フォン・ブルナー
二日後、私達はパドヴァのフォン・ブルナーの事務所に向った。高速道路を降りてパドヴァ郊外の田園の中をしばらく走ると道路の右側に運河が現れ、その対岸でヴェネツィア貴族の別荘が、まるで競い合うように壮麗な正面と趣向を凝らした庭園を披露し始めた。
私は車道の両側に並ぶヴィラの華麗な小塔や柱廊が張り出した豪奢な玄関をぼんやりと眺めながら、ヴェネツィア―パドヴァ間を繋ぐ運河はヴェネツィア貴族のヴィラが散在することで有名で、ヴィラを巡る運河下りツアーもあると、昔何かで読んだ事をふと思い出した。
こんな密命がなければ、さぞ楽しいドライブになったことだろう――そう思って私は溜息をついた。
残念ながら今の私達には車を停め、これらの美しいヴィラを愛でる時間はない。
予め電話でガリエラ通りの着工前にエレベータを見ておきたいとフォン・ブルナーに伝えると、卸売業者は大喜びで私達の訪問を歓迎した。私達の作戦では、まず私達がエレベータを買う気満々であるように見せかけてフォン・ブルナーのご機嫌を取ったところで、メールを渡して貰うように頼むつもりだった。
何としても問題のメールを手に入れなければならない。
トーニとの通話の録音からこの卸売業者が一筋縄ではいかぬ曲者であることは明らかだったので、私はバッグにレコーダーを忍ばせるほどの用意周到ぶりだった。
カーナビに導かれて静かな住宅街に車を進めた私達は、庭付き一軒家が並ぶだだっ広い通りに車を停めた。
フォン・ブルナーのオフィスのある建物は、オフィスと言うよりごく普通の民家だった。
門のベルを鳴らすと、栗色のダックスフンドが広い庭に面した出窓に飛び出してきてキャンキャンと吼え始めた。
事務員らしい太った中年女性が扉を開けて私達を招きいれた。
民家の一部を事務所に使っているらしく、如何にも郊外の邸宅らしい造りの玄関ホールの壁に様々なモデルのエレベータの写真や設計図が飾られていた。
フォン・ブルナーは熱心な腕時計の収集家と見えて、何百と言う腕時計の入ったガラスケースが壁際に置かれていた。
フォン・ブルナーは奥で電話中のようだ。中年女性が満面の笑みを浮かべて私達にカップチーノをふるまった。やがて、卸売業者の電話が終わり、私達は奥の書斎に案内された。
フォン・ブルナーの書斎は何処も彼処も書類で溢れかえっていた。
壁際の書棚にはぎっしりとファイルが押し込まれ、三台ある書き物机は一寸の隙もない程、書類が山積みされていた。出窓を背にした安楽椅子に先ほどの犬が、長い耳を左右にだらしなく広げて寝そべり、大儀そうにこちらを見ていた。
フォン・ブルナーは八十を軽く越えていそうな老人だった。
卸売業者は上機嫌で私達を歓迎し、エレベータの設計図を見せながら製品の説明を始めた。彼の秘書も兼ねているらしい建築家の卵と言う生真面目な若い女の子が、老人が一言喋る度に口を挟み、彼の説明を建築学的観点から補足した。
私達は事前に示し合わせた通り、如何にも関心がある風を装い、熱心に聞き入った。
ようやくエレベータの長い説明が終わり、どうでもいい世間話をした後でロメオがいよいよ本題に入った。
「実は、今日貴方を訪問したのには、もうひとつ訳があるんです」
そう言ってロメオは私を見た。私は先を促すように黙って頷いた。
ロメオは意を決し、核心に踏み込んだ。
「実は、我々はガリエラ通りの建物の工事請負競争入札で不正が行われた事を知りました。貴方は入札書提出期限の翌日、昨年に十二月二十三日には、入札書の内容を詳しく知っていたそうですね?」
フォン・ブルナーはようやく自分の置かれた立場を理解したようだった。
それまでの満面の笑みがすっと引き、罠にかかったイタチのような顔つきになった。
「ああ、トーニですね。彼から聞いたんですね?
最初から気に食わなかったんだ。よりによって貴方方に喋るなんて。
貴方方は彼に工事を請け負わせるつもりですか?」
「それは、まだ決めていません」
ロメオは用心深く答えた。
「貴方が十二月の時点でトーニ建設会社の見積額を知っていたのは事実なんですね?」
「トーニって誰ですか?一体何の話をしているんですか?」
それまでしたり顔でいちいち口を挟んでいた建築家の女の子は話の急展開に混乱していた。
「確かに私は十二月二十三日に入札に参加した全ての会社の見積額を知りました」
フォン・ブルナーは意味ありげな笑みを浮かべて肯定した。
「誰から聞いたんですか?グリエルモ建築家ですか?」
「そうです――いや、正確には彼の友人から聞きました」
「友人とは誰ですか?」
「それは、残念ながら言えません。
私に言える事は、入札書は二十二日に開封され、翌日には皆が入札書の内容を知っていたと言う事だけです」
「皆とは、誰ですか?」
今度は私が訪ねた。
「建築家と建設会社と、それから何とかと言う女会計士ですよ」
「マリアンナ・コソットですか?」
「さて、そういう名前なんですか?私は彼女と直接話したことはないので、名前は知りません。でもその女もグルだと言うのは聞いています」
「これは明らかに詐欺です。そうは思いませんか?」
ロメオは厳しい口調で言った。
「勿論、疑う余地もなくこれは詐欺です。
しかし、私は貴方方が何故私にこだわるのか判らない。
私はこの一件には関係ないし、面倒に巻き込まれるのもごめんです。
私にとって重要なのは、エレベータを一台でも多く売る事だけです。今日、貴方のために時間を割いたのは、エレベータが売れると思ったからですよ。
いやはや、すっかりしてやられました」
フォン・ブルナーは恨めしそうにロメオを睨んだ。
「でも、貴方はメールを受け取りましたね?
トーニ建設会社を中傷する文書に署名して欲しいという――」
フォン・ブルナーはますます抜け目のない顔になった。
「さて、そんな内容のメールを受け取ったかもしれないし、受け取らなかったかもしれない。
何しろ、私は毎日百通以上のメールを受け取るんです。いちいちメールの内容を覚えていませんよ」
フォン・ブルナーはやんわりとした調子でとぼけると、ずるそうな笑みを浮かべた。
「メールって何ですか?一体何の話をしているんですか?メールって何の事ですか?」
すっかり置いていかれてしまった若い建築家がイライラして質問を繰り返したが、誰一人、彼女の言葉に耳を貸す者はなかった。
私達は、お互いに一歩も引かずに睨み合い、緊迫した空気が流れた。
フォン・ブルナーは明らかに動揺していたが、それでも鷹揚な微笑みを絶やさなかった。
――想像以上の狸親爺だ。
私は心の中でそう思った。
しかしここで引き下がる訳には行かない。
「でも、貴方はトーニさんにメールの差出人はグリエルモ建築事務所だと、はっきり言いましたよね?」
「あのお喋り男が!」
フォン・ブルナーが悪態をついた。
「やはり、グリエルモ建築家が差出人なんですね?」
「――そうだったかも知れません。何しろ年末で忙しい時期でしたから、よく覚えていないのです」
「では、そう言うメールを受け取ったことは認めるんですね?」
私は鋭く突っ込んだ。
「ああ、そうでした。そんなメールがありました。でも私はその話に乗らなかった。署名はきっぱり断りました。前にも言ったように、私の目的はエレベータを売る事です。そんな厄介事に関わるのは嫌ですし、私はこうした不正には反対ですからね」
フォン・ブルナーは相変わらず柔和な、偽善的にさえ見える微笑を浮かべながら言った。
「貴方がグリエルモ建築家からメールを受け取ったことを我々の弁護士に証言して頂けますか?」
弁護士と聞いてフォン・ブルナーの表情は硬くなった。
「まさか、建築家を訴えるつもりじゃないでしょうね?」
「いえ、そんなつもりはありません。ただ建築家との契約は解消するつもりです。グリエルモ建築家は法外な違約金を請求してきていますので、彼等が契約を破棄されても当然な不正を働いたという証拠が必要なのです」
「私は、不正には反対ですから、必要なら事実を証言します。ただし、それは法廷で裁判官に尋問された場合に限ります。裁判所から証人として正式に召喚されるまで、私は誰の前でも証言しませんし、勿論、証言書に署名するつもりもありません」
老人は頑として譲らなかった。
「私はごたごたに巻き込まれるのは嫌なんですよ。今回の件は確かに卑劣な陰謀です。
しかし、グリエルモ建築事務所は私の大切な顧客なんですよ。私の立場も分かって頂きたい。もし法廷の証人台に立たねばならなくなったら、宣誓する以上、私は真実を述べます。
トーニ氏の軽率さのために、貴方方に押しかけられた私の身にもなって下さい。
私は何も悪い事はしてないんですよ。グリエルモ建築事務所の申し出をきっぱり断ったんですから」
ロメオは戦法を変えた。
「良く判りました。貴方にとって顧客との人間関係が大切なのは判りますから無理に証言してくれとは言いません。ただしひとつ重大なお願いがあるのです。例のメールのコピーを是非、頂きたいのです」
フォン・ブルナーはニヤニヤ笑った。
「それは無理ですよ」
それから又押し問答が続いた。フォン・ブルナーはやはり一筋縄ではいかない老獪な狸親爺だった。しかし、私達もここまで来て手ぶらでは帰るわけには行かなかった。私達はまるまる一日かけて粘りに粘った。そして、ロメオがガリエラ通りの他にバルベリア通りにもアパートメントを持っており、いずれ大掛かりな修復工事をするつもりであることを示唆すると老人の態度が変わった。
抜け目のないフォン・ブルナーは、ロメオの機嫌を取れば、エレベータが二台売れると見込んだのだろう。ぶつぶつ言いながらも、最終的には問題のメールを探し出して印刷してくれた。
私達はこの戦利品を手に意気揚々とボローニャに戻った。
そして、この貴重なメールによって私達の形勢は逆転した。メールの存在をチラつかせると、小グリエルモは違約金請求を取り下げる代わりに、全てを内密にして欲しいと、違約金を請求してきた時の剣幕が嘘のようなしおらしさで和解を求めてきた。
父親が一代で築き上げたグリエルモ建築事務所の威光と名声をこんなことで傷つける訳にはいかないと判断したのだろう。チェザリーニは悔しがったが、建築家の小グリエルモが降りると言うのでは仕方がない。渋々、契約解除に応じた。
こうして、マリアンナ、チェザリーニ/小グリエルモ、建設会社を巻き込んだ競争入札を巡る詐欺は失敗に終わった。
オクタヴィアの回りに張り巡らされた陰謀の網は、彼女に触れることなく消滅したのだ。




