帰ってきた男
「久しぶりだな、セリア」
その声を聞いたとたん、時間が逆戻りしたかのような錯覚に襲われた。
振り向いたセリアの目に映ったのは――
かつて婚約者だった男、ライグ・エルファーン。
だが、そこに立つ彼は、セリアの記憶にある少年とはまるで違っていた。
高く伸びた背は変わらない。けれど、その体つきは痩せていて、骨ばって見える。頬はこけ、顎には無精髭が目立ち、着ている外套はほつれていた。
だが、その目だけは変わらなかった。
あのときと同じ、強い感情を押し殺すような、まっすぐな眼差し。
「……どうやって、ここへ?」
セリアは問いかけながらも、すぐに口をつぐんだ。
こんな時間に、こんな姿で、護衛を掻い潜って屋敷の中へ入るには、それなりの覚悟と理由があったはずだ。
彼は、その問いに答えなかった。ただ一歩、彼女に近づいて――深く頭を下げた。
「……ありがとう。妹たちを助けてくれて」
その低く、震えを抑えた声に、セリアは言葉を失った。
「ずっと探してた。でも、俺一人じゃ……どうにもならなくて」
頭を上げたライグの目は、どこか迷子のようだった。
「生きてるかどうかさえ、分からなかった」
「……あなたが、いなくなったからよ」
セリアの声は、思ったよりも冷たかった。
「婚約が解消されて、家も失って……私はそれきり、あなたの消息なんて聞かなかった。勝手にいなくなって、妹たちを残して、今さら何を言いに来たの?」
ライグは、黙ってその非難を受け止めた。言い訳をするでもなく、否定するでもなく。
「……あのとき、俺にできることは何もなかった」
「今もそうでしょう」
思わず口を突いて出た言葉に、自分でも驚いた。どこか怒っていたのかもしれない。ライグが、姿を消したことに。彼のせいではないと頭では分かっていても、心が納得していなかった。
「私はね、あなたを恨んでいたの」
声が震えていた。
「子供のころから、星結びなんてバカげた制度に縛られて、未来を勝手に決められて、あなたに会うたびに、もっと自由な相手がいたはずなのにって思ってた」
「……そうだな。俺も、似たようなことを思ってた」
思いがけない言葉に、セリアは息をのんだ。
「貴族の令嬢と、辺境の少年じゃ、見合わないって。自分じゃ、到底届かないって。……だから、俺も逃げてた。お互い、似たようなもんだったんだな」
その自嘲的な笑みに、セリアは何も言えなかった。
沈黙が、ふたりの間に降りた。
やがて、ライグが口を開く。
「俺は、妹たちを迎えに来た。元の領地はもうない。けれど、あの子たちをこのまま貴族の家に預け続けるのは、違うと思った」
「そう……」
セリアは一瞬、躊躇した。彼の言葉は正しい。けれど、それはあまりにも無謀だった。
「でも……今のあなたに、彼女たちを養えるの?」
「分からない。でも、逃げるのはもう終わりにしたい」
ライグの目には、迷いがなかった。
それを見て、セリアの胸の奥で何かが揺れた。
──昔、どこか情けなく見えた男が、今ここで、何かを変えようとしている。
無鉄砲で、無謀で、愚かしいかもしれない。
でもそこには、まっすぐな覚悟があった。
「……あなた、一人でどうにかなると思ってるの?」
静かに問いかけると、ライグは苦笑した。
「無理だろうな。だから……できれば、力を貸してほしい。俺だけじゃ足りない。けど、セリアなら……きっと何かを変えられる」
セリアは眉をひそめた。
「私、まだあなたのこと許してないのよ」
「知ってる」
「あなたの妹たちを預かったのは、あなたのためじゃない」
「分かってる」
「それに……一緒に何かするって言ったって、今さら“元婚約者”と?」
「それでもいい」
言い切った声に、セリアは呆れたように息をついた。
──ほんと、昔からこの男は、変に頑固で、変にまっすぐだ。
星結びなんて、バカらしいと思っていた。
運命なんて、信じていなかった。
けれど。
「……あの子たちのためなら、少しだけ。ほんの少しだけ、手を貸してあげてもいいわ」
セリアはそう告げて、ライグの前を通り過ぎる。
「でも、次に会うときは……ちゃんとした服を着てきなさい。子供たちの前で恥ずかしくないように」
背を向けたまま言った彼女の顔には、怒ったような、照れたような、なんとも形容しがたい表情が浮かんでいた。
ライグは小さく頷いた。
「……分かった。ありがとう、セリア」
その声は、風に乗って、夜の庭に消えていった。