遺産分割協議
私達は予定通り、二時に遺産分割協議を行うジェンティーレ公証人事務所に向った。
ジェンティーレ公証人事務所は並木通り沿いの豊かな緑に囲まれた閑静な地区にあった。
公証人事務所には、既にイザベラ・ピッコリとミケーレ、リディア・オルシーニ兄妹が到着していた。
頭に派手なターバンのような布を巻き、アラブの民俗衣装のようなふわふわしたワンピースをゆるく着こなした金髪の女性がミケーレときびきび話していた。
「マルタ・リッカルディ弁護士ですよ」
ロベルト・ライモンディは私達に耳打ちすると、彼等の間に割って入っていった。
どうやらクラウディオは遅れてやって来ることになったが、レオナルド・メンギーニは相変わらず頑なに出席しないと頑張っているらしい。ジルダ・メンギーニは今回も代理人をよこして署名だけさせるようだ。私はついに六人目の相続人ジルダ・メンギーニに会うことはなかった。
やがて、クラウディオが一時間程遅れて到着すると、悪びれる様子もなくエントランスホールのソファーに悠々と腰を下ろした。
待たされてイライラしていたイザベラは怒りの矛先をクラウディオに向けた。
「貴方達兄弟はいったいどうなっているの?
人を平気で待たせて、礼儀知らずにも程があります。
貴方がレオナルドに電話しなさい。貴方が!」
クラウディオは従妹にせき立てられるようにしてレオナルドに電話をかけ始めた。
しばらくブツブツ話していたが、彼の煮え切らない態度に業を煮やしたイザベラが、クラウディオの手から携帯電話を奪い取ると金切り声を張り上げ始めた。
「貴方はどう言うつもりなの!
私はもう一時間近くも待っているのよ――来たくないって?――貴方は馬鹿ですか!
気に入らない事があるなら、ここに来てはっきり言えばいいでしょう?
とにかく貴方が来ないことには埒が明かないから、今すぐ来なさい。今すぐ!」
最後の言葉をイザベルは絶叫した。
電話を切るとイザベラはその細い魚の目を満足そうに更に細めた。
「今から来るそうですよ。全く人騒がせな」
そう言ってクラウディオの隣に腰を下ろした。
メンギーニ達と同じ空間を共有することに耐え切れず、私とロメオは事務所の外に出た。道にかぶさる様に生茂った銀杏の葉が風に揺られ、さらさらと音を立てていた。その一枚がハラリと私の頬をかすめ、足許に落ちた。
私達は蔦に覆われた煉瓦の壁にもたれ、ぼんやりと銀杏の木を見上げた。
「大丈夫だよね?」
ロメオが私に聞いた。
「うん――」
私は他に言うべきことが思い浮かばす、言葉少なに答えた。
それから私達は並木通りを当てもなくただブラブラと歩いた。別に何処に行くつもりでもないので、しばらく歩いた後、そろそろ戻ろうか、とUターンし、今度は公証人事務所に向って再び歩いた。
事務所に着くと、その前に停まった車から白髪の男が降りてきた。
「やあ、久しぶりだね。」
見覚えのあるレオナルド・メンギーニの明るい青い目が私達をギョロリと睨んだ。
レオナルドは二時間も遅刻したことを一言も詫びることなく、娘のエリーザを従え、ふんぞり返らんばかりの態度で事務所に入っていった。
「やあ、待たせたね」
事務所に入ったレオナルドは王様のように尊大な態度で待ちくたびれた相続人達に挨拶した。
「私達がどれだけ待ったか、分かっているの?
二時の約束がもう四時過ぎよ。全く貴方ときたら――」
小型犬のようにキャンキャン吼え始めたイザベラを手で制し、顎でミケーレを促した。
「じゃあ始めようか」
ミケーレが慌てて公証人を呼びに行き、任務を終えたマルタ・リッカルディ弁護士はホッとしたように、仕事が残っているからと、メンギーニ達に挨拶して去って行った。
ジェンティーレ公証人はその雪のような白髪と同じく真っ白なふさふさと長い眉毛から一見、もの凄い老人に見えたが、顔の色艶を見ると、どうやら六十にもなっていないようだ。
公証人に導かれ、相続人達は隣室の会議室に入っていった。
部外者である私とロメオ、エリーザ、ライモンディ兄弟がにわかに静かになったエントランスホールに残された。
ウンベルトまでついて来たのは、この遺産分割協議書の署名が終わった後、サン・マモロの物件の売買契約公正証書の署名もこの場で済ませてしまうつもりなのだ。
隣室では早速もめているようだった。
偵察のため部屋に滑り込んだライモンディによると、公証人が協議書を一行読み上げるごとに、レオナルドが返答に困るような的外れな質問を執拗に繰り返し、ちっとも先に進まないのだそうだ。協議書の朗読はレオナルドの迷惑極まりない妨害のせいで通常の何倍もかけてのろのろと進行した。
二時間近くかかって協議書の全文がようやく読み上げられると、レオナルドが今度は自分の取り分について、難癖を付け始め、協議はまたもや停滞してしまった。協議の様子を何度も覗きに行ったライモンディによれば、レオナルドはこの分割協議の後の、メンギーニ一族の間の六分割についてとやかく言っているらしい。彼等の間で行われる分割はまた別の遺産分割協議になるので、今日の、この協議書には全く関係ないはずである。
「彼はこの後のメンギーニ間の分割を有利にするために、今から無茶な条件を他のメンギーニ達に突きつけているんですよ。彼等がそれに応じなければ、今日のこの協議書に署名しないと脅してね。
全く、横暴と言うか、滅茶苦茶な男ですよ」
ライモンディは呆れたように首を振った。
時計は既に六時半を回っていた。時折、耐えられなくなった相続人が次々に部屋から飛び出してきては、また中に戻っていった。扉が開け閉めされる度にレオナルドの高圧的な声が一段と大きく外まで聞こえてきた。
イザベラとミケーレが一緒に出てくると、窓際のソファーに腰を下ろしてコソコソと何やら相談し始めた。
イザベラは醜い顔をますます醜くゆがめてミケーレに何か言っている。
「――とにかく、私は一ユーロでも多く相続出来れば、それで満足よ――」
そんな会話の一部が聞こえてきて、私は思わず顔をしかめた。
彼等が隣室に戻っていくと、入れ違いにライモンディがすっかり憔悴しきった様子で出てきた。扉の隙間から、蜂の巣をつついた様に騒然となった室内の様子が一瞬見えた。
「奴等は狂っている!
まともじゃありませんよ。あれは明らかに精神を病んでいる」
ライモンディはすっかり辟易したようにこう呟いた。
「オクタヴィアさんがアンジェリ氏の娘でよかった――本当によかった!
もしもこの事実に我々が気付かなかったら――この相続争いは永久に終わりませんでしたよ――永久にね」
確かに遺言状の用益権を盾に戦うと言う最初の作戦は、無謀と言うか、不可能であったに違いない。この連中は最初から遺言状の有効性など全く認めようともしていなかった。
隣の部屋ではまだ分割協議が続いていた。
私達はひたすら待った。その時間は、永遠に近いほど長く感じられた。
やがてロベルト・ライモンディの妻が到着した。この後に行われるサン・マモロの売買契約のためだろう。
ライモンディの妻は派手なワンピースと踵の高い煌びやかなサンダルで着飾っていたが、容姿はイタリア人にしたら随分地味な方だろう。
協議書に全員が署名し、相続人達がぞろぞろと出て来た時には、時計の針は既に八時を回っていた。
オクタヴィアによれば、最後の最後までレオナルドが署名を渋っていたが、公証人と他の相続人達になだめすかされ、ようやく渋々と署名したそうだ。
オクタヴィアはさすがに疲れ切った様子だった。
メンギーニ達は、疲れているのか、あるいは互いに仲が悪いせいか、ほとんどしゃべらず、潮が引くように退場していった。
この後、私達にはサン・マモロの物件の売買契約が待っていた。
「母さんが嫌なら、無理に署名することはないんだよ」
ロメオが母にそっと耳打ちした。しかしオクタヴィアは首を振った。
「もういいのよ――」
売却金の前金は既に相続税や弁護士への報酬で使ってしまっていた。
これから先、建物の修復に莫大な費用が掛かる。いずれにせよ、何かを売らざるを得ない状況なのだ。オクタヴィアはサン・マモロの物件を売ることにした。
売買契約公正証書の署名は何の問題もなく、しめやかに執り行われた。
八時四十五分、私達はようやく全てを終え、公証人事務所を後にした。
湿度を含んだ生暖かい風が妙に心地よく感じられる。長い悪夢から、ようやく解き放たれたように晴れやかな気分だった。
全てが終わった。輝かしい未来ばかりが私達を待っている――私もロメオもこの時、そう確信していた。
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第一部・相続人(終)
第二部に続く~




