貧乏くじ
それから数日間、ライモンディからの連絡はなかったが、ロメオは先日のライモンディの誠実な態度にすっかり安心し、これでもう話はまとまったものと楽観的に構えていた。
私はオクタヴィアの相談役を務めたことでボローニャ中に敵を作ったと言うライモンディの言葉が耳から離れなかった。
私はこの相続問題を内輪の出来事だと思っていた。
しかし実際は私達が顔も名前も知らない人々がこの相続争いの一部始終を知っていて、その行方に注目している。私達は誰も知らないが「彼等」は私達を知っているのだ。
私は大都市ミラノでは決して感じたことのない、中都市ボローニャの人間関係の狭さを今更ながらひしひしと感じた。そして、あたかも見えない敵に見張られているような、そんな言いようのない不気味さを覚えるのだった。
「アンジェリ家の不動産は個人の財産だけど、同時にボローニャの財産でもあるのよ」
私の話を聞いたナーディアはこう解説した。
確かに、バルベリア通りの建物もヴィラ・マルヴァジーアも個人の所有物である前にボローニャの景観の一部であり、この街の歴史の一頁である。
「ボローニャの人達は自分達の街が誇るこれらの文化遺産が、よそ者のミラネーゼ(ミラノっ子)の手に渡るのがくやしいのよ。だから相続争いが起きていることも、内心ではいい気味だと思っている。そうして貴方達がどう乗り切るか冷然と見ているんだわ」
なるほど、いかにもイタリア人のナーディアらしい発想である。
イタリア人は人一倍、地元意識が強い。イタリア人である以前にミラネーゼであり、ボロニェーゼであり、ロマーノ(ローマっ子)であり、ナポレターノ(ナポリっ子)なのだ。そしてお互いに大変な対抗意識を抱いている。だからこそ、地方対抗のサッカーリーグでこれほど盛り上がるのだ。
かく言うナーディアも出身を訊かれると、鬣のような髪を誇らしげにゆすって「レッチェーゼ(レッチェっ子)」と答える。そんな彼女が「ミラネーゼは――」と言う時、その唇の端に批判と対抗心がありありと込められているのだ。
そう考えると、ボローニャの文化遺産がミラネーゼの相続人に渡る事を、ボロニェーゼ達が苦々しく思っていることも何となく頷けるような気がした。
私はこれまでただ美しいとばかり思っていたボローニャの街の節々に陰湿な悪意が潜んでいる事を知った。そして街全体が私達を嘲笑っているような、そんな錯覚さえ覚えるのだった。
◇◆◆◆◇
七月の第二週目に入ると、オクタヴィアは全てを放り出し、独りサンレモに発ってしまった。
遺産分割協議を二十五日に控えているのでさすがに私は呆れ返ったが、ロメオ曰く、習慣はオクタヴィアの全てなのだ。七、八月をサンレモの別荘で過ごすのは、幼少の時からの習慣であり、これが犯されることは彼女にとって存在そのものを否定されることであり、人権を土足で踏みにじられることであり、一種の暴力ですらあるのだ。
そんな大げさな、と私は笑ったがロメオは真剣である。
確かに、オクタヴィアの惰性への並々ならぬ執着は彼女の行動の端々から私も感じていた。
毎朝定刻に同じカフェで全く同じメニューの朝食を取る。まずカップチーノとクロワッサンを注文し、クロワッサンを食べ終わってからエスプレッソコーヒーとオレンジ生ジュースを取る。今日は他に行ってみようとか、他のものを頼んでみようと言うファンタジーはないし、興味もない。
「二十四日にミラノに戻るって言っているよ。母さんは言い出したら梃子でも動かないから」
ロメオは溜息をついた。
ロレンツォの死によって発生したこれらの変化は、今まで限られた小さな世界で生きていた彼女にとって、いわば革命ほどの威力があったに違いない。
そう考えるとオクタヴィアが身も心も疲れきり、休息を取る為にサンレモに旅立ってしまった事も判ってあげなければいけないような気がした。オクタヴィアは金欲、物欲、食欲など世俗の欲を全く持ち合わせていなかった。だから今回の相続問題に関しても、莫大な遺産を相続すると言う万人の羨望を浴びるような幸運を幸運とは思わず、そのささやかな世界がかき乱された事に困惑し、ロレンツォが実は父親であったと言う天地がひっくり返るような事実を突きつけられ、怒り、動揺しているのだ。
その数日後にライモンディから連絡があった。報酬について、兄ウンベルトを交えて話し合いたいからボローニャに来て欲しいと言うのだ。
「ウンベルト・ライモンディが七月十三日にアメリカから帰国するので、十四日に会いたいと言ってきた。ただ僕は学校の成績会議があるからどうしても行けないんだ。ライモンディにそう言ったら、彼はこの間の食事以来、君をすっかり気に入っているから、全く問題ない。君と話をすると言っている」
「ちょっと待って――私独りで行けって言うの?」
私はびっくりして目を吊り上げた。
「嫌よ、そんなの。別に十四日じゃなくてもいいでしょう?ロメオも来られる日に変えてもらえばいいじゃない」
「それが、ウンベルト・ライモンディは十五日には仕事でまたドイツに行くそうなんだ。なにしろ仕事でほとんどイタリアにはいない人だから、この日を逃すとしばらくイタリアに帰って来ないそうなんだ」
「私は嫌よ」
私はきっぱりと言った。
「どうして私がライモンディ兄弟二人を相手にたった独りで話をつけなくちゃならないの?」
私は頭に血が上った。
「第一、これはロメオのお母さんの問題なのよ。彼女があんな契約書に署名さえしなければ、こんな苦労することはなかったのよ。その本人がサンレモで悠々とバカンスを楽しんでいるのに、どうして私がこんな厄介なことを押し付けられなくちゃならないのよ」
私は全身で怒りを表現して猛然と抗議した。
「判っている。本当に申し訳ないと思っているよ」
ロメオは本当に申し訳なさそうに言った。
「でもこの日は僕もどうしても外せないし、他に選択の余地がないんだ。この埋め合わせは絶対にする。君には幾らお礼をしてもし尽くせない程だ。母さんはああいう性格だから、人に礼をする事に気が回らない人だけど、僕が代わって必ず君に礼をする」
「お礼なんて――そんなことはどうでもいいのよ。別にお礼されたくて協力している訳じゃないもの――」
ロメオの必死の表情と切々とした口調に打たれ、私は思わずそう呟いた。
「じゃあ行ってくれるんだね?」
ロメオのホッしたような顔を見るともう厭とは言えなくなってしまった。
オクタヴィアとロメオは一人っ子である。共に甘やかされて育っており、本人達に自覚がないが、駄々をこねれば思い通りになることに慣れている。
一方、私は弟が二人いる長女である。子供の頃から母に「年長なんだから譲ってあげなさい、やってあげなさい」と言われて育ち、出来ないとすぐに放り出して泣いたり怒ったりする弟達の分までやってあげることに慣れてしまった、いわゆる長女気質である。実に損な性格だと思う。
昔から何でも手際よく、迅速にこなすのだけは得意だったので、よく要領がいいと言われるがそうではない。何でも人より早く終わるために、他の仕事や出来ない人の分まで体よく押し付けられるのだから、むしろ要領が悪いと言える。
私は物事を無理だとさっさと放り出して、毎回他人にやってもらう人の方がよっぽど要領がいいと思う。
今回も結局は私が折れ、この重い使命を心ならずも引き受けることになったのだ。




