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アンジェリ家の遺産  作者: 如月鶯
第1章 もう一人の庶子
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ディ・マウロ弁護士の見解

十一月十日、ロメオはオクタヴィアと私、それにナーディアを乗せ、薄い霧の漂う高速道路をボローニャに向って愛車を走らせていた。


「まだこの車に乗っているの?」

ナーディアが呆れたように言った。

「大丈夫?途中で停まったりしないでしょうね?」

不安げに尋ねる。


せっかくなので、ここでロメオの愛車について紹介しておこう。九十二年のフォード・フィエスタと言うから筋金入りのオンボロ車である。

ロメオは車で通勤する上、一年に少なくとも五~六回はサンレモまでの四百キロの道のりを往復し、スキーヤーなので冬になれば何度も険しい山道を走らせる。

だから走行距離はただでさえ多いのに、この一年間、ほとんど毎週のようにミラノ―ボローニャを往復し、ついに二十万キロの殿堂入りとなった。

晴れた日曜日のドライブで、車が道の真ん中で煙を噴いて停まってしまうと言う憂き目に私は何度も遭っている。ドアが開かなかったり、窓が閉まらなかったり、暖房が機能しなかったり、ロメオの愛車はいつも何処かしら故障していた。

毎回、この車でボローニャに行かねばならない私とオクタヴィアは、もう戦々恐々で、口をすっぱくして新しい車を買うようにことあるごとに懇願しているのだが、ロメオが頑としてゆずらない。

彼と青春時代を共にした愛車をどうしても手放そうとしないのだ。

ロメオのフォード・フィエスタは今日も、他車の三倍近くの煙をもくもくと撒き散らしながら高速道路を驀進した。


この日は朝からディ・マウロ弁護士の事務所でカロリーナ・オルランディ問題について相談し、午後からはサン・マモロに六十年以上も住んでいると言うロンディーニ婆さんを訪ねてオクタヴィアの出生について詳しい話を聞く予定だった。


ディ・マウロ法律事務所は袋小路状の小さな広場の奥にあった。

鮮やかな黄色に紅葉した銀杏の葉が黄金色の天蓋のように広場を縁取り、赤いボローニャの街角に突如として金色の空間を作り出していた。朝の陽光を浴びて金色に輝く葉がはらはらと舞う様は、まるでオペラの舞台のような鮮烈な印象を与えた。


ディ・マウロ弁護士の事務所は、モダンなライモンディのオフィスと違って、十八世紀の建物の造りをそのまま残した古典趣味の内装だった。曲がりくねった細い廊下を滑りぬけ、天井までぎっしりと本が詰まった作り付けの書棚にクルリと囲まれた円筒のような小部屋を通り、更に幾つかの部屋を横切ってようやく奥の会議室にたどり着いた。


縦長の会議室は両端から迫る書架のおかげで更に細長くなっており、同じく縦長のテーブルと本棚の間はようやく人一人がすり抜けられる位だった。


ディ・マウロ弁護士は席に着くと、どっしりと落ち着いた、それでいてコミカルな調子で口火を切った。


「私も、貴方方が来られる前に、訴状の事を聞き――ミケーレ・オルシーニは私の友人ですからね――私なりに色々調べてみました」

私は身体中を耳にして、ディ・マウロ弁護士の次の言葉を待った。

「さて、ここにおられるオクタヴィア・セーラさんはロレンツォ・アンジェリ氏の娘です。

ありがたいことに噂や憶測ではなく、本当にアンジェリ氏の実子であることが分かりました。そして、このカロリーナ・オルランディ嬢もまた、どうやら本当にジュゼッペ・アンジェリ氏の孫らしいのです」

私達は顔を見合わせた。

私などはカロリーヌ・オルランディがよもや本当にジュゼッペの孫などと露ほども信じていなかったので、ディ・マウロの言葉に息を呑んだ。


「まず、裁判は絶対にお勧め出来ません」

ディ・マウロはきっぱり言い切った。先日のナーディアの口調から、いよいよ裁判に突入するのかと恐れていた私は内心ほっとした。

ナーディアは何か言いたげな様子である。

「裁判にかかる年月、費用を考慮すると裁判で戦うのは絶対に避けた方がいいというのが私の結論です」

ディ・マウロは繰り返した。

「しかし、裁判になって、こちらが勝てば――絶対に勝てますよね。母はロレンツォの娘で一親等なのだから――裁判の費用やその間の損害賠償を相手に請求出来るんじゃないんですか?」

ロメオが口を挟んだ。

「どうやって請求するんですか?

彼女は無資産なんですよ」

ディ・マウロの言葉にロメオは詰まった。

「彼女には無償弁護が適用されています。しかもカロリーナ・オルランディの弁護士は訴状提出の際、議論の対象となるアンジェリ家の資産の差押えを裁判所に要求しました」

オクタヴィアは蒼ざめた。

「では、わたし達はどうなるんでしょうか?」

「何も起こりませんよ」

ディ・マウロが安心させるように言った。

「資産の差押さえが直接影響するのは不動産の売買だけです。

差し押さえられている訳ですから当然、売却は出来なくなります。しかし、貴方はサン・マモロの物件の売買契約を既に済ませています。目下、お持ちの不動産を売る必要がないならあまり問題はありません。建物の修復や賃貸は今まで通り続けられますし、家賃収入にも影響はありません。

ただメンギーニ一族は真っ青ですよ。

彼等はゴベッティ通りの土地をさっさと売って現金を分けるつもりでしたからね。

これで彼等は動きがとれなくなってしまったんです。

資産の差押えを要求した場合、差押えられた不動産や株が、訴訟中に暴落でもしたら大変の損失が生まれます。当然、提訴者が訴訟に負ければ、全ての損害を賠償しなければなりませんので、訴訟に勝てるという絶対の自信がなければ、資産差押えの手続きに踏み切るような事は普通しないのです。

しかし、このカロリーナ・オルランディは無資産者です。裁判がどれだけ長引こうと弁護士にも裁判にも全くお金がかからないばかりか、仮に裁判で負けても失うものは何もないんです。

彼女の一番恐ろしい所は何も失うものがないと言う事です」

私はゴクリと唾を飲んだ。

「なんだか、不公平ですね。こっちは裁判になれば莫大なお金がかかるのに」

ロメオは納得がいかないという顔をした。ディ・マウロ弁護士は続けた。

「この訴状を提出したアドリアーニと言う弁護士ですが、私は知りませんでしたし、知り合いの弁護士達に聞いても皆、名前も聞いた事がないと言うのです。

そこでボローニャ弁護士会に問い合わせたところ、数年前にマルケ州から出てきたばかりの三十そこそこの若い弁護士だと分かりました。まあ田舎の新米弁護士と言ったところでしょう」

ディ・マウロの容赦のない言い方にレッチェ出身のナーディアはムッとして顔を曇らせた。

「これはポジティブなことですよ。

私はこの一件の裏に大物の黒幕がいるのではないかと懸念したのですが、これでそうではない事が判りました。おそらく、この訴状は彼が、今までの弁護士人生で手がけた最も重大で大きな仕事でしょう。確かにこの訴状からは熱意だけは感じられますが、弁護士の手腕という点ではまだまだですよ」


ディ・マウロは若き弁護士の渾身の作品をこともなげに酷評すると、訴状のコピーを卓上にポイと放り投げた。


「そして昨日の敵は今日の味方。

今回はメンギーニ達と手を携えて戦わなければならなくなりました。

ちなみに彼等の頼みの綱は奥さん、貴女です。

彼等はこの訴状に怯えていますからね。しかし、味方になったとは言え、厄介な連中に変わりありません。

私は一度だけ彼等に会いましたがね。友人のミケーレ・オルシーニは別として、二度と会いたくありませんね。彼等のうち少なくとも二人は、私に言わせてもらえば精神異常者です」

きっとレオナルドとクラウディオ・メンギーニの事だろう――


本当に身勝手ではた迷惑な人達だった。

私は遺産分割協議での彼等の傍若無人な振る舞いを思い出した。


「さて、前置きはこのくらいにして、このカロリーナ・オルランディにどう対処するべきか?」

ディ・マウロはそう言って私達の顔を見回した。

「カロリーナ・オルランディは非常に貧しい女性です。それこそ想像を絶するほど貧しい女性です」

ディ・マウロは強調した。

「彼女にとって十万ユーロは大金です。おそらく彼女がどんなに働いても、一生手にする事が出来ない金額です」

「つまり、また示談にしようと言うのですか?」

ロメオが尋ねた。

「これが、一番安上がりで早い方法です」

ディ・マウロは言った。

「わたしは嫌です。絶対に支払いません!」

オクタヴィアが強い口調で言った。

「わたしはロレンツォの娘です。本当ならわたしが全てを相続するはずだったんです。

それが、本来何の関係もないような人達が割り込んできて、遺産の二十五パーセントも持っていきました。この上、またこのカロリーナと言う人にお支払いするのですか?

何のために?

メンギーニ達を助けるためですか?

彼等は示談でさっさと終わらしたいでしょう。

でもわたしは参加しません。示談にしたければ、メンギーニ達が支払えばいいんです」

「そう言う訳には行きませんよ」

「何故ですか?」

今度はロメオが口を挟んだ。

「カロリーナ・オルランディの出現で一番困っているのは、メンギーニ達です。

元々、相続すべきでないものを、運よく相続したんです。示談は彼等が払うべきです」

「いや、示談になれば、相続人全員が参加しなればなりません。本来なら、示談金もオクタヴィアさんが七十五パーセント、メンギーニ達が二十五パーセントなのですが、メンギーニ達の都合で示談にするのだから、オクタヴィアさんの割合を減らすことは可能です」

オクタヴィアは不満そうだった。

ディ・マウロはオクタヴィアを励ますように言った。

「まあ、聞いてください、奥さん。我々の作戦はこうです。

私は今回の件に関して、表舞台には登場せず、舞台裏で傍観します。何故なら、オクタヴィアさん、貴女はアンジェリ氏の娘で、一親等ですから、余裕で構えている所を見せなければなりません。

表立って動くのはメンギーニ一族の弁護士、マルタ・リッカルディ弁護士です。

彼女は私の幼馴染で、気心の知れた信頼出来る弁護士です。

彼女にまず、このアドリアーニ弁護士にさりげなく接近してもらうのです。我々、弁護士は毎朝、裁判所に出頭します。貴方方教師が、毎朝学校に行くのと同じですよ。そこで他の弁護士との交流があるのですが、リッカルディ弁護士にうまくこの弁護士に接触してもらいます。

こういう事は女性のほうが得意ですからね」

ディ・マウロはニヤリと笑った。

「それで、彼がどう言う意図なのか――最初から示談目当てなのか、それとも本気で訴訟で戦う気なのかを探って貰います。

それから、我々の出方を決めましょう。もし、本気で彼等が裁判にするつもりなら、我々もすぐにオクタヴィアさんの死後認知申立の準備をしなければなりません」

そこでナーディアが口を挟んだ。

「我々はこれからサン・マモロ通りに行って、我々に好意的な住民からオクタヴィアさんの出生についての証言を取るつもりです」

ディ・マウロは満足そうに頷いた。

「それはいい考えです。出来れば証言書に署名して貰って下さい」


私達は重い足取りで事務所を出た。

いずれにしてもまたお金がかかるのだ。

ディ・マウロは示談を勧めた。裁判にすると更に高くつくと言う。ナーディア曰く、遺産相続を巡る弁護士へ相談料や裁判の報酬は、遺産の総額をベースにパーセンテージで計算されるので、このような莫大な遺産が絡む場合、弁護士や裁判にかかる費用もかなり高額になるのだそうだ。だから、裁判で勝っても損害賠償が請求出来ない以上、出来るだけ早く片付けてしまうのが得策だと言う。



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