米の水路
翌日の夜、オクタヴィアから相談料に関する報告を受けたロメオは暗い顔をして家に戻ってきた。
「ゴベッティ通りの土地の共同事業の契約書のことを覚えてる?」
「共同事業?」
「ほら、ライモンディの兄さんと奥さん名義の土地の売買前提契約書だよ」
「ああ、土地の五十パーセントを彼等が購入して、地価を上げ、売却金の儲けを二等分すると言う契約書ね?」
「昨日、母さんがライモンディの事務所に行ってみたら、報酬に関しては兄のウンベルト・ライモンディと話して欲しいと言われて、ウンベルトの方と今回の報酬について話したそうなんだ。
それで母さんが以前、署名した契約書によれば、ウンベルト・ライモンディがゴベッティ通りの二区画を元値の三百八十万ユーロから六百万ユーロまで地価を引き上げたから、差額二百二十万ユーロの半額の百十万ユーロが彼等の報酬だと言われたらしい。
母さんが昼間、ライモンディの所から電話してきて――その時は電話だったし、例によって母さんの説明も支離滅裂でよく判らなかったんだけど――相談料が百十万ユーロだってことは判ったから、とりあえず十万ユーロ割引して貰うように言ったんだ。
それで評価額が百三十五万ユーロの『米の水路』を彼等が購入して、報酬の百万ユーロを引いた差額の三十五万ユーロを僕達に支払うことになったって――」
「ちょっと待ってよ――それじゃあ何、ライモンディへの報酬は百万ユーロってこと?」
「勿論、僕もミラノに戻ってきた母さんからこの話を聞いた時、法外な値段だって怒ったよ。さっきライモンディにも電話して、もっと割引するように言った」
「それで――ライモンディは何て答えたの?」
「来週、僕と君でライモンディに会いに行くことになった。その時にせめてあと二十万ユーロ、割引して貰うように頼んでみよう」
「行くことになったって、私も行かなくちゃならないの?」
「ライモンディが僕達二人を昼食に招待してくれたから二人で行こう」」
私は溜息をついた。
「なんだか――気が進まないなあ――
あのライモンディ相手に報酬の交渉をするなんて――」
私は想像するだけで暗澹たる気分になった。
「それにしても、差額の半分を要求してくるなんてちょっと横暴ね」
私は考え込んだ。
「ねえ――お義母さんが署名した契約書、今持ってる?」
「いや、母さんが持っている」
「今思ったんだけど、あの契約書って確かゴベッティ通り三区画の売買仮契約書でしょう?」
「そうだよ。結局、三区画のうちの二区画をメンギーニが相続することになるから、この売買契約は成立しなかったけどね」
「そこよ。あの契約書によれば、ライモンディ達がゴベッティ通り三区画の五十パーセントを購入し、地価を上げるプロジェクトを実施する。それで地価が最高値に達したところで土地を全部売却して、売却金を半分ずつに分けると言うことだったわよね?」
「うん。確か土地の地価を上げるための調査や分析は全て彼等が行う。それに掛かる費用は二等分するという内容だった」
「ウンベルト・ライモンディは今回、メンギーニ達を説得する為にゴベッティ通りニ区画の地価を上げることに成功し、差額の半額を報酬として要求してきているのよね?」
「そうだよ。二百二十万ユーロの半額だから百十万ユーロだってね」
「それはおかしいと思う」
私はきっぱりと言った。
「おかしい?」
「そうよ。だって差額を山分けすると言うのは、あくまでもライモンディ達との間に土地の売買が成立した場合でしょう?
彼等は土地の半分を購入するわけだから、地価が上がれば儲けの半分は当然彼等のものになる。でも今回、土地の二区画はメンギーニが相続するわけだから、結局この土地売買は成立しなかったわけでしょう?
土地の所有者でもないのに、差額の半額を要求してくるなんておかしいと思う」
「そうか。差額を半分に分けるというのは、あくまでも彼等が土地の半分を購入した場合だ。彼等は土地を買っていないわけだし、差額の半額が彼等の報酬と言うのはおかしい。報酬を払うのは当然だけど、差額の半分と言うのは高すぎるよ」
「お義母さんが署名した契約書にそういう条項が含まれていない限りね」
「よし。じゃあ明日、母さんに契約書を見せてもらおう」
ロメオは少し元気付いた。
「ライモンディが僕達のためにしてくれたことは感謝しているし、評価もしている。
でも報酬が百万ユーロと言うのは納得がいかないよ」
ロメオはきっぱりと言った。
翌朝、いつものカフェで例のゴベッティ通りの売買前提契約書をオクタヴィアに見せてもらった私は注意深く目を通した。
「やっぱり思った通りね。儲けを五十パーセントずつ山分けすると言うのは、あくまでも彼等との間にこの土地の売買が成立した場合よ。彼等は土地の半分を買うわけだから、地価が上がったら儲けの半分をもらうのは当然よね。でも彼等は土地を買わなかったのよ。それなのに値上げした差額の半額を要求するのはおかしいでしょう?」
「あら、そう言えばそうね――」
オクタヴィアは拍子抜けするような返事をした。
「私、こう言ったことの報酬額についてはよく判らないけど、普通利益の十パーセントから、高くても二十五パーセントぐらいだと思うの。株売買のブローカーなんかもそうでしょう?
報酬は歩合制だけど、五十パーセントなんて聞いたことがない」
オクタヴィアは大きな眼を一層大きく見開いた。
「そうね。私も高すぎると言ったんだけど」
私とロメオは顔を見合わせた。
「母さん、僕達は来週、ライモンディと報酬について話し合うことになっている。僕は土地の差額二百二十万ユーロの二十五パーセントでどうか頼んでみるよ」
ロメオはきっぱりと言った。
「そう言えば先日、ボローニャに行った時に、もうひとつ署名した契約書があるのよ。」
オクタヴィアが思い出したように言った。
「家においてあるから取ってくるわね」
オクタヴィアは席をたつと、そそくさとカフェを出て行った。
「ちょっと――」
私はロメオの袖を掴んだ。
「もうひとつの契約書ってどういうこと?
この他にも署名した書類があるなんて聞いてないわよ」
「僕も初耳だよ。
母さん、ボローニャから戻ってきた時、『米の水路』を売却して、売値の百三十五万ユーロから報酬の百万ユーロを引いた差額の三十五万ユーロを彼等が支払うとことで話が付いたって言ったけど、何かに署名したなんて言ってなかった」
私は呆然として黙った。
やはりオクタヴィアを一人で行かせるべきではなかったのだ。
オクタヴィアが書類を持って戻ってきた。
「でもこれはわたし達だけの取り決めで重要な書類ではないのよ」
オクタヴィアはこともなげに言った。
私は書類の表題を見た。
『売買前提契約書』
ハンマーで頭をガツンと殴られた気分だった。
「重要な書類じゃないって――これ、思いっきり正式な契約書じゃない――」
私はナーディアの言葉を思い出した。
――仮契約と言うのは、違約金さえ払えは契約を破棄出来るけど、前提契約はいくら売主が違約金を払っても、買主側がそれに応じたくなければ契約の強制履行を要求出来るのよ。だから前提契約には決して安易に署名するべきではないのよ――
ロメオが契約書に目を通した。
「母さん、これ『米の水路』の売買前提契約書だよ。こんなものに署名したなんて一言も言わなかったじゃないか?」
ロメオは愕然とした。
「わたし達だけの取り決めだと思ったのよ。そんなに重要な書類なの?」
オクタヴィアは心から驚いたような顔をした。
「サン・マモロの物件の時に署名したのと同じ契約書だよ。ナーディアに散々言われたじゃないか。『前提契約書』は仮契約書と違って重要な法的効力のある契約書だから簡単に署名するなって。ライモンディが母さんに署名するように勧めたの?」
「いいえ――ライモンディは挨拶しに出てきただけで、昨日遅くまで仕事で大変疲れているから兄と話してくれと言うと自分の部屋に引きこもって、それっきり出て来なかったわ。だから私は兄のウンベルト・ライモンディと話したのよ」
当事者であるライモンディが別室に姿と消し、兄と二人きりにして契約書に署名させる。
実に狡猾なやり方だ――
私はライモンディの能力を評価していただけにこのだまし討ちのようなやり方に憤りを覚えた。
「母さんの相談役はロベルト・ライモンディなのに、報酬の話を兄の方とするなんて変じゃないか?」
「ライモンディはとても疲れているようだったわ。それに土地の売却話をまとめたのがウンベルトの方だからかしら――」
「でも彼等が要求してきている百万ユーロにはライモンディ公証人の一年間の相談料も当然含まれているんだろう?」
「確認はしなかったけど勿論、含まれていると思うわ」
オクタヴィアは怒ったように言った。
「ウンベルト・ライモンディってどんな人なの?」
それまで黙って二人の会話を聞いていた私は口を挟んだ。
「弟のロベルト・ライモンディとは全然違うタイプの人よ。ロベルト・ライモンディは熱血漢タイプで人間的だけど、兄の方は冷徹な感じの人だったわ。顔立ちはけっこうハンサムなのに皮膚に異常があるみたいね。顔や手が青白くて不気味な印象だったわ」
オクタヴィアはそう言うと恐ろしそうに眉をひそめた。
「最初、百十万ユーロと言われて、私が高すぎると言ったら、幾らならいいのかって言ったわ。それでロメオ、あなたに電話したのよ。あなたが言った通りに十万ユーロ、割引して欲しいといったら『判りました。十万ユーロ割引すればご満足ですか?』って薄笑いを浮かべながら言ったわ。落ち着いた、とても親切な口ぶりで、嫌とは言わせないような、そんな妙な説得力があった。
わたしが頷くと、ウンベルト・ライモンディは満足そうに微笑んで弟のロベルト・ライモンディの部屋に入っていったわ。それで数分後、この契約書を手に出てきたのよ。それでわたしに署名するように言ったわ。わたしは――何と言うか――促されるままに署名をして――」
ロメオは頭を抱えた。
「何てことだ――」
「あなたが十万ユーロ割引するように頼めと言うから、わたしは言われた通り割引するように頼んだわ」
オクタヴィアは抗議するように言った。
「書類に署名しろとは言わなかったよ。
何で家に持って帰って考えるって言わなかったんだ。小学生じゃあるまいし、その場で簡単に署名するような書類じゃないことぐらい判るだろう?」
ロメオは思わず声を荒げた。
「そんな言い方はないでしょう。あんな風に一対一で、契約書によれば報酬はこうだって有無を言わさぬ口調で言われて、とても嫌だと言える雰囲気ではなかったのよ」
オクタヴィアは怒って言い返した。
「やっぱりあの男は最初から私を騙して、財産の土地や建物をひとつずつ手に入れるつもりだったんだわ」
オクタヴィアは怒りに震えた。
「とにかく、僕がライモンディに報酬について交渉したいと言ったら、来週昼食でも一緒に取りながら話そうってわりと好意的だったよ。僕は兄のウンベルトの方は知らないけど、ライモンディはそんな悪人にはどうしても思えないよ」
ロメオは自分自身を納得させるような口調で言った。
一年間、全力を尽くしてメンギーニ一族からオクタヴィアを守ったライモンディをロメオは兄か父親のように慕っていた。だから、彼が営利目的だけで彼等母子に近づいたとは信じたくないのだろう。
「勝手にすればいいわ。わたしはもうライモンディは信用しないわ」
オクタヴィアはぞっとするほど暗い一瞥を私達に投げかけると、カフェを出て行った。
「お義母さん、相当怒っているわねえ」
ロメオは難しい顔をしてオクタヴィアが署名した『米の水路』の売買前提契約書を睨んでいた。
「これ、どう思う?」
私はロメオから渡された契約書に眼を通した。
「最悪ね」
私は溜息をついた。
「お義母さんはこれに署名することで、『米の水路』を三十五万ユーロでウンベルト・ライモンディに売り渡すことを約束してしまっているのよ。
もしゴベッティ通りのあの契約書だけなら、彼等との間に売買は成立しなかったわけだし、報酬が値上げした差額の五十パーセントなんておかしいと反論できた。
でもお義母さんがこの二番目の契約書に署名してしまった以上、彼等はこの契約書の行使を要求出来るのよ」
「でも母さんは何も分からずに署名したんだ。ウンベルト・ライモンディは母さんが一人なのをいい事に、うまく丸め込んで署名させたんだよ」
「分かっているわよ。でもお義母さんは立派な大人で、ピストルで脅されて署名したわけではない。自分の意志で署名したのよ。法律も裁判官も結局、そう言うところを見るのよ」
「それはそうだけど――」
ロメオは唇を噛んだ。
「やっぱり母さんを一人で行かせるべきではなかったんだ。ただ弁護士の報酬を支払いに行くだけだって言うから――まさかこんな事になるなんて――」
「いずれにしても、ゴベッティ通りの売買が成立しなかった以上、差額の半分が報酬と言うのは高すぎると思う。
来週、ライモンディのそこのところを強調して割引してもらうよう交渉するしかないわね。ライモンディだって筋道を立ててきちんと話し合えば、話が分からない相手ではないでしょう?」
「そう願うよ。来週、きちんと話をする。それに僕は『氷の水路』ではなく、現金で報酬を支払いたいと思っているんだ」
「現金で?」
「うん。『米の水路』もゴベッティ通りの一区画だ。メンギーニ達が相続する土地と同じような潜在価値を秘めた土地だよ。そんな土地を現在の評価額で売ってしまうのは惜しいと思うんだ」
「そうねえ。でもライモンディが承知するかしら?
彼は土地を欲しがっているんでしょう?」
「彼の報酬をどう言う形で支払おうが僕の自由だ。それに電話で『米の水路』は売りたくないから現金で支払いたいって言ったら、それは君の自由だって言っていたし」
私は思案した。
「ねえ――ゴベッティ通りの二区画の土地の地価を上げることに成功したのは、ファルネーゼの分析とウンベルト・ライモンディの人脈のおかげでしょう?
仮に『米の水路』を売らなかったとして、土地に素人で何のコネもない私達にそんな芸当は出来っこないと思う」
「確かに――」
「そこで今、思いついたんだけど、最初にゴベッティ通りの土地三区画で計画していた事をこの『米の水路』で実行するっていうのはどう?
つまり土地の五十パーセントをライモンディ達に売って、地価を上げ、最高値に達したら売却して利益を半分に分ける」
「それはいい考えだ。確かに僕らだけで『米の水路』の地価を上げるのは無理があるからね。じゃあ土地の値段が百三十五万ユーロだから、半額と言うことは六十七万五千ユーロか」
「そう――彼等が要求している報酬は百万ユーロでしょう。だから百万ユーロから六十七万五千ユーロを引いた三十二万五千ユーロを現金で支払う訳だけど、領収書は要らないからと言って二十万ユーロ割引して貰うのよ」
「なるほど。領収書を出さなければ税金が引かれない分、割引して貰うって訳か。」
「そうよ。彼等にとっては決して悪い条件ではないと思う。領収書を出せば税金で四十パーセントは持っていかれるはずだもの」
私は得意そうに言った。
「それに『米の水路』の評価値は百三十五万ユーロだけど、もしファルネーゼの分析でゴベッティ通りの二区画と同じように地価を上げる事が出来るのなら、そのほうが絶対に得でしょう?」
「よし。じゃあ来週、ライモンディに提案してみよう。潜在価値を秘めた『米の水路』をみすみす売ってしまうのは惜しいと思っていたんだ。ただし、僕達だけで地価を上げるのはどう考えても難しいしね」
私達はこんな風にあれこれ議論を繰り返しながら一週間を過ごした。




