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アンジェリ家の遺産  作者: 如月鶯
第6章 遺産分割協議まで
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ハネムーン

五月九日、私とロメオはモルディブに向かう飛行機の中にいた。

五日前の五月四日に私達はミラノ市役所で結婚手続きを済ませ、晴れて入籍したのだ。

私もロメオも世間一般通りの形式には興味がなかったので、仰々しい式は挙げなかったが、心機一転も兼ねてハネムーンにかねてからの憧れの地、モルディブを選んだ。


旅行会社のツアー用チャーター便のため、ミラノ・マルペンサ空港第二ターミナルからの出発だった。二十一時発の遅い便だったが、空港はツアーの参加者である若いカップルで一杯だった。

十時間以上にも及ぶ空の旅は最悪だった。機内食はパサパサに干からびたラザニアだった。少しでも眠るために赤ワインを注文したが、酷い安物ワインで飲めた代物ではなかった。このワインのためか、干からびたラザニアが悪かったのか、食後程なくして私は激しい吐き気と腹痛に襲われた。


「当機は間もなく、マレ国際空港に着陸致します。どなた様もお座席にお戻りになり、シートベルトをお締め下さい」

機内アナウンスが流れた。


どうやら一睡も出来ぬまま、モルディブの首都マレに到着したようだ。

私は着陸態勢に入った飛行機の小窓から下を見下ろした。広大な碧い海に点々と浮かび上がる珊瑚礁の島々がまるで瑪瑙のように映え、紺碧の巨大なキャンパスに水色と白と緑が絶妙に混じり合う美しい斑模様を描いていた。


モルディブとはサンスクリット語で『島々の花輪』と言う意味を持つと、以前に何かで読んだ事がある。珊瑚礁の島々を海に散った花輪になぞらえてこのような名前がついたのだろう。

インド洋の真ん中に浮かぶモルディブの国土は約千二百もの島と環礁で形成されている。観光を主要産業とするこの国では、島の多くがリゾート島となっており、それぞれの島がひとつのホテルとなっていた。


空港に到着すると、アンナ・マリアと言う現地のイタリア人ガイドが私達を迎えた。


彼女の案内で私達は高速艇に乗り込み、宿泊先となるリゾート島に向かった。私達と共に島に向かうツアー客は三十人ほどで、いずでも若いカップルばかりだった。


私は甲板の席に座ると海の空気を一杯に吸い込んだ。熱帯気候独特の生暖かい風が頬を撫でる。小気味よいエンジン音が響き、船が出航した。頬に当たる水しぶきと潮風が心地よかった。世界一人口密度が高いと言われている首都マレは島全体がビルや建物でひしめき合うコンクリートの塊のような島だったが、マレを出航するとすぐに、熱帯樹で覆われた緑の島が左右に現れた。

ロメオは難しい顔をして何やら考え込んでいた。


「大丈夫。帰る頃にはレオナルド・メンギーニもきっと署名しているわよ」

私はロメオを慰めた。

「そうだね。ごめん、つい気になってしまって――」

ロメオははっと我に返ると気を取り直すように笑顔を見せた。


この美しい楽園にいても私達の心の奥には常に拭い去れない黒点があった。それはどんなに目を背けても決して消えることのない一点の染みのような存在で、紙にたらした一滴の墨汁のように、一瞬にして全てを真っ黒に染めてしまうような負の威力を持っていた。


――大丈夫。今頃きっと署名しているはず。

私は自分に言い聞かせた。

――考えないようにしなければ。


「イルカだ!イルカが跳ねた!」


甲板の反対側に座っていたカップルが歓声を上げた。

私達は振り返って歓声の先を目で追った。

イルカが元気よく水面から飛び出した。


「わあ――本当!イルカよ」

私は歓声を上げた。野生のイルカをこんなに間近で見るのは生まれて初めての体験である。

「本当だ。すごいなあ!」

ロメオも感嘆した。


宝石のように美しい緑の島々に混じって、灰色の煙をもくもくと吐き出す煙突の聳える島が見えてきた。


「あれはゴミ処理専用の島です。モルディブは首都の島、漁民の島、刑務所の島、リゾート島という風に、島ごとに役割が決まっています」

ガイドのアンナ・マリアが説明した。


島と環礁の間を走り抜けること三十分、ようやく正面に私達の泊まるリゾート島が見えてきた。島全体が熱帯樹でこんもりと覆われ、まるで水面に浮ぶジャングルのようだった。

高速艇は速度を落とし、島を囲むラグーンの中に入っていった。淡い碧色の海水がアクアマリンのように煌きながらゆらゆらと揺れている。

地上の楽園――まさにそんな言葉がぴったりだと私は思った。


「綺麗ねえ――」

私は水底の白い砂に今にも手が届きそうなほど透き通った水面をうっとりと見つめた。

島に上陸した私達は椰子の木に囲まれた藁葺屋根の大きなコテージに案内された。


ここがホテルの本館で、フロント、ロビーホール、ラウンジバー、レストランなどがあった。丈の長い麻の上衣に身を包んだインド系のホテルボーイが私達の荷物を黙々とロビーに運び込んでいた。私達はここで食事の時間や島の情報などの説明を受けた後、各自が宿泊するコテージに案内された。

本館の周りに散在する小奇麗なコテージは砂浜に面したテラスが付いており、お互いのコテージが見えないように熱帯樹が巧い具合に植えられていた。


「いい所ねえ」

私はテラスにある籐細工のロッキングチェアに身を沈めながら言った。

ここからはアクアマリンブルーに煌く海がその遥か彼方の水平線まで見渡せる。

太陽の光を一杯に反射した真珠色の波が眩しい輝きを放っていた。


「本当だ――今はただ全てを忘れてこのひと時を満喫したいよ」

ロメオは眩しそうに目を細めながら言った。


モルディブで私達はまるで夢のような時間を過ごした。

最初の二日間はレオナルド・メンギーニの事がどうしてもチラチラと頭をかすめたが、三日もたつと私達はこの楽園でのバカンスに没頭し、相続争いのことは考えなくなった。私達は透明な海でダイビングを楽しみ、色鮮やかな珊瑚や熱帯魚の間をまるで人魚のように泳ぎ回った。


ホテルの従業員達は寡黙だったが、サービスは充実していた。

彼等は普段ほとんどしゃべらなかったが、こちらから話しかけると白い歯をニッと剥き出して人懐こい笑顔を見せた。女性スタッフが一人もいないのはここがイスラム教の国だからだろう。


夕暮れになると球状に伸びた空が燃えるような緋色に染まり、太陽の最後の輝きが広大な海に飲み込まれた後も、深紅の余韻がいつまでも残った。

夜は砂浜に用意されたテーブルで蝋燭の灯の下、ハイビスカスの花に囲まれながら二人だけのディナーを楽しんだ。


「来てよかったわね」

ディナーを終え、砂浜で夜風に当たりながら私はしみじみと言った。


夜の海が蒼ざめた月光を浴びて銀の鱗のようにキラキラと輝いていた。

鬱蒼と茂った熱帯樹の黒々としたシルエットがまるで生き物のように揺れ動いていた。


「本当だ。こんなにリラックスしたのは、久しぶりだよ」

ロメオは数日前とは別人のような穏やかな顔をしていた。


この相続問題はまるで慢性ウィルスのように、じわじわと私達の心の奥底に入り込み、いつの間にか心の平穏を蝕んでいたのかもしれない。

十日間のバカンスは瞬く間に過ぎ去り、私達は後ろ髪を引かれるような思いで帰途についた。


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