ロンディーニ婆さんの話
ロンディーニ婆さんとの約束まで、まだ時間があったので、オクタヴィアの考えで、バルベリア通りのアパートメントに行ってみることにした。
オクタヴィアはロレンツォの専属会計士アンジョーニに何とか話を聞きたいと思っていた。
アンジョーニ会計士の住居の入口は三階と四階の間の踊り場にあった。
すりガラス張りの扉を通して陽光が燦々と階段に降り注いでいる。
オクタヴィアは入口のベルを押した。
返事はない。
オクタヴィアはもう一度、今度は少し長めにベルを押した。
相変わらず返答はない。
「いないのかな?」
私は不安げに言った。
「そんなはずないよ」
今度はロメオが、かなり長くベルを押した。ブブブーという機械的な音が廊下中に響き渡った。
「あんた達、何してるんだい?」
三階のアパートメントの扉が開いて、小柄な老婆が出てきた。
「誰だい?あんた達は」」
老女は胡散臭そうに私達の顔を眺めた。
七十前後に見える老婆はドングリの様にずんぐりむっくりしていて、すぐに染髪と分かる漆黒のショートヘアが頭に貼りついていた。
「僕達はロレンツォ・アンジェリの親戚です。アンジョーニさんにお会いしたいのですが」
ロメオが丁寧な口調で言った。
「教授は誰にも会いませんよ」
ロレンツォの親戚と聞いて老婆の言葉遣いが丁寧になった。
『教授』と言うのはアンジョーニの呼び名らしい。
「でも、中にいらっしゃるんですよね?」
オクタヴィアが尋ねた。
「いますけど、誰にも会いませんよ。
そんなにベルを鳴らしても無駄ですよ」
老婆はそう言ってじっとオクタヴィアを見つめていたが、やがて、ずるそうな笑いを口元に浮かべた。
「分かりましたよ。貴女が誰か。
はあ、それじゃあ貴女が私達の新しい大家さんになりなさるんだねえ」
オクタヴィアはどう返答すべきか戸惑って黙った。
「ロレンツォをよくご存知だったんですか?」
ロメオが尋ねた。
「知ってるも何も、あんないい人はいませんでしたよ。
ここの住民は皆、あの人が大好きでした。少々変わり者で、家の中で動物をいっぱい飼って、不衛生なところはありましたけどねえ。
それでも、あの人から受けた恩恵を考えれば文句なんか言えませんよう。
最後の方は、鬱がひどくてねえ。お風呂にも入らず、食事も取らないで閉じ篭っていたんですよ。それで私が毎日、食事を上の住居に届けてたんですよ」
老婆は恩着せがましくニヤニヤしながらそう言うと、家の中を振り返って
「あんた、ちょっと来てごらんよ。エンジニアの娘さんがいらしたよ。本当によく似てなさる」
と夫を呼んだ。エンジニアとはロレンツォの呼び名である。
老婆と同じようにずんぐりむっくりの、気難しそうな老人が出てきて、ニコリともせずに挨拶した。
「私達夫婦はここにもう四十年以上も住んでるんですよ。
だから、このままここに骨を埋めたいと思ってるんですよ。ねえ、ずっとここにおいて貰えますよねえ?」
老婆は卑屈な笑いを浮かべて上目遣いで舐めるようにオクタヴィアを見た。
「アパートメントの事は全て財産管理人に任せてあります」
返答に困ったオクタヴィアはこう言うと、粘着剤のようにべったりと縋ってきそうなこの老婆を振り切るように短い別れの挨拶を告げ、逃げるようにして建物を出た。
それから私達はカフェで簡単な昼食を取り、サン・マモロ通りの集団住宅に向った。
ロンディーニ婆さんはサン・マモロの旧僧院の、二階の長い廊下の突き当たりにある部屋に住んでいた。
付添婦らしい中年女がいかにも僧庵らしい小さな木の扉を開け、私達を部屋の中に招き入れた。
猫の額ほどの小さなキッチンが付いた居間は小さかったが古井戸のある中庭に面し、大層日当たりが良かった。
三方の壁に置かれた箪笥や棚には、手紙の束やら写真、それに小物類がこぼれ落ちそうなほど詰め込まれ、部屋の隅に置かれた古い石油ストーブの上で鉄のやかんがシューシュー音を立てていた。
ロンディーニ婆さんは窓を背に椅子に縮こまるように座っていた。髪も顔も雪のように真っ白で、歯のない口元が窄まった姿は九十歳を超えているように見えたが、灰色がかった青い目の怜悧な輝きが、頭はしっかりしている事を物語っていた。
「すみません。皆でおしかけて」
ロメオが謝った。
「いいんだよ。エンジニアの縁の人と話ができるのは嬉しい事だよ」
ロンディーニ婆さんはしっかりした口調で言った。
「貴女の所にも立ち退き命令の通達が届いたんですよね?」
オクタヴィアが心配そうに尋ねた。
「そうだよ。十月に届いた。でもねえ、私のような病気の年寄りは国の公団住宅に入れてもらえるそうだよ」
「万が一、公団住宅が駄目になったら、わたしに言ってくださいね。バルベリア通りの小さな住居をご提供します」
オクタヴィアは優しく言った。
ロンディーニ婆さんは眩しそうにオクタヴィアを仰ぎ見た。
「私を置いて下さると言いなさるんかねえ。
それは嬉しいことだねえ。公団住宅が駄目になったら奥様を頼ってもいいのかえ?」
「勿論です。遠慮なく言って下さい。それで、ここにはいつまで居られるんですか?」
「そりゃあ、あと一年はおれるそうだよ」
「そうですか――」
オクタヴィアはホッとしたように言った。
「ここの住民が証人になって、カロリーナ・オルランディと言う人が遺産分割協議無効の申立をしている事はご存知ですか?」
ナーディアが弁護士らしく鞄から手帳を取り出すと、早速きびきびと質問を始めた。
「ああ。知ってるよ。エライ騒ぎになってるねえ。ここにも署名してくれと来たけれどきっぱり断ってやったよ。私は揉め事が嫌いだからねえ」
「では今日、わたし達が貴女に会いに来た事は、他の住民には黙っていて頂けますね?」
オクタヴィアが言った。
「そりゃあ、言いやしないよ。私はあの連中は嫌いだ」
ロンディーニ婆さんは青い瞳をキラキラさせながら怒ったように言った。
「貴女は何時からこのサン・マモロに住んでおられるんですか?」
ナーディアが質問を続けた。
「さてねえ。私がここに来たのはまだ二十歳の娘の頃だったんだよ」
ロンディーニ婆さんは歯のない口でクックッと笑った。
「だから、もう七十年近くになるんだねえ」
ロンディーニ婆さんは感慨深げだった。
「それでは、ジュゼッペ・アンジェリ氏と女中のビアンカの間にマリアと言う私生児が生まれた時のことを覚えていますか?」
「勿論、知ってるよ。ここの古い住民は皆知ってる」
「では、マリアは本当にジュゼッペ・アンジェリの娘なんですね?」
ロメオが口を挟んだ。
「そうだよ」
「貴女はこのことを誰からお聞きになったんですか?」
ナーディアは質問しながらさらさらとペンを走らせた。
「ルイーザだよ」
「ルイーザ?」
「バルベリア通りのアンジェリのお屋敷で女中をしてたルイーザだよ」
「ルイーザ・デ・サントさんですか?」
私は遺言状に出てきた女中がそんな名前だったことを思い出して、こう尋ねてみた。
「そうそう、ルイーザ・デ・サントだよ。
彼女はアンジェリ家の全ての内情に通じてたからねえ。大変なお喋り好きで毎日、ここサン・マモロにやって来てはそんな話をぺちゃくちゃ喋りまくっていたよ」
なるほど、どうやらこの女中のルイーザがかわら版のような役割を果たしていた訳だ。
「ジュゼッペ・アンジェリはどんな人だったんですか?」
今度はロメオが尋ねた。
「烈火のような人だった。独裁的で頑固な人でねえ、弁護士だったけどねえ。
エンジニアはジュゼッペさんの言いなりで、いつも父親の後ろにいつも隠れるようにしてついて来てたよ。
ジュゼッペさんが息子のすべてを支配していたからねえ。エンジニアは虫も殺さんような大人しい人だったけれど、ジュゼッペさんは何でも思い通りにならないとすぐに癇癪を起こしたと、ルイーザは言ってたよ。
息子も奥様もジュゼッペさんには反抗出来なかったようだねえ。それに、女癖がえらく悪くてあっちにもこっちにも愛人がいたそうだよ」
私達は呆れて言葉を失った。
「ピアンカだけじゃなかったんですか?」
ロメオが訊く。
「いやいや、他にも何人もいたそうだよ。奥様はいつも泣いてたそうだ。早死にしたのも、そんな苦労が祟ったんじゃないのかねえ。
当時のアンジェリ家はボローニャ中に土地や建物をたくさん持っていて、ジュゼッペさんは大変な資産家だったからねえ。
このサン・マモロでも、家賃が払えない貧しい店子には、お金の代わりに身体で払わせていたって噂もあるぐらいだよ」
「本当にそんな破廉恥な事をしてたんですか?」
ロメオは嫌悪感を露わに尋ねた。
「二十年代は世界恐慌とファシズムの台頭、三十年代は第二次大戦の勃発と暗い時代が続いていたから、貧困に喘ぐ人々は生きていく為にそうやって金持ちの情にすがるしかなかったのよ」
ナーディアがしみじみと言った。
「それで、マリア・オルランディの事を教えて下さい。貴女は彼女をご存知だったんですね?」
ナーディアが質問を再開した。
「勿論だよ。ここに住んでいたからねえ。
マリアは狂女で、何度も病院送りになっていたよ。身持ちの悪い女で、ゴロツキのような男達との間に娘が二人生まれたんだよ」
「二人?」
「そうだよ。父親は違うがねえ。それも何処の誰かも分からんような男だよ。
最初の娘は生まれて直ぐ養女に出されたそうだよ」
「では、カロリーナ・オルランディは妹の方ですね?」
「そうだよ。カロリーナはしばらくここに住んでいたかねえ」
「カロリーナの姉はどうなったかご存知ですか?」
「さてねえ。養女に出たきりその後の消息は誰も知らないよ。母親があんな女じゃあ、すっかり縁を切ってしまったほうがよかったんだろうねえ」
ナーディアはマリア・オルランディとカロリーナに関する情報を一通り訊き終わると、話題を変えた。
「ここにいるオクタヴィアさんがロレンツォ・アンジェリ氏の娘だという事はご存知ですね?」
「知ってるよ。オクタヴィアさんは間違いなくエンジニアの娘さんだ」
「それは、ロレンツォ氏から直接お聞きになったんですか?」
「いいや。私はエンジニアと直接口をきいた事はないよ。
みんな女中のルイーザから聞いたんだよ。エンジニアに娘が出来たって。
ルイーザはこうも言っていたよ。娘の母親はミラノにいて、週末、里親に預けられた赤ん坊に会いに来るとね」
「そのルイーザと言う人はロレンツォの娘の母親はムラッタ(白人と黒人の混血女)だと言っていませんでしたか?」
不意にオクタヴィアが尋ねた。
「はてね。そんな事を言っていたような気もするねえ」
「ムラッタはわたしの母です。母はイタリア人とソマリア人のハーフだったんです」
「今話してくれたことを、証人として署名してくれますね」
ナーディアが訊いた。
「勿論だよ。私はオクタヴィアさんの力になるよ。
何と言ってもあのエンジニアの娘さんなんだかねえ。私達は随分、あのエンジニアの世話になったからねえ」
ナーディアは鞄からA4サイズのコピー用紙を取り出した。
「では、時間を節約するためにこうしましょう。
この紙のこの下の方に署名して貰えますか?今は白紙ですけど、後で私が、貴女が今日証言してくれた内容をパソコンで打って印刷します」
「いいよ。ここに署名すればいいのかえ?」
ロンディーニ婆さんはよろよろと震える手で、それでもしっかりした筆跡で紙の下の方に署名した。
ナーディアとオクタヴィアがロンディーニ婆さんにあれこれ質問している間、ロメオは部屋の中を興味深げに見回っていた。
「ちょっと、これを見てご覧」
ロメオが手招きした。
壁にセピア色の変色した古い写真が何枚かピンで留めてあった。
ロメオはその内の一枚を指差した。
「ロレンツォだよ」
「――」
私は雷に打たれたような衝撃を受けて写真に見入った。
これまでの様々な証言や状況からオクタヴィアは間違いなくロレンツォの娘だと確信していた。しかしこの写真はそれらのどんな証言にも優る絶対的な証拠だった。
百聞は一見にしかず――か
私は思わず微笑んだ。
いかにも内気そうな老人が寂しげな瞳でじっとこちらを見つめている。
小さな顔の輪郭、儚げな口元、物憂げな大きな瞳――
その面差しはオクタヴィアに瓜二つだった。
「ジュゼッペさんが赤ん坊の認知に猛反対したんだよ――物凄い剣幕だったとルイーザは言ってたよ。
エンジニアは父親を死ぬほど恐れていたからねえ――父の言いつけに従って認知を諦めたんだよ。エンジニアは本当に情け深い、いい人だったけど、勇気とか根性が全く欠けている人だったからねえ――」
ロンディーニ婆さんのそんな言葉を聞きながら、私はこの人の一生は一体何だったんだろうと思った。
ボローニャ中に土地や建物を所有する名門と言う恵まれすぎた境涯に育ち、大学も主席で卒業した。
しかしその後、彼は一体何をしただろう?
全てを放棄して引き篭もり、父親から受け継いだアンジェリ家の財産が荒廃の一途を辿るのをただ傍観していた。
そして、たった一人の実の娘に対してさえ何もしなかった。
ただ一言、有効な遺言を書き残しさえすればよかったのに、それすらもしなかった。
そのためにオクタヴィアは当然、彼女が相続すべき遺産を巡って強欲なメンギーニとの凄惨な相続争いに巻き込まれ、今また、ロレンツォの姪と名乗るカロリーナ・オルランディと言う新たな脅威に脅かされている。
しかも彼が残した荒れ果てた不動産はどれも大掛かりな修復や工事が必要で、家賃収入どころか今後、膨大な修理費がかさむばかりだろう。
これらは全てロレンツォが残した膨大なツケなのだ。この重すぎるツケがオクタヴィアの、絶望的なほどロレンツォにそっくりなオクタヴィアのか細い肩に圧し掛かろうとしていた。
私はそんな事を考えながら、ロレンツォの悲しげな顔を見つめた。
孤独の中で寂しく死んでいったこの哀れな老人に、もはや同情する気持ちは起きなかった。
同情すべきはオクタヴィアであり、カロリーナ・オルランディだ。
おそらく、彼が一九七三年に作成した遺言状にある『同氏も知る或る人物』とは、カロリーナの母マリアだろう。
マリアはロレンツォの異母妹だった。
メンギーニ一族が相続した分は本当ならカロリーナが相続すべきだったのだ。
何も持たない孤児のカロリーナが――




