星が選んだもの
セリア・ヴァルドールが「婚約者」という言葉を初めて意識したのは、九つの誕生日を迎える少し前だった。
ヴァルドール侯爵家の広い書斎に呼び出され、いつになく真面目な顔をした父と母の前に座らされたとき、彼女は何か悪いことでもしたのかと内心で身構えた。
「セリア、あなたには“星結び”があるのよ」
母がそう告げた瞬間、彼女は何のことかまったく分からなかった。
けれど、そのあとに父が口にした言葉で、すべてが形になった。
「お前には、すでに婚約者がいる。お前が二歳のとき、星読みの結果で決まった相手だ」
セリアの小さな心に、冷たい水が注ぎ込まれたような感覚が広がった。
「え……婚約? 誰と?」
「ライグ・エルファーン男爵家の嫡男だ。お前より三歳年上だが、相性はこの百年でもっとも良いと出た。……誇っていいことだぞ」
誇っていい?
セリアには理解できなかった。
まだ見たことも話したこともない、辺境の子どもと「相性がいい」からといって、どうして人生を決められなければならないのか。
しかもエルファーン家といえば、帝都から遠く離れた寒村にある小領主の家柄。名門でもなければ、財力もなく、聞いたことがあるような功績もない。
「やだ、絶対にいや。知らない人と結婚なんてしない!」
セリアは泣きながら叫んだ。
だが両親は困ったように顔を見合わせるだけで、その決定を覆す様子はなかった。
──その日から、セリアの中で“星”というものは、美しくも信頼できない存在となった。
* * *
初めてライグに会ったのは、それから半年後だった。
まだ幼いながらも、セリアはすでに貴族の子女としての誇りを持っていた。礼儀作法、舞踏、詩文、天文学にいたるまで、帝都の教師たちにしごかれながら育った彼女にとって、「辺境の子」と聞くだけで、期待値は地に落ちていた。
そして、その予感は裏切られなかった。
ライグ・エルファーンは、背が高く、無口で、どこか所在なさげに立っていた。服装もどこか地味で、帝都の子たちと比べて洗練されているとは言い難い。髪は無造作に刈られ、日焼けした肌に土の匂いが染みついている。
「……はじめまして、ライグです」
ぎこちない挨拶と、目を合わせようとしない態度。声も小さく、自信がないのが手に取るようにわかる。
セリアは口をつぐみ、そのまま一言も返さなかった。
それ以降も、何度か顔を合わせる機会があったが、印象は変わらなかった。
無口で、無愛想で、やぼったい。
それが、セリアにとってのライグだった。
そして、年を重ねるにつれて、彼女の中で「婚約者」という存在は、ただの重荷と化していった。
「どうして私が、あんな人と……?」
内心で何度も繰り返した言葉だった。
美しく聡明なセリアには、帝都中から求婚の声が届く。大商会の嫡男、中央騎士団の若き騎士、詩人貴族の三男――だれもが魅力的で、未来に可能性を感じさせる青年たちだった。
それなのに、自分には“星の縁”という鎖が巻かれている。
自由に選べない。自分の意志が通らない。
「運命なんて、星なんて、くだらない」
彼女はいつしか、そう信じるようになっていた。
──だから。
あの報せを聞いたとき、胸の奥に火が灯るのを感じたのだ。
「……エルファーン家が没落?」
それは、彼女が十九歳を迎える数日前のことだった。
父が重々しい顔で語ったのは、エルファーン家の不祥事。ライグの父が地方で反乱貴族と通じていた嫌疑を受け、爵位と領地を剥奪されたという。
すべての名誉が失われ、家は解体され、婚約も――当然、無効となった。
「そっ……か。じゃあ、これで……」
セリアはその場で何も言えなかった。
喜ぶべきことだ。自由になれるのだから。
だが、心はなぜか――奇妙なほど静かだった。
喜びも、怒りも、憤りもない。
ただ、心の中にぽっかりと空いた穴が、風の音を鳴らしていた。