ。彼はちゃんと戻ってきた」
ミナは泣きそうな顔をして、それでも一生懸命笑おうとした。
* * *
一方、セリアとライグは別室で向かい合っていた。
そこは、ヴァルドール家の「客用応接室」の中でも、ひときわ古びた部屋。
昔は賓客を通す部屋だったが、今はほとんど使われておらず、家具も少し埃を被っていた。だがセリアは、なぜかこの場所を選んだ。
人目を避け、余計な格式も感じずに話せる場所が――この部屋だった。
「……それで、これからどうするつもりなの?」
セリアが尋ねると、ライグは迷いなく答えた。
「働く。都市の鍛冶場でもいいし、配送隊でも構わない。妹たちを養う金を稼ぐ」
「……まさか、それだけで何とかなると思ってるの?」
「思ってない。でも、何かを始めないと、何も変わらない」
その言葉に、セリアは小さく溜息をついた。
「あなた、まだ現実が分かってないわね。子供たちは住む場所も、教育も、医療も必要なのよ。しかも女の子ばかり。安全も確保しなきゃいけない」
「……じゃあ、どうすればいい?」
ライグが問う。
セリアは迷わず答えた。
「一緒にやるのよ。“一時的に”でも。私は、あなたたちに居場所を作る。あなたはそこで“自分の力で”生きてみせる。それができるなら、私は本気で動いてあげるわ」
ライグは目を細めた。
「まるで、条件付きの共同経営みたいだな」
「その通りよ。これは慈善じゃないし、情けでもない。対等な協力関係よ。分かってる?」
「……分かった。乗った」
ライグのその一言に、セリアはほとんど呆れるように笑った。
「信じられないくらい、行き当たりばったりね、あなたって」
「お前が、きっちり管理してくれるだろ?」
その何気ない一言に、セリアは一瞬、返す言葉を失った。
そんなふうに、自然に「お前」と呼ばれたのは、初めてだった。
昔の彼は、どこか常に距離を保っていた。名前を呼ぶのもぎこちなく、目を合わせることさえままならなかった。
なのに、今の彼は――
「……調子に乗らないで。私はまだ、あなたのこと“許してない”んだから」
ぷいとそっぽを向くと、ライグが小さく笑った。
「分かってる。俺のこと、嫌いなんだろ?」
「嫌いよ」
即答するセリアの声は、なぜか少しだけ震えていた。
──あの頃と同じ言葉。
けれど、その意味は、少しだけ違っていた。
* * *
その日の午後。
セリアは、屋敷の一角にある使われていない倉庫を案内していた。
「ここを改装して、子供たちのための教室と、あなたの作業場にするつもり。家具は余ってるものを再利用すればいい。あなたにはまず、庭の整備と倉庫の片付けを任せるわ」
「……つまり、俺は屋敷の下働きか?」
「正しくは“共同計画の下地作り”よ。ほら、動いて。あなたの体力を見込んでるの、私」
「ひどい言い方だな……」
ライグは苦笑しながら、倉庫の扉を開いた。
古びた木の香りと、積もった埃。そして、まだ何もない空間。
けれどそこには、確かな「始まり」の匂いがあった。
誰かを守るために、自分の手で何かを作り出すという始まり。
そしてそれは、かつての「星結び」とは違う、“自分の意思で選んだ”協力関係のはじまりでもあった。