訴状
分割協議後の数ヶ月は、まさに矢のごとく、あっという間に過ぎ去って行った。
オクタヴィアは相続した建物を一切売却せず、サン・マモロの物件の売却金で修復することを決意した。彼女なりに、アンジェリ家の末裔として残りの資産を守り抜くことに使命を感じたようだ。
とは言っても、オクタヴィアはただ決意しただけで、何をするでもなかったので、実際に奔走しなければならなかったのは、私とロメオだった。
実際、私達の生活は激変した。
今まで思春期の少年達相手に数学の授業をしていたロメオは、そしてコンピュータに向って翻訳やホームページ制作をしていた私は、建築家や建設会社との打ち合わせに追われ、荒廃した建物の中を彼等と共に歩き回った。何もかもが新しい事だらけで新発見の連続だった。
遺産分割協議の一部始終と、そしてオクタヴィアが実はロレンツォの娘であったことをロメオから聞いた財産管理人のマリアンナ・コソットは、目を丸くして、同時に全て納得がいったと言う顔をした。
「ああ――これでようやく分かりました。
メンギーニさん達が以前、私の事務所に押しかけてきた事は前に話したでしょう?
彼等が喧嘩を始めた時、一人だけそれに加わらず、無関心を装っていたジルダ・メンギーニさんが、突然こう言ったんです。
『やめなさい、みっともない!
貴方達は判っているはずよ。本当はこの遺産を相続する権利が全くないことが――判っているでしょう。本当はこの遺産が誰の物なのか』
――すると、争っていた彼等が皆、沈黙したんです。
私はその時は、何のことだか判らなかったんですけど――そうですか、オクタヴィアさんがアンジェリ氏の実の娘だったんですねえ」
マリアンナは感慨深げだった。
これを聞いたロメオはメンギーニ一族への怒りを再燃させたが、私はジルダ・メンギーニが親族会や遺産分割協議に決して姿を見せなかったのは、良心の呵責からオクタヴィアと顔を合わせるのが忍びなかったのではないかと解釈した。
もう、過ぎたことでしょう――
私はロメオに言った。
そう、メンギーニ一族は私達にとっては過去の存在。忘れた方がいいにきまっている。そして未来に目を向けなければ――何と言っても、やらなければならない事は山ほどあるのだから――
遺産分割協議後、ライモンディとは何となく疎遠になった。
サン・マモロの売買契約後、オクタヴィアの心の奥で何となく燻っていたライモンディに対する怒りをマリアンナ・コソットが煽ったのがその一番の要因だった。
元々、ライモンディを快く思っていなかったマリアンナは事あるごとにオクタヴィアにライモンディの悪口を吹き込んだ。
サン・マモロを売却した事を完全に納得していなかったオクタヴィアは、愚痴や不満を聞いてもらえる嬉しさも手伝って、ますますライモンディから離れ、マリアンナに傾倒していった。
ロメオは、ウンベルト・ライモンディはともかく、ロベルト・ライモンディは誠意と情熱をもって彼女を助けたのだと母に言い聞かせたが、オクタヴィアはもはやライモンディに対する信頼を完全に失っていた。それどころか、マリアンナの影響もあり、いよいよ狡猾な策士だと本気で信じるようになってしまった。
やがてファルネーゼの分析と土地証明のおかげで『米の水路』の土地に高値が付き、売却してかねてからの取り決め通り、売却金をライモンディ兄弟と二等分してしまうと、オクタヴィアとライモンディを繋ぐ最後の絆も失われてしまった。
こうしてマリアンナはライモンディのポジションを瞬く間に乗っ取ってしまったのだ。
私はこれらの出来事をマリアンナが計画的に仕組んだとは思わない。
この頃、ボローニャ中の実業家を出し抜いてサン・マモロの物件を購入したライモンディに対する嫉妬と羨望はすさまじく、公証人を中傷する噂がボローニャ中で悪性のインフルエンザのように蔓延していた。
生真面目なマリアンナは、それらの中傷を真に受けてライモンディを危険な策士と思い込んでしまったのかもしれない。
しかしながら、オクタヴィアが今やボローニャ中が注目する金脈であることも事実だった。
マリアンナはそう意識してかしないでか、ライバルをうまく追っ払い、たまたま自分の懐に転がり込んできた金の実の生る木を独占することに成功した。
邪魔なライモンディがいなくなると、マリアンナはいよいよ采配を発揮し始めた。彼女はまず、オクタヴィアに口座をライモンディが紹介した銀行から、彼女の友人が働く銀行に移すよう説得した。
更に、ガリエラ通りとバルベリア通りの建物の修復プロジェクトの担当者に彼女の知人であるエンジニアのチェザリーニ氏を強引に推薦した。
これには、私は強く反対した。気さくなジョルジョーネ建築家とは対照的な慇懃でキザったらしいチェザリーニは第一印象から本能的に好きになれなかったし、ここまで執拗にチェザリーニにこだわるマリアンナの態度も気に食わなかった。
オクタヴィア自身もジョルジョーネの方に好感を持っていたのだが、マリアンナに頼み込まれ、根負けする形でついにバルベリア通り、ガリエラ通りの建物の修復プロジェクトをチャザリーニに依頼する契約書に署名してしまった。
私は不満だったが、この時はチェザリーニに恋するマリアンナが――彼女のチェザリーニに対する態度を見れば、この生真面目な会計士が気障なエンジニアに好意を抱いていることは火を見るよりも明らかだった――熱心に彼を推薦し、その熱意にオクタヴィアが折れてしまった、そんなピンク色の想像をしたぐらいだった。
この頃の私は、チェザリーニの件は別として、地味で真面目なマリアンナに全く警戒心を抱いていなかった。それどころか聡明で人懐っこい彼女に好感を持っており、友達になれたらとさえ思っていたくらいだ。
だから、この小柄な財産管理人が、着々と自分の思う方向にオクタヴィアを誘導していることに、この時はまだ気が付かなかったのだ。
そんな風にして夏が過ぎ、秋がやってきて、その秋も終わろうとする頃のこと、ロメオが大きな封筒を握り締め、蒼ざめた顔をして帰宅した。
「どうしたの?」
ロメオの表情から、ただ事ではない事が判った。
「これを見てご覧。今日、母さんに届いたんだ」
ロメオは封筒から冊子のように綴じられた書類を取り出して私に見せた。
真っ先に『ボローニャ裁判所』と言う文字が目に飛び込んだ。
「訴状―遺産分割協議無効の申立?」
私は表題を見てびっくりしたようにロメオを見た。
「去年、弁護士だという男から妙な電話が掛かってきたって言ったのを覚えてる?」
私は記憶の頁を巻き戻した。
「ああ――確かちょうど一年ぐらい前の事よね?
ロレンツォの父親ジュゼッペの庶子の娘がいるという話だったわね?」
あの時は、どうせ作り話に違いないと、一笑に付したのだった。そしてその後、その弁護士から電話が掛かってくることは二度となかったので、私達はこの出来事を記憶の引き出しの奥のほうに仕舞い込み、すっかり忘れてしまっていたのである。
「あの弁護士が遺産分割協議の無効を求めて提訴してきたんだよ」
私は訴状に目を通した。提訴者はカロリーナ・オルランディとなっていた。
訴状には―(一)カロリーナ・オルランディはロレンツォ・アンジェリの父ジュゼッペ(死亡)とビアンカ・オルランディ(死亡)の間に生まれた庶子マリア(死亡)の娘である。(二)このため、マリアはロレンツォ・アンジェリの異母妹に当たり、その娘カロリーナ・オルランディは故人の姪である。(三)従って、カロリーナ・オルランディは故人の三親等に当たり、先だって遺産を相続した五親等のオクタヴィア・セーラとオルガ・メンギーニの相続人達を親等の上で上回っており、彼女こそがロレンツォ・アンジェリ氏の唯一の法定相続人として認められなければならない―と言う申立に始まり、ビアンカ、マリア、カロリーナの女三代の物語がつらつらと書き綴られていた。
すなわち――アンジェリ家の女中だったビアンカは、一九三八年にジュゼッペの庶子マリアを生むと、赤ん坊と一緒に彼が所有するサン・マモロ通りの建物の一室に移り住んだ。
ジュゼッペは生涯、マリアの養育費を払い続けたが、決して認知することはなかった。
ジュゼッペの妻ジュリアは当時から病気がちだったが、夫に愛人がいることを知ると絶対にビアンカと再婚してくれるなと、夫に懇願しながらこの世を去った。
ジュゼッペは妻の遺言を守り、生涯再婚はしなかった。そして、自らの死後、相続争いが起こるのを防ぐ為に、アンジェリ家の全財産を息子ロレンツォに生前譲与した。
ビアンカの子マリアは先天的な情緒不安定で生涯、精神病院の入退院を繰り返し、三十七歳でやはり私生児のカロリーナを産み落とし、四十三歳の時、病院で狂死した。
僅か六歳で母を失くしたカロリーナは母についての記憶はなく、生まれた時から天涯孤独だった。このような不幸な境涯に加え、カロリーナ自身も左足の奇形という不具に生まれついた。
現在、この薄幸の娘は名門アンジェリの血筋にもかかわらず修道院の一室を間借りし、細々と生活している――
要約するとこんなところである。最後の頁には十人の証人の名前が書き連ねられていた。
「へえ――もし本当ならドラマチックな話ねえ――」
あまりにも小説めいたドラマチックな内容に、私は思わず溜息をついた。
「感心している場合じゃないよ!」
ロメオは真顔で怒った。
「ごめんごめん。だってあんまり凄い話だから――」
私は笑って謝った。
「それで――どう思う?」
「偽者だと思う」
私は迷わず言った。
「やっぱり?」
「ここに書いてある事の半分は本当のことだと思う。カロリーナって人の母親の話とかね。
でもジュゼッペがマリアの父親と言うのは嘘だと思う」
私は断言した。
オクタヴィアの事だけでも、十分おとぎ話のような話なのだ。もう一人、庶子の娘が登場するなんて、出来過ぎている。
「それに――」
私は言葉を続けた。
「この弁護士がロメオに電話してきたのは、確か去年の秋頃よね?」
「うん。親族会のすぐ後だったから、九月の終わりだったはずだよ」
「つまり、この弁護士は一年も前から、このカロリーナに相続権がある事が判っていたわけでしょう?
だったら何故、遺産分割協議を、指をくわえて見ていたのよ?
本当に自分の依頼人が正当な相続人なら、遺産が分割される前に名乗りをあげるべきじゃない?」
「そうなんだよ。何故、カロリーナとこの弁護士は今になって、動き出したのか?」
「本当にジュゼッペの孫なら、遺産分割の前に自分こそが正当な相続人だと言う申立をしたはずよ。今になって、こんなものを送ってきたのは相続人一同に揺さぶりをかけて、示談でお金を要求するつもりなんじゃない?」
私は考え込みながら言った。
「つまり、本気で裁判にする気は始めからないってことかい?」
「そうだと思う。もし本当に裁判になってDNA鑑定をしたら、偽者だと言うのがばれてしまうでしょう?
彼等が欲しいのはお金よ。不安に駆られたお義母さんやメンギーニ達からうまくお金を引き出す気なんじゃないかな?」
私は最初からこのカロリーナを偽者と決め付けていた。
「それに、仮にこのカロリーナが本当にジュゼッペの孫だったとしてもロメオ達は何も恐れる事はないわ。だってお義母さんはロレンツォの娘よ。一親等なのよ」
「正式に証明されてないけどね」
ロメオは笑った。
「それは、このカロリーナって人も同じよ」
ロメオは頷いた。
「そうだね。彼女の場合、証明するのはもっと難しいよ。だってジュゼッペとマリアのDNAを鑑定しなければならないんだからね。二人とも、何十年も前に亡くなっているし――」
「つまり死体を二体も掘り返さなければならないわけね」
私は少し不謹慎な事を言った。
「でも、DNA鑑定なんて事態には絶対にならないと思う。この人はきっと偽者に違いないもの」
私は自信を持ってそう締めくくった。
翌日、難しい顔をして訴状を睨んでいたロメオが、はっとして顔を上げた。
「今、気が付いたんだけど、この証人になっている人達、ほとんどがサン・マモロ通りのロレンツォの建物に住んでいる人達だよ」
ロメオは訴状に名を連ねる証人の住所を指し示した。
十人いる証人のうち、六人がサン・マモロ通りの集団住宅の住民である。
「本当ね。気が付かなかった」
ロメオは食い入るようにして訴状を見つめた。
「こうは考えられないかな?」
ロメオは推理するようにゆっくりと言った。
「サン・マモロの物件を購入したライモンディはまず何をしただろう?
当然、ただ同然で住んでいる住民達の一掃だ。彼の事だから売買契約を済ませて、サン・マモロの建物が法律上、自分のものになるや否や、住民全員に退去命令の通告を送ったに違いない」
「そうね。それを受け取った住民達は絶望してこう考えた。
もし、カロリーナが――彼女も子供の頃、サン・マモロに住んでいたそうだから、サン・マモロの住民は彼女の事を知っているはずよね――ロレンツォの姪として遺産分割の無効を求める訴訟を起こし、相続争いが振り出しに戻れば彼等も追い出されず済むと、そう考えたわけね」
「そうだよ。実際にはそんなことはないんだけど。サン・マモロはもうライモンディに売却されてしまった訳だし、仮にカロリーナが訴訟を起こしても、彼等が立ち退かなければならないことに、何ら変わりはない。でも、サン・マモロの貧しいお年寄りや病人が法律に明るいわけないし、そんな事とは知らずに、藁をも掴む思いで、今回の事を仕組んだのかもしれない」
ロメオの推理は当たっていた。
数日後、ヴィラの工事の打ち合わせの為にやってきた大工のファブリーニが、ロメオの考えが正しかったことを裏づけした。
住居の修理で頻繁にサン・マモロに出入りしていたファブリーニによれば、この一件の黒幕は、サン・マモロ通りの集団住宅に四十年以上も住み着いている主のような烈女で――ファブリーニ曰く、メロンのような乳房をしならせた大女なのだそうだ――退去命令の通告に激怒し、他の住民を扇動し、消極的なカロリーナを説き伏せて、今回の訴状を提出させたそうだ。
カロリーナ自身は、小さな修道院の一室を借りてひっそりと生活する大人しい娘で、そのような大それた野望など抱いていなかった。
カロリーナの母マリアがはたして本当にジュゼッペの娘なのかどうかと言う質問に、ファブリーニは分からないと首を振った。
サン・マモロの住民の間では、昔からアンジェリ家にまつわる様々な噂話がまことしやかに囁かれてきた。オクタヴィアの話もそうである。サン・マモロの住民は、カロリーナの母マリアがジュゼッペの隠し子だと心から信じているが、真実は誰にも分からない。当事者達は何十年も昔に死んでしまっているのだから――
私は、年の頃も自分とそう変わらないこのカロリーナにふと同情の念を抱いた。
彼女はその因果な出生故に、本人も望まざる宿命を背負っているのではないか?
そして今回、本人の意思に反してサン・マモロのジャンヌ・ダルクとして担ぎ出されたのではないかと思うと何だか不憫だった。
七月二十五日に全てが終わったと思っていたオクタヴィア母子にとって、カロリーナの出現は晴天の霹靂だった。
しかし、もっと慌てふためいたのはメンギーニ一族である。
オクタヴィアは仮にこのカロリーナが本気で相続権を主張してきても、彼女はロレンツォの娘なのだから、正々堂々と彼女自身の出生を明らかにすればいい。
しかし、メンギーニ達は違う。元々、運命の悪戯で間違って相続人に滑り込んだのである。
運よく遺産の一部をせしめたが、ロレンツォの姪などと名乗る娘に出てこられたら、何の切り札もない。
しかも、彼等はオルガ・メンギーニの遺産とアンジェリ家のゴベッティ二区画を巡っていよいよ骨肉の争いを始めたそうだから、突然出現したカロリーナと言う新たな脅威にパニック状態になっていた。
メンギーニ達はいきなり親切を装い、仇敵オクタヴィアに連絡してきた。
「彼等にとって母さんは希望の光なのさ」
ロメオは鼻で笑った。
「もしカロリーナが本気なら、母さんがロレンツォの娘で一親等だって証明するしか道はないからね。いきなりご機嫌取りの電話だよ。全く勝手な連中だ」
「メンギーニ達は、この訴状に書かれていることが事実だと思っているの?」
「さあ――元々、不正に手に入れた遺産だから、臆病風に吹かれてビクビクしてるんじゃないかな?」
ロメオは手厳しかった。
オクタヴィアがライモンディには相談しにくいと言うので私達はナーディアの所に訴状を持っていった。
メンギーニとの相続争いでは、あまり出番がなく燻っていたナーディアはこの新展開に目を輝かせ、武者震いした。
訴状を貪る様に読んだナーディアは、開口一番こう言った。
「裁判よ!こちらもオクタヴィアさんがロレンツォ氏の娘だと申立てる返答書を提出して迎え撃つのよ」
ナーディアが言うと、ただでさえ物騒な響きを持つ『裁判』と言う言葉がより一層血生臭く感じられる。ナーディアの言葉は開戦を告げるファンファーレのようだった。
「でも、私達はこのカロリーナが、偽者じゃないかって思っているのよ」
私は出来れば裁判などにしたくなかった。遺産相続の訴訟は早くて五年、運が悪ければ十年以上続くと言うディ・マウロ弁護士の言葉が脳裏に蘇った。
「そうねえ。お金目当てで揺さぶりをかけて来ているのかもしれないわね」
ナーディアは頷いた。
「とにかく、全てはボローニャで始まったことよ。まずそのディ・マウロという弁護士に相談した方がいいわね」
こうして私達は数日後、ナーディアと共にディ・マウロ弁護士の法律事務所を訪れることになったのだ。




