対決
その七月十四日、朝からうだるような真夏日だった。私はミラノ中央駅九時三十五分発の高速特急に乗った。ボローニャには十時四十五分の到着予定だ。
幸い列車の中は冷房が効いていた。私は背もたれに身を沈め、車窓から外の景色を眺めた。ミラノ‐ボローニャ間はずっと平野なので、景色も平坦である。これがボローニャを過ぎるとトスカーナ地方に向って丘陵が波打ち、起伏に富んだ景観に変わる。豊かな緑の丘が膨らんだかと思えば沈み、また膨らみ、その随所に険しい岩壁や絶壁が散りばめられ、時々これらの岩に今ではすっかり溶け込み、その一部になってしまっている石の住居跡や古城が現れ、窓の額縁をめまぐるしく彩る。
しかし残念ながらミラノ‐ボローニャ間の車窓は平凡でこれと言った見所はない。パルマやモデナなどの古都を通過するが、駅は旧市街から離れているので、町の珠玉は見えない。パルマのドゥオーモの屋根が僅かに一瞬覗くぐらいだ。後は殺風景な平原がただ延々と続く。景色もつまらないし、少し眠ろうかしらと、眼を閉じてみたが、これからの重大任務を思うと、気持ちが昂ぶってとても眠れなかった。昨晩も興奮してほとんど一睡も出来なかった。
彼等はどう出てくるのだろう?
そう言えばオクタヴィアはライモンディの兄ウンベルトにただならぬ恐怖心を抱いていた。
獲って食おうというんじゃないのだから、何も恐れることはない――
私は自分に言い聞かせた。
ロメオは前日、駅まで迎えをよこすようライモンディに頼んでくれたが、二人とも忙しくて迎えに来られないと言う返答だった。
ボローニャの駅に着くとタクシー乗り場に行ってみたが、長蛇の列が出来ていたので、タクシーは諦め、歩くことにした。
まだ午前中だと言うのに容赦なく降り注ぐ日差しが痛かった。
幸いボローニャには柱廊がある。私は駅前広場を大急いで横断すると逃げ込むように柱廊の影に入った。
三十分ほど歩くとライモンディの事務所に到着した。いつもの待合室に通されると先客の紳士が立ち上がった。紹介される前から私にはそれがウンベルト・ライモンディだと判った。
ウンベルトは五十代の長身の紳士だった。褐色の肌が健康的な弟のロベルトとは対照的に、その顔は蝋のように青白く、黒髪と黒い瞳がその蒼白さを一層際立たせており、冥界の人間のような印象を与えた。
「はじめまして、お嬢さん。いや奥様とお呼びするべきかな?」
ウンベルトは青白い顔に柔和な微笑みを浮かべて握手の手を差し伸べた。
「はじめまして――」
私はいささか身構えながらその手を握った。
「弟は依頼人と話し中です。もうすぐ終わると思いますが」
「問題ありません。それに私が少し早く着いてしまったようです」
約束の時間まで、まだ五分ある。
「まあ、お掛け下さい。弟はいつも仕事を詰め込み過ぎるんですよ」
ウンベルトは私に椅子を勧めると自分も再び腰を下ろした。
「私は昨晩アメリカから帰ったばかりなんですよ」
「はあ――。それは大変ですね」
私はお愛想で返事をする。
「明日にはまたドイツに発たなければならないんです。それで、どうしても今日でなければならなかったんです。弟が貴女をとても評価していて、貴女が来られるのなら、ロメオ君が来られなくても問題ないと言うものですから――貴女には迷惑だったかもしれませんが」
「ええ。本当は独りで来るのは気が進まなかったのです。でもこうしてやって来たのですから、お手柔らかにお願いしますね」
私の言葉にウンベルトは笑った。
「正直な方ですね」
私が黙っているとウンベルトは話題を変えた。
「アメリカでは『ノブ』と言う日本食レストランによく行くんですよ。確かミラノにもありますね」
「ええ。アルマーニのブティックの中にありますね」
『ノブ』はミラノでもスノッブなミラネーゼが出入りする超高級日本食レストランである。
「私は日本食が大好きで、特にお寿司が好きで色々な日本食レストランを試しましたが、『ノブ』が一番ですね。アメリカの日本食レストランは質が高いのですが、イタリアはまだまだ駄目ですね。よく中国人が経営する日本食レストランがありますが、あれは頂けない。食べられたものではありませんよ」
「日本に行かれたことはありますか?」
「残念ながらまだなんです。ご覧の通り私は仕事で世界中を飛びまわっているのですが、日本はまだ行った事がないんですよ。でも近いうちに必ず行ってみたいと思っています」
「もし行かれたら是非、築地でお寿司を味わってみてください。違いが分かって頂けると思います」
ウンベルトは最もだと言わんばかりに頷いた。
それから話題は日本建築に移行した。
様々な文化に通じ、教養と知性を備えたウンベルトは話し相手としては申し分なかった。オクタヴィアの話から鬼のような人物を想像していた私は、ウンベルトとの穏やかな会話に花を咲かせながら内心ホッとしていた。
ようやく仕事を終えたロベルト・ライモンディが顔を出した。
「お待たせして申し訳ない。やあ、もう話を始めていたんですか?」
ライモンディは私とウンベルトが談笑しているのを見て驚いたようだ。
「ええ。色々な話をしましたよ」
ウンベルトは愉快そうに微笑んだ。
「お寿司の話や日本と西洋の建築の話、着物の話。そうですね」
「はい。おかげでちっとも退屈せずに待つ事が出来ました」
私が軽い皮肉を込めてそう言うと、ライモンディは頭を掻いた。
「いや、長らくお待たせして本当に申し訳ない」
私達はミーティングルームに移動した。
着席するとすぐに本題に入った。まず口火を切ったのはライモンディだ。
「先日の貴女とロメオ君からの提案について兄と話し合いました」
そう言うと促すように兄を見た。ウンベルトが弟の言葉を引き継いだ。
「貴女方の最初の提案は『米の水路』を以前、ゴベッティ通りの全区画で実行しようとしていたように、五十パーセントを我々が購入し、地価を上げて高値で売り、売却金を分けると言うことですね」
「そうです」
「この提案には我々は賛成です」
「本当ですか?」
私は嬉しそうに声を弾ませた。
「勿論です。『米の水路』はかなりの潜在価値を秘めた土地です。やりようによっては三~四十パーセントの値上げが見込めます」
「そうですか――」
私は土地のことはよく判らない。しかし彼等がこちらの提案に応じたと言うことで、私はひとまず安堵した。
ウンベルトは手元の書類に目を通すようにうつむきながら続けた。
「それから二番目の提案ですが――」
ウンベルトの語調は一句一句搾り出すようなゆっくりとした調子に変わった。
「弟の話によると貴女方は我々が要求している報酬百万ユーロを八十万ユーロにして欲しいと言うことでしたね?」
「そうです」
ウンベルトは顔を上げた。
「それは無理な相談です」
「――」
その瞬間、それまで順調に回っていた歯車が、突然噛み合わせを止め、カタカタと止まった。
「いいですか?私はオクタヴィアさんとお話した時、十万ユーロ負けて欲しいと言われて、十万ユーロならと割引に同意しました。断っておきますが私は本来、割引など決してしないのです。それをあえて十万ユーロ割引して差し上げた。そうしたら今度は貴女が二十万ユーロ割引しろとおっしゃる。我々は魚の叩き売りをしているのではありません。十万、二十万と値下げ出来るものではないと言う事をお分かり頂きたい」
魚の叩き売りと云われて私は頭に血が上った。何と無礼な言い草だろう。
私がどう返してやろうかと思案しながら黙っているとウンベルトは更に続けた。
「オクタヴィアさんに十万ユーロ負けて差し上げましょうと言った後、私は念を押しました。これでよろしいですか、ご満足なさいましたか、と。オクタヴィアさんははっきり『はい』と返事をして契約書に署名したのです」
「貴方はオクタヴィアが契約書に署名したと、まるで鬼の首を取ったようにおっしゃいますけど、そもそもその契約書が問題なんです。オクタヴィア一人を呼び出してあのような契約書に署名させるなんて、フェアなやり方ではありませんね」
これは効果覿面だった。今まで冷然と構えていたウンベルトの顔色が変わった。
「しかし、オクタヴィアさんは署名したんですよ」
「判っています。でも彼女をご覧になったでしょう?
貴方だってお分かりのはずです。オクタヴィアに署名させるのは、小学生の子供に署名させるより簡単だと言う事が」
「それでも署名は署名です」
「そんなことは判っています。私は良心の話をしているんです。
貴方に本当にこの額が妥当だと思っていらっしゃるんですか?」
「勿論です。いいですか?
ゴベッティ通りの二区画は元々三百八十万ユーロでした」
ウンベルトは子供をあやすようにそう言うと、前の紙に3,800,000と数字を記した。
「私は人脈を駆使して市に六百万ユーロで売却すると言う確約を取り付けた」
と、先ほどの数字の下に、6,000,000と書き足した。
「差額は幾らになりますか?」
ウンベルトは猫なで声でそう尋ねた。
「二百二十万ユーロです」
私は仕方なくそう答えた。
「そうです。二百二十万ユーロです」
ウンベルトを我が意を得たりとばかりにそう言うと、今度は契約書の一ページを私に見せた。ゴベッティ通り三区画に関する最初の契約書である。
彼はその中の一文を指した。
「ここに、土地売却で得られる利益は双方の間で二等分するとありますね」
「ですから、それは貴方方が土地の五十パーセントを購入した場合でしょう?
結局貴方方は土地を購入しなかった訳ですから、差額の半分と言う商談は成立しません」
「しかし、第二の契約書にもそう書いてあるんですよ」
ウンベルトは『米の水路』の契約書を指し示した。
「ここに、経済的条件は三月二十五日付けの契約書の条項に則る事とあります」
「それでも、これはあくまでのゴベッティ通り三区画の売買が成立した場合です。ここにはゴベッティ通りの売買なく差額の五十パーセントをお支払いしなければならないなんて何処にも書いてありません」
私は負けずに言い返した。怒りと興奮で私の心臓は早鐘のように高鳴っていた。
「この『米の水路』の契約書をよく御覧なさい。ここにオクタヴィア・セーラさんは我々に対して経済的付与を行うと言う行があります」
ウンベルトは条項の一文を指し示した。
――オクタヴィア・セーラはウンベルト・ライモンディ、及びマッダレーナ・パヴェーゼに対し、土地の有効化プロジェクト、或いはゴベッティ通りの土地購入辞退に際し、必要経費の払い戻し、及び経済的付与を行うことに同意する――
と言う一文が目に入った。
「これが百十万ユーロお支払いすると言う事だと?」
「その通りです」
「でも正確な金額はどこにも書かれていませんよね?」
「でもそう言うことなんです。つまりゴベッティ通り三区画の契約で同意した報酬と言う意味です」
「そんな馬鹿な――」
私は唇を噛んだ。
確かにこの契約書を通り一遍に読む限り、具体的な報酬を示す文章は何処にも見当たらない。しかし、このような曖昧な語句や文章が随所に散りばめられ、それらにこのような意味があろうとは、法律に詳しくない私達にどうして予測出来ただろう。
これではオクタヴィアの法的無知に付け込んだ詐欺ではないかと、私は愕然とした。
「私は弟に頼まれ、この土地の話を引き受けて以来、一ヶ月間これだけのために奔走しました」
「百万ユーロは大金です。普通の人なら一生身を粉にして働いてもこのような大金、見ることさえも叶わないでしょう。貴方が私達のために大変骨を折ってくださったことは感謝しています。その成果も勿論評価します。でも一ヶ月の働きで百万ユーロとは、法外な金額だと思いませんか?」
「いいえ。私は妥当だと思いますよ。それに百万ユーロといいますが弟と二人で百万ユーロですから私の取り分は五十万ユーロですよ」
「貴方方の間でどう分けようとそんな事はこちらの問題ではありません。それに五十万ユーロだって大金です。市内に大きな豪邸が一軒買える金額です」
「貴方はご存知ないかもしれませんが、商談は難航しました。市はアンジェリ氏の生前から再三、この土地について交渉したいと言う通知を送っていましたが、アンジェリ氏はそれを悉く無視していました。だから、市の方では低価格で強制収用する決断を下していたんです。
ですから私がこの商談を持ち込んだ時、何を今更と彼等の反応は冷淡でした。しかし私は人脈を駆使し、何とかこちらに有利な、それも飛び切り有利な条件で話をまとめることに成功しました。私が長年築き上げてきた人脈をなくして、今回の成功はあり得ませんでした。しかも、わたしが一銭も使わずに、これだけの話をこれほど短期間でまとめたと思いますか?
物事を通常より早く進めるにはどうしてもお金がかかるのです」
「賄賂を――支払ったということですか?」
「賄賂とは、厭な言葉ですね。いや、手数料と言っておきましょう。
しかし、他の人では幾らこの『手数料』を支払ったところで、とてもこうは行かなかったでしょう。これは私だからこそ成し遂げられたことなのです」
「貴方のお力は、勿論よく判りました。それでも百万ユーロは高すぎます」
「それでは、この商談を中止にしますか?」
ウンベルトは声色を変えた。
「なんですって?」
「私にはこの話を破談にすることも出来るんですよ」
私は愕然としてウンベルトの目の奥底に潜む妖しい光を見つめた。
何と言う変わりようだろう。先ほど待合室で談笑した教養溢れる柔和な紳士はもう何処にも居ない。私の前にいるのは欲にとりつかれた冷徹な実業家だった。
私は恐ろしい物を見るように黙ってウンベルトを見つめた。
「私の一言で、この話を全く無かったことにすることも出来るんですよ。そうなったら貴女はどうするおつもりですか?
お一人で市と話し合って、もう一度商談をまとめますか?」
ウンベルトの口調は不気味なほど優しかった。
私は猫が鼠をいたぶるようだと思った。私は、私一人をこの場に送り込んだロメオを恨んだ。
「では、九十万ユーロで如何ですか?」
私は身を削る思いで妥協策を提案した。
「いいえ、駄目です」
ウンベルト・ライモンディは冷たく突っぱねた。
「私は何もただで負けて欲しいと言っているのではありません。割引して頂く代わり、領収書を頂かないと言っているんです。税金を考えれば貴方に入る金額は変わりません。いえ、むしろ純利が多くなるのではないですか?」
「お嬢さん。私は会社を持っていますから、税金の心配はいらないんですよ」
「では百万ユーロお支払いしたら、百万ユーロの領収書を出して頂けるんですね?」
ウンベルトは言葉に詰まった。
「それは――全額は無理ですが、一部領収書をお出しします」
私は笑った。
「それでは話が違います。百万ユーロお支払いするなら、百万ユーロの領収書を出して頂かなくては」
「兄さん。もういいじゃないか、九十万ユーロで手を打ちましょう」
それまで黙っていたライモンディが見かねたように口を挟んだ。
「いいや、ロベルト、私は自分の取り分が一万ユーロだって減るのは我慢できない」
ウンベルトはまるで駄々子のようだった。
異様な光を帯びた眼球は私をぞっとさせた。
「それなら、僕は四十万ユーロで構わない。そうすれば兄さんの取り分は変わらないでしょう?」
ライモンディはもううんざりと言わんばかりにそう言った。
「いや。それはいけない。お前が犠牲になることはない」
「いいんですよ。この話はそう言うことで終わりにしましょう」
ウンベルトは納得のいかぬ様子だったが、ライモンディが断固たる態度なのを見て溜息をついた。
「判りました。ロベルトがそう言うのなら仕方がない。では土地の報酬の件は九十万ユーロで手を打ちましょう。ところでオクタヴィアさんはロベルトの一年間の相談料を幾ら支払って下さるつもりでしょうか?」
私は言葉を失った。
「相談料?」
「勿論です。まさか九十万ユーロに含まれていると思ったんですか?」
「当然です。九十万ユーロは全て込みのお値段だと思っていました。途方もない金額です」
ウンベルトは笑った。
「そう。我々は途方もない金額について議論しています。でもこの九十万ユーロはあくまでも土地の商談をまとめた報酬です。相談料は関係ありません。
ロベルトはこの一年間、オクタヴィアさんのために心身を砕き、最高の結果をもたらしました。私が考えている金額を教えましょうか?」
ウンベルトは紙に三十万と数字を書いた。
「土地の報酬が九十万ユーロですから――」
ウンベルトはその下に九十万と書き足してアンダーラインを引いた。
「合計は――」
ラインの下に百二十万と書き記した。
「こうなります」
私は声が出なかった。
百万を八十万に負けてもらう目的であったはずが、これでは振り出しに戻ってしまったどころか、前より増えてしまった。
私が言葉もなく呆然としていると、ウンベルトは更に続けた。
「私はこれでも安いくらいだと思っているんですよ。示談書を作った弁護士の報酬は幾らでしたか?三十万ユーロです。彼等がほんの二ヶ月ほどしか仕事をしていない。それで三十万ユーロです。それなら一年間オクタヴィアさんのために奔走したロベルトに見合う報酬は幾らでしょうか?
貴女は聡明な方だからお分かりになると思いますが」
「私はてっきり相談料も含まれていると思っていました――」
「それはあり得ない」
今度はライモンディが口を挟んだ。
「私はこの一年間、寝る間も惜しんでオクタヴィアさんのために働きました。
弁護士達が担当したのはほんの一部です。ここに漕ぎ着けるまで長い道程の全てを知っているのは私だけです。
私はまず遺言書を分析し、資産の鑑定を行い、そしてオクタヴィアさんが実はロレンツォ氏の娘だと言う事実を掴んだのです。しかもオクタヴィアさんは最初、このことを公にすることを頑なに拒んでいました。
貴女だってご存知でしょう、オクタヴィアさんの性格を?
彼女を説得し、なだめすかして一大決心をさせるのは並大抵のことではありませんでした。私はこの一年足らずの間に実に千本以上の電話をかけ、市役所や法律事務所や裁判所を奔走し、ようやくこの結果を手に入れたのです。
私は最初、これほど深入りするつもりはありませんでした。サン・マモロの物件を売って頂くために、遺言書の解釈を手助け出来ればと申し出たのが始まりです。
しかし、色々調査するうちに、思いがけない事実が次々に明らかになりました。石炭を掘っていたら、埋もれた古代遺跡を発掘してしまったようなものです。
しかも、掘り下げれば掘り下げるほど新しい発見があった。それで私はすっかりこの相続争いの虜になってしまったのです」
「これでお分かりでしょう?弟の功績が。
然るべき報酬に値すると思いませんか?
まさか貴女方は弟の報酬を払いたくないと言うつもりですか?
弁護士は三ヶ月で三十万ユーロ受け取ったんですよ」
ウンベルトが得意げに言った。
それなら一ヶ月で九十万ユーロも請求するウンベルトはどうだろう。そもそもウンベルトの報酬が法外に高いために真の功労者であるロベルト・ライモンディの報酬が減るのだろうと私は言いたかった。
「私は九十万ユーロには公証人の相談料も当然含まれていると思いました。オクタヴィアだってそうです。だからこの金額にしぶしぶ同意したんです」
「納得頂けないなら、弁護士に電話して、オクタヴィアさんの決心が付くまで分割協議を延期してもらうまでです」
ウンベルトは脅すような口調になった。
「脅迫なさるんですか?よくもそんな事が――」
私は立ち上がってウンベルトを睨みつけた。
私には判った。諸悪の根源が。
ロベルト・ライモンディは清廉潔白とまでは行かないにしても、公明正大な人物で、自分の仕事に信念と誇りを持っていることは間違いないだろう。
しかし兄ウンベルトは違う。この男は誇りも信念も微塵ほども持ち合わせていない。
徹底した金儲け至上主義で手段を選ばない非情な男。
おそらくライモンディからオクタヴィアの話を聞かされたウンベルトは弟の依頼人がまたとない金脈だと知った。そうして横から割り込み、便乗して大金をせしめようとしているのだ。
以前、ロメオからライモンディ兄弟は早くから両親を失くした孤児で、ずっと兄弟二人で手を取り合いながら生きてきたと言う話を聞いたことがある。
だからこそ、ライモンディは兄にも便宜を図ろうとしたのかもしれない。完璧なライモンディに唯一のミスがあったとしたら、この一件に兄を巻き込んだことだろう。
「やめてください、兄さん」
ライモンディが兄を遮った。
「遺産協議はもう二十五日に決まっています。せっかくここまで漕ぎ着けたのに、保留するなんてとんでもないことです」
「しかしロベルト――」
ライモンディは顔を上げて私を見た。
「私の相談料については、オクタヴィアさんの判断にお任せします。オクタヴィアさんが支払いたい額だけ支払えばいい。彼女がもし相談料は支払えないと言うなら、仕方がありません。私はオクタヴィアさんとの間に相談役の契約書を一切取り交わしていませんから、彼女が払いたくないと言うならそれまでです」
ライモンディは投げやりな調子でそう言った。
「それでは、いつオクタヴィアさんの返事を頂けますか?」
ウンベルトが割って入ってきた。
「さあ――彼女は相談料も全て込みで百万ユーロだと信じていましたから、そうではないと説明しなければなりません」
「すぐに説明して頂き、返事をお聞かせ頂ければ嬉しいです」
ウンベルトは口元に薄笑いを浮かべた。
「ただし、電話はいけません」
私はびっくりした。
「どうしてですか?」
「最近、財務警察の取り締まりが厳しく、電話を盗聴していることがあるんです。
ですから金額などを絶対電話で伝えてはいけません。勿論メールなど、書簡に残すなどもっての他です」
ウンベルトは真剣だった。
呆れてものが言えない。
つまり盗聴されたら困るようなことをやっているということではないか?
会社だから領収書を出すのは問題ないなどと言って、やはり脱税するつもりではないか?
それどころかこのような法外な報酬を請求すること自体が違法なのではないかと思った。しかし、彼には商談を破談にすると言う切り札がある。
「オクタヴィアは今、サンレモに行っています。二十四日まで戻らないと言っています。
電話が駄目なら伝言のしようがないじゃありませんか?」
「オクタヴィアさんに一度、ミラノに戻ってきてもらえばいいでしょう?」
「さあ。オクタヴィアは一度サンレモに行ってしまったからには梃子でも動かないと思いますけど――訊くだけ訊いてみます」
私はつっけんどんにそれだけ言うと出口に向かって突進した。
息が詰まりそうだった。これ以上、一秒たりともウンベルト・ライモンディと同じ空間にいることが耐えられなかった。
「わかりました。では朗報をお待ちしていますよ」
ウンベルトは尚も薄笑いを浮かべて私の手を握った。ライモンディは憔悴しきった様子で弱々しく微笑み、私を戸口まで送り出した。
高鳴る胸を押さえながら私は建物の外に飛び出した。
むせるような熱気が一気に襲い掛かってきた。三十五度を超える、おそらくこの夏一番の猛暑だろう。私はふらふらと歩き出したが、緊張の糸が切れたせいか、一気に噴出した疲労と殺人的な暑さで目眩がした。
この猛暑の中、遠路遥々ミラノからやってきた私に、水一杯勧めようとしなかった。
なんと心の無い、礼節を欠いた連中だろう。
思い返せば思い返すほど体の奥からムラムラと怒りがこみ上げてきた。
私は憤怒と暑さで噴火寸前だった。駅に向ってひたすら歩いたが、どこをどう歩いたか憶えていない。気が付けば高速特急の座席に力尽きたように座っていた。
ミラノ中央駅に着くと待ちかねたような顔をしたロメオの姿がプラットホームに見えた。
「どうだった?」
ロメオは心配そうに尋ねた。
その一言でそれまで私の体内に渦巻いていたマグマが出口を見つけて一気に噴火した。
私が興奮と怒りで全身を震わせながら事の次第を説明するのを黙って聞いていたロメオは次第に蒼ざめていった。ロメオは昨日まで楽観的に考えていたので、私の持ち帰った結果は、予想外だったに違いない。
「それじゃあ、彼等の要求は相談料と合わせて百二十万ユーロだと言うのかい?」
ロメオは声を震わせた。
「そうよ。ライモンディの兄ウンベルト・ライモンディ、あの男は金の亡者よ。
弟がいい依頼人を見つけたものだから、便乗して一儲けしようと企んでいるのよ。私、あの人は大嫌い!」
私は嫌悪感をあらわに吐き捨てるように言った。
しかしウンベルトは私達をそっとしておいてはくれなかった。
翌日、私の携帯電話の着信音が鳴った。
「ウンベルト・ライモンディです」
見覚えのない番号を着信した私の耳に発せられたウンベルト・ライモンディの威圧的な声は、悪魔の声のように私の鼓膜に響いた。
「オクタヴィアさんに話して頂けましたか?」
「いいえ。電話で伝えてはいけないのでしょう?
オクタヴィアはサンレモにいるんですよ」
私は怒りを抑えながら答えた。
「それは困りましたね。二十五日の遺産分割協議の前に何としてもお返事を頂かなくては。
貴女がサンレモまで行って、オクタヴィアさんに我々の要求を伝え、その後で彼女の返事を伝えにボローニャまで来て頂く訳にはいきませんか?」
私はあまりにも厚かましい申し出に呆れ返った。
「私は仕事をしているんですよ。そんな暇がある訳ないじゃないですか?」
私は出来るだけつっけんどんに答えた。
「それは困りましたね――」
沈黙が流れた。彼がどんなに困ろうと私の知ったことではない。
「私達にとって一番大切なのは遺産相続を終わらせることです。貴方方への報酬はその後でゆっくり話し合えばいいでしょう?私達は別に逃げも隠れもしません」
商談を破談にするという切り札を握っている内にこちらの商談もまとめてしまおうと言うウンベルト・ライモンディの意図がありありと感じ取れた。
ウンベルトの攻撃はそれだけで終わらなかった。その後、連日のようにメールを送りつけてきた。しかも遺産分割協議の前日二十四日に私達がボローニャにホテルを取り、報酬について話し合ってはどうかと言う呆れた内容だった。報酬の話は当日、遺産分割協議の後にゆっくり話し合えばよいことだ。わざわざホテル代を払ってまで協議の前に話し合いをしなければならない理由はない。
「私達が彼等の要求する報酬額に応じなければゴベッティ通りの商談を破談にすると脅すつもりなのよ。だから切り札を握っている間に決着をつけてしまいたいのよ」
私はロメオに言った。
遺産分割が終わってしまったら、彼の切り札は効力を失う。
私達がこれらのメールを無視し続けると、なりふりを構わない金の亡者と化したウンベルトはメールを印刷したものを、オクタヴィア宛に書留で送り付けてきた。
その間、ロベルト・ライモンディは沈黙を守り続けていた。
ロメオから事情を聞いたオクタヴィアは、サンレモからロベルト・ライモンディに電話し、二十五日の朝十時に彼の事務所に行くと告げた。
サンレモのオクタヴィアは――ロメオは、電話は使うなと言うウンベルト・ライモンディの戒めなどお構いなしに、事の一部始終を電話で洗いざらい母に伝えていた――珍しく落ち着いていた。サンレモの温暖な南国の空気が彼女を和ませたのかもしれない。
こうして、全ての決着が付く日、七月二十五日を待つばかりとなった。
私とロメオはミラノで、オクタヴィアはサンレモで、そしてライモンディ兄弟はボローニャで、まるで最後の審判の日を待つかのように、この七月二十五日を待った。




