代価
モルディブから戻った私達を待ち受けていたのは、レオナルド・メンギーニが未だに署名を済ませていないと言う無情な現実だった。
「ライモンディはかなり苛立っているよ」
ライモンディと電話で話したロメオは沈んだ声で言った。
ライモンディはオクタヴィア母子と心中しかねないほどこの相続問題にのめり込んでおり、誰よりも彼自身がこの一件に頭を悩ませていた。
「弁護士が何度催促の電話をしても、レオナルド・メンギーニは来週には行く、来週には行くとのらりくらりと受け答えをするだけで、一向に腰を上げる気配がないそうだよ。メンギーニ側のリッカルディ弁護士も彼の気紛れに振り回されてすっかり辟易しているらしい」
ロメオの口調は重かった。
モルディブでのひと時があまりにも美しく、夢のようだったので、イタリアに帰国したら示談書にすべての署名が揃っているのではないかと、夢の続きのようなことを考えていたのだが、そんな想いは無残にも打ち砕かれた。
「レオナルド・メンギーニは何を考えているのかしら?
今更考えが変わったって言うんじゃないんでしょう?」
「それはないみたいだよ。レオナルドは示談の内容自体には同意していて、それに変わりはないようだよ。だったらどうしてさっさと署名に行かないのか、向こうの弁護士も再三催促しているらしいけど――」
「そう――」
今はただ待つしかないのだろうか。
私にはレオナルド・メンギーニの真意が分からなかった。
示談の内容に同意していることに変わりはないと言っているらしいが、これ程もったいぶるのは、こちらに精神的な揺さぶりをかけて、条件をもっと良くしようともくろんでいるのかもしれない。
更に追い討ちをかけるように文化財保護局からヴィラ・マルヴァジーアの屋根の修理を要請する最終通告が送られてきた。
ロレンツォが亡くなってから、相続人達に修理を催促する通告はこれまでに何度も送られてきた。ボローニャ派絵画の原点となったフレスコ画がいくつもあるヴィラはボローニャ市にとって重要な文化財なのだ。
今回届いた書状は、これ以上放置するようなら管理能力がないとみなされ、市が没収すると言う厳しい内容だった。ヴィラを相続するのは確実にオクタヴィアだが、正式に相続し、所有者となるまで修復工事を着工することは出来ない。
オクタヴィアは遺産管理人のマリアンナ・コソットに相談し、文化財保護局に事情を説明し、猶予の延期を請う手紙を送った。
更に土地測量技師ファルネーゼに彼の友人の建築家を紹介してもらい、屋根修理の設計を進めてもらうことにした。設計図を作成し、文化財保護局から許可をもらうまで、数ヶ月かかるので、遺産分割が完了次第、工事を開始出来るようにするためである。
ファルネーゼの友人、ルーカ・ジョルジョーネは底抜けに明るい陽気な建築家で、私達はすぐに彼が気に入った。一目でヴィラ・マルヴァジーアに魅せられたこの人懐こい建築家は数日中に、構造設計技師と一緒に屋根の状態を調査すると約束した。
そうこうしている間に五月も終わってしまった。
レオナルド・メンギーニがようやく署名したと言う報せがライモンディから届いたのは六月頭のことだった。これによって翌月、七月二十五日に相続人全員が公証人事務所に集まり、正式な遺産分割協議書に署名することが決まった。
ホッと安堵したのもつかの間、新たな問題が私達を待ち受けていた。
「ライモンディの相談料のことなんだけど――」
そう言うロメオの表情は冴えなかった。
「彼は去年の夏からずっと僕達の相談役をしてくれているだろう?今回のゴベッティ通りの土地の件も含めて彼への謝礼が幾らになるのか、電話で聞いてみたんだ」
ロメオはここで苦々しそうに言葉を切った。
「そうしたら、心配するな、『米の水路』で話をつけようなんて言うんだ。僕が思うに、彼は謝礼として『米の水路』をまるまる持っていくつもりなんだろうけど、そうは行かないよ」
『米の水路』とはゴベッティ通りの三区画の中で、オクタヴィアが相続することになる残りの一区画である。昔、米の運搬に使った水路があることからこのような名前で呼ばれているのだ。
「『米の水路』の評価額って幾らなの?」
「ファルネーゼの鑑定では百三十五万ユーロだよ」
「百三十五万ユーロ!」
私は目を丸くした。
「まさか、いくら何でも相談料が百三十五万ユーロもするわけないじゃない?」
私はあり得ないという風に笑った。
百三十五万ユーロを現在のレートで換算すると約二億三千万円である。
「そうだよね――」
ロメオは相槌を打ったがその表情は冴えなかった。
オクタヴィアは既に二人の弁護士に十五万ユーロずつ、合わせて三十万ユーロの謝礼を支払っている。裁判にならず、示談で済んだことを考えると破格な値段である。
ロメオの話では、こう言った相続争いにかかる弁護士の相談料は遺産総額をベースに計算されるので、途方もない額になるのだそうだ。しかし、示談を作成し、交渉に努めたのはディ・マウロ弁護士で、刑事弁護士のダヴェーリオはディ・マウロの名が表に出せないために名前を貸してもらっただけの弁護士である。十五ユーロは高すぎるのではないか?
報酬の分け前にありつくために、友人のライモンディに頼んで、仲間に入れてもらったのではないかと勘繰りたくなる。
結局、ライモンディが三十万ユーロのうち、十万ユーロはメンギーニ側が支払うということで、話をまとめた。
しかも、弁護士達はオクタヴィアが支払う二十万ユーロのうち、領収書を出すのは六万ユーロだけで、残りの十四万ユーロは現金で支払うよう要求してきた。つまり、十四ユーロまるまる脱税すると言う訳だ。法律家の弁護士が堂々と法律違反とはと私はあきれたが、この国では弁護士の脱税は当たり前のことなのだ。
弁護士だけではない。開業医、公証人などの高額所得者は勿論、電気屋や左官屋、レストラン、バールに至るまで、個人で開業する職種の多くが公然と脱税している。
しかし、いかに理不尽であってもここで弁護士を逆らうことは出来ない。全てを握っているのは彼らなのだ。
オクタヴィアは彼等の機嫌を損ねたら、メンギーニ側に転じるのではないかと本気で恐れていた。
これが日本なら、そんな馬鹿な、と一笑に付すところだが、ここはイタリアである。被告と原告の弁護士が裏で繋がっていることなど、日常茶飯事なのだ。
現に、メンギーニ側のリッカルディ弁護士はディ・マウロの愛人でこちらに有利に事が運ぶよう動いている。
もし、これが逆だったら――そう考えると背筋が寒くなる。
「明日、母さんが署名の揃った示談書を受け取りにボローニャに行くんだ。その時、彼の報酬が幾らか訊いてくると言っていた」
「ロメオは一緒に行ってあげられないの?」
「明日から期末テストが始まるから無理だよ。君は明日、暇じゃないよね」
「仕事よ。暇なわけがないでしょう?」
「まあ、お金の受け渡し場所は銀行だし、ライモンディが付き添うそうだから大丈夫だよ」
ロメオは努めて明るい口調で言った。
しかしながら、私達は彼女を一人で行かせたことを後で深く後悔する羽目になるのだ。




