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アンジェリ家の遺産  作者: 如月鶯
第6章 遺産分割協議まで
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オクタヴィアの怒り

七月二十五日、ついにこの日が、遺産分割協議の日がやって来た。

私達は七時にカフェで朝食を取り、ボローニャに出発することになっていた。


サンレモで穏やかな日々を送っていたオクタヴィアはミラノの湿度の高い不快な空気に触れた途端、鬱になった。

考えようによってはメンギーニ一族からようやく解放されるおめでたい日でもあるというのに、いつもにも増して不機嫌な様子で黙りこんでいるオクタヴィアは暗色のどんよりとした負のオーラに包まれていた。


「わたしは今日、思っていることを全部、ライモンディに言ってやるつもりよ。

あの男はわたしからサン・マモロの僧院を奪ったのよ」

オクタヴィアは決心を固めたように激しい口調で言った。


オクタヴィアはひたすらサン・マモロの旧僧院にこだわっていた。彼女にとって、報酬や『米の水路』の契約書の心配より、サン・マモロの旧僧院を奪われた悔しさの方が遥かに上回っているのだと、私は改めて感じた。


「ロベルト・ライモンディはそんな悪い人ではないよ。彼は何だかんだ言って、右も左も分からない母さんを助けてくれたんだから。悪いのは兄のウンベルトだ」


ロメオはライモンディ兄弟をもはや悪の権化のように罵倒する母をたしなめた。

私はライモンディ兄弟に独りで会いに行ったあの日までは、ライモンディを悪様に言うことは決してなかったが、あの日を境に考えが変わっていた。

あの日の猛暑、駅までの道のり、ウンベルト・ライモンディの不気味な薄笑いを思い出すと、怒りがこみ上げてくる。

ロベルト・ライモンディは頭脳明晰な相談役で、おそらく、十中八九は己の信念に従ってオクタヴィアを助けたに違いない。しかし、あの兄を引き入れるべきではなかった。

彼の出した成果に対する報酬は、ライモンディ自身が堂々と請求すべきだったのだ。

報酬の件で兄を巻き込み、『米の水路』の契約書に署名させたのは、彼の最大のミスであり、唯一の汚点だったのではないか、私はこの相続争いの一部始終を思い返すたびに、今でもそう思うのだ。


とにかく、土地の報酬とライモンディの一年間の相談料を合わせて百万ユーロにして貰うと言うことで、私達の意見はまとまっていた。


ライモンディの事務所に到着した私達が真っ先に知ったのは、レオナルドとクラウディオ・メンギーニの兄弟が今日の遺産分割協議に出席しないと言い出したという予想外のハプニングだった。

ライモンディはひどく疲れた様子で顔色もあまりよくなかった。


「ここまで来て出席しないと言い出すなんて、何て連中だ」

ライモンディは手負いの獅子のように室内を歩き回っていた。


どうやら二人の弁護士は裁判所に出掛けていて捕まらない ようだった。

今日のライモンディはいつもの自信満々な様子が影を潜め、苛立ちと動揺で弱々しく見えた。


「お前がそんなに動揺してどうする。弁護士が捕まらないなら、事務所の秘書に緊急事態だから折り返し直ぐ電話するよう伝言を頼みなさい」

ウンベルト・ライモンディは動揺している弟を叱咤し、冷静な指示を出した。

ライモンディは大人しく兄の言葉に従い、奥の部屋に消えていった。


ああ、確かにウンベルトは厭な男だが、ライモンディはこの兄を頼りにしているのだと、私は思った。


遺産分割協議については、もはやあまり心配していなかった私とロメオは、この思いがけない事態に動揺し、不安を募らせた。オクタヴィアだけが、協議が中止になるかもしれないと言う目先の現実に対する不安より、ライモンディへの怒りのほうが優っていると見え、大きな目をぎらぎら光らせて、ライモンディが消えた扉を睨みつけていた。


やがて電話を終えたライモンディが私達のいるミーティングルームに戻って来るとオクタヴィアはついに攻撃を開始した。


「ライモンディ公証人、どうかお掛け下さい。

わたしはあなたにお話しすることがあります」

オクタヴィアは低い声で半ば命令するような口調で言った。

ライモンディは言われるままにオクタヴィアの前に座った。報酬の話であることは勿論、分かっているはずである。

ウンベルトが弟を補佐するように、隣の席に座った。


「わたしは――二月のあの日のことは決して忘れません。

わたしはあの日――身も凍るような寒い日でした――独りでこの事務所にやって来ました。いつもは息子を同伴するのに――ああ、あの日に限ってわたしは独りでした」


オクタヴィアの声は興奮のためか、ビブラートがかかったように小刻みに震えていた。

当然、報酬の話か『米の水路』の話が切り出されることを予想していたウンベルト・ライモンディは、この女性は一体全体何が言いたいのだろうと、いぶかしげにオクタヴィアの顔を見つめた。


「事務所を訪れたわたしをあなたは食事に誘いましたね。

それで二人でレストランに行きました。あなたがこの一年間でたった一度だけ、わたしにご馳走して下さったのが、この日でした。ですから珍しいこともあるものだと、不思議に思ったのをよく覚えています」


わたしは頭を抱えたくなった。話がどうどん本筋からずれて行ってしまう。

オクタヴィアはいつもこうなのだ。友人を持たず、人と対峙することに慣れていないオクタヴィアの口から発せられる言葉は、時には無秩序な、時には見当違いな表現となって迸り、ほとんどの場合、肝心な本質は理解されない。

背景描写に懲りすぎて肝心の主人公がちっとも登場しない、そんなオクタヴィアの話を聞く時、連想ゲームのように、何時、何処で、誰が、何をしたのか、と言う骨組みを探し当てなければならない。

ライモンディ兄弟も同じ思いだったのだろう。ポカンとして彼女の話を聞く彼等は、一時停止された映像の一コマのようだった。


「あなたはこの日、とても親切でした。本当にとても――」

オクタヴィアは思い出すようにそう呟くと、口をつぐんだ。彼女なりに頭の中で言いたいことを整理しているようだった。

「そして食事の後、この事務所であの契約書に署名するように言いました。

でも、わたしは以前、あなたにはっきり言ったはずです。サン・マモロの物件をお売りしてもいいけれど、元僧院の棟は別だと。

それなのに――あなたがわたしに署名させた契約書には全ての棟が含まれていた――」


オクタヴィアはこれまで胸中に押し殺してきた、サン・マモロの旧僧院を奪われた恨みを一気に吐き出そうとしていた。その姿は、あたかもアンジェリ家の財産を決して売ろうとせず、その外装がたとえ崩壊しようとも所有権だけは生涯、守り抜いたロレンツォの怨念が乗り移ったかの様だった。


オクタヴィアの言葉にライモンディはみるみる蒼ざめていった。

「奥さん、サン・マモロは三棟でひとつの物件です。二つの棟だけ売買するのは、ナンセンスです。私は貴女にきちんと説明したはずですよ」

「いいえ。あなたは公証人として、契約書の全条項を私の前で読み上げる義務があったはずです。それが公証人の義務のはずです。

それなのにあなたは署名する欄だけをわたしに指し示しました。

あなたに対する信頼からわたしは全文を読まず、云われた所に署名しました。

わたしが署名すると、あなたは直ぐに携帯でそこにいる――」

オクタヴィアは傍らのウンベルトをまるで蝮を見るように一瞥した。

「あなたのお兄さんと、奥さんを呼びました。彼等はものの数秒でやってきましたわね?まるで待ち構えていたように――

全ては巧妙に仕組まれたことでした。

あなたは――ロレンツォがあれほど大切にしていたサン・マモロの僧院を卑劣な手段でわたしから奪ったのです」

ここでオクタヴィアは大きく息を吸い込み、最後のとどめを刺した。


「あなたはわたしを騙したのです!」


わたしはオクタヴィアがこれほどストレートにものを云うのを初めて聞いた。

やれば出来るではないか――私は心の中で拍手を送った。


ライモンディの顔はもはや蒼白を通り越して土色になっていた。

「奥さん、貴女は本当にそう思っているのですか?

私が貴女を騙したと――そう本気で思っているのですか?」

ライモンディは大きな目を見開き、震える声で尋ねた。

オクタヴィアは最後の声を振り絞るようにして叫んだ。

「ええ――あなたはわたしの大切なものを無情にもわたしからもぎ取ったのです。

あなたは最初からそれが目的でわたしに近づいたのでしょう?

わたしを見つけてさぞ満足だったでしょう」


それは、オクタヴィアの声を借りたロレンツォの叫びのように聞こえた。

私は一瞬、オクタヴィアは小さな身体からメラメラと燃え上がる炎を見たような気がした。


「奥さん、私が貴女の為にした事は、これまで誰にも――私の妻にさえ、してあげたことのない事です。

この一年間、私は全ての時間とエネルギーを貴女に――このアンジェリ家の相続問題につぎ込みました。この相続争いは、私が今まで扱ったケースの中で、最も複雑で、最も難解なケースでした。

この相続問題はもはや、私の身体の一部、いわば人生そのものになりました。

そうまでして貴女を助けたこの私を、このロベルト・ライモンディを――貴方はただサン・マモロの物件の為だけに近づいたと、そう本気で信じているのですか?」

ライモンディは今にも泣き出しそうに見えた。常に力強く、自信にみなぎるライモンディのこんな姿を見るのは初めてだった。


まるで恋に破れた少年のようだ――と私は思った。

私はライモンディがあまりにもオクタヴィアの相続問題に熱心なので、よもや彼女に恋しているのではないかと、冗談交じりにロメオに言ったことがあったが、なまじ的はずれな憶測ではなかったのかもしれない。


「わたしはあなたがサン・マモロの僧院を奪ったことを決して忘れません」

オクタヴィアはきっぱりと言い放った。

サン・マモロの一件は、この数ヶ月の間に深い恨みとなってオクタヴィアの中で膨れ上がっていたのだ。

オクタヴィアは肝心な報酬にも、『米の水路』にも一言も触れなかった。サン・マモロが彼女の怨恨の全てであり、サン・マモロで彼女の復讐の炎は燃え尽きた。


「貴女が私を信頼できないとおっしゃるなら、私はもう貴女と話すことはありません」

ライモンディは立ち上がると夢遊病者のようにフラフラしながら扉に向った。

「ロベルト、肝心な報酬の話がまだじゃないか」

ウンベルトが弟を引きとめた。

ライモンディはドアノブに手をかけながら弱々しく振り返った。その顔は真っ青だった。瞳はいつもの輝きを失い、死んだように無表情だった。

「兄さんに任せるよ。僕はもう――何を言ったらいいか分からない」

そう言ってライモンディは立ち去った。

あまりにも鮮烈な成り行きに私はただ呆然として閉まった扉を見つめた。


「では、例の報酬の件ですが――」

ウンベルトが仕切り直すように言いかけると、今度はオクタヴィアが立ち上がった。

「後はあなた方で決めて下さい。わたしは下のカフェで待っています」

オクタヴィアはロメオにそう言い残すと出て行ってしまった。


主役の二人が退場し、脇役であるはずの私とロメオとウンベルトがこの重大な課題と共に残された。

ロメオは今朝決めた通り、土地の報酬と相談料を合わせて百万ユーロでどうかと切り出した。先ほどの衝撃的な結末の余韻からか、ウンベルトは毒気を抜かれたように穏やかだった。彼は先日の会見の時とは別人のようなしおらしさで私達の提案を受け入れた。


「言っておきますが、私はこの提案に心から賛同しているわけではありません。私は弟の意志を尊重して、あえて貴方方の要求に応じることにしたのです」

ウンベルトは最後にこう付け加えた。

更に自分も弟と同様、今後、私達が立ち向かうであろう様々な問題、建物の修復や文化財保護局の許可、諸々の手続きに力を貸すつもりだと言い添えた。


報酬の話がまとまると、私達はオクタヴィアが待つ事務所の下にあるカフェに行った。オクタヴィアは言いたい事を全て吐き出してすっきりしたのか、憑き物が落ちたように和やかになっていた。

報酬の問題がとりあえず片付くと、今度は遺産分割協議の問題が急浮上した。

レオナルド、クラウディオ・メンギーニが今日の協議に出席しないとごね出したそうだが、彼等が本気で欠席するつもりなら大問題である。予定なら協議は二時に公証人事務所で行われるはずなのだ。


そこにウンベルト・ライモンディがやって来た。

「ディ・マウロ弁護士と連絡が取れました。メンギーニ側も、レオナルド・メンギーニとクラウディオ・メンギーニ以外は全員来るそうですから、我々も二時に公証人事務所に行きましょう。

今、メンギーニの弁護士が必死に二人を説得しているそうですよ。

なに、心配しなくても、何とかなると思いますよ」

ウンベルトは楽観的だった。

「それから――」

ウンベルトはテーブルの上に置かれたオクタヴィアの手にそっと自分の手を重ねた。

「奥さん、どうか弟にさっきは言いすぎたと、本気ではなかったと言ってあげて下さい。弟はひどいショックを受けています。

『オクタヴィアさんはもう僕を信用してくれない。どうしたらいいか分からない――』と。

あんな弟を見るのは初めてです。貴女はご存知ないかもしれませんが、弟のこの相続問題への入れ込み方は尋常ではなかった。特に貴女がアンジェリ氏の娘かもしれないという情報を得てからは、病院や、看護婦、貴女の里親の家族の聞き込みに奔走し、土日を返上し、夜寝る間も惜しんで働きました。昼も夜も、食事中も貴女のことばかり話していました。

貴女の先ほどの言葉で、弟はこの一年間を全て否定されたように感じています。

どうか弟と和解して下さい」

ウンベルトはそう言うと頭を下げた。

オクタヴィアはしばらく黙っていたが、やがて決心したように立ち上がった。

「分かりました。先ほどはわたしも興奮していました。

サン・マモロの件はともかくとして、ライモンディ公証人のお力なくしては、とてもここまで漕ぎ着けることなど出来なかったことはよく判っています」

そう言うと、一人で公証人事務所に戻っていった。


再び私達二人と残されたウンベルト・ライモンディは傍の椅子に腰掛けた。

「私とロベルトは幼い頃、両親を亡くしましてね。両親は人間的には素晴らしい人達でしたが、金銭的なものは何も残してくれませんでした。

ですから私達は、自分たちの境遇を変えるためにがむしゃらに勉強して、必死に努力しました。やがて私は事業家、ロベルトは法律家と言うそれぞれ別々の道を歩みましたが、私達兄弟はいつも同じ志を持ち、助け合ってきたのです。私は長い間、弟を見てきましたが、弟がこれほどひとつのケースにのめりこんだのは始めてですよ」

ウンベルトは私達に語りかけるというより、自分自身に言い聞かせるようにしゃべっていた。

――そんなに悪い人ではないのかもしれない――

私は少しだけそんな風に思った。


今日、私の前にいるのは、あれ程恐ろしく感じられた冷酷で鬼のような事業家ではなく、弟想いの、しっかり者の兄だった。


私達はカフェで簡単な昼食を取ると連れ立って事務所に戻った。ライモンディが電話で怒鳴っている声が奥の方から聞こえた。どうやら弁護士と話しているようだった。

オクタヴィアはミーティングルームの片隅にちょこんと座っていたが、私達を見ると、意味ありげに頷いた。どうやらライモンディとは一応和解したようだ。

こうしてオクタヴィアの反乱によって勃発した内乱はひとまず和平が成立した。後は、外敵メンギーニ達との戦いを終結させなければならない。


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