弁護士の作戦
二月十一日、私達は認知訴訟について弁護士達と話し合うためにボローニャに向かった。
「この二週間の間、二人の弁護士とライモンディで母さんの死後認知訴訟について話し合ったそうだよ。今日はその結果を聞きに行くんだ」
ハンドルを握りながらロメオは言った。
「わたしは――もうあの男を信用しないわ」
オクタヴィアの表情は硬かった。
「母さんも悪いんだよ。あんな重要な書類をよく読みもせずに安易に署名するんだから」
「わたしはライモンディを信じきっていたのよ。
だから疑うことなく署名したのよ」
オクタヴィアは言い返した。
「ライモンディはサン・マモロの物件の仮契約書だと言って署名させたんでしょう?
そしたら普通、物件全体が対象になっていると考えるべきよ」
私は言った。
「わたしは以前から、ライモンディにサン・マモロの物件を売ってもいいけど元僧院の棟だけは売れないって言っていたのよ。彼だってわたしが全てを売る気がないことは判っていたはずだわ。だから当然、わたしの意向を汲んで元僧院の建物が除外されていると思ったのよ」
「だったらどうして署名する前にそのことを確認しないんだよ?
第一、契約書をちゃんと読んでいたら元僧院も売却物件に含まれているって分かっただろう?」
ロメオが諌めるように言った。
「あの時は――なんだかそんなことを訊けない雰囲気だったのよ。ライモンディはわたしが書類に署名するや否や携帯電話で誰かに連絡したわ。
そしたら三分もたたない内にライモンディのお兄さんと奥さんが事務所に現れて買主の欄に署名したのよ。おそらく彼等は事務所の下のカフェでわたしは署名するのを待っていたのよ。それでわたしが署名したらすぐに事務所に来る手はずになっていたんだわ」
オクタヴィアの瞳は怒りに燃えていた。
私は溜息をついた。
オクタヴィアの気持ちはよく判る。しかし銀行からの融資の返済や、これからかかるであろう弁護士の費用を考えると、仮契約によってまとまった前金を得たことは正解だと思った。
それにライモンディが元僧院の棟を除く、二棟だけの売買に応じたとは思えない。彼がサン・マモロの建物をどうしたいのか定かではないが、ひとつ確実なことは大きな中庭を駐車場にするつもりだと言うことだ。中庭全体を駐車場にするには全ての棟の所有権を握る必要がある。
何よりも遺産分割協議はまだ終わっていない。
メンギーニ達を相手にオクタヴィアがアンジェリ家の不動産の中で最も価値の高いバルベリア通りとサン・マモロ通りの物件をすんなり相続出来る保証はない。
確実に購入出来るかどうか分からない物件に前金として五十万ユーロも支払ってくれる気前の良い購入者は他にいるとは思えない。
ライモンディのこの物件に対する思い入れがそれほど強いということだろう。
「とにかく、まだ売買契約書に署名したわけじゃないんだから、今は事を荒立てずに、相続問題を解決することを最優先にしたほうがいいよ」
ロメオがもっともなことを言って母を慰めた。
オクタヴィアは唇をキュッと結んで黙り込み、車の中に重苦しい沈黙が流れた。
ライモンディの事務所には既に二人の弁護士、ディ・マウロとダヴェーリオが到着していた。
「やあ、ご機嫌如何ですか?」
ディ・マウロ弁護士は例によって穏やかな微笑を浮かべて挨拶した。
「さあ――あまり芳しくありませんわ」
オクタヴィアはライモンディにきつい視線を送りながら皮肉交じりに言った。
「まあ、そんなに心配なさらずに」
事情を知らないダヴェーリオ弁護士が励ますように声をかけたが、オクタヴィアは曖昧な微笑みを浮かべて黙り込んだ。
「さて、では本題に入りたいと思います」
一同が席に着くとディ・マウロは手元の書類を広げた。
「我々はこの二週間の間、オクタヴィアさんの死後認知について色々調べました。死後認知訴訟と一言で言っても色々なケースがありますから、オクタヴィアさんの立場や条件を考究する必要があったのです」
ディ・マウロはここで言葉を切って私達を見つめた。
私達は固唾を呑んで彼の次の言葉を待った。
「考究の結果、奥さんの場合、認知訴訟に際して、二つの重大な障害があることが明らかになりました。
一つ目の障害は戸籍上、オクタヴィアさんがアルベルト・セーラ氏によって娘と認知されていること。イタリアの法律は父親が二人存在することを認めていません。従ってオクタヴィアさんがアンジェリ氏の娘と認知されるには、まずセーラ氏による認知の取り消しを行わなければならない訳です。
しかし、セーラ氏は既に死亡しています。故人による認知の取り消しを行うのは、勿論不可能ではありませんが、大変難しい上、相当な時間がかかります。
二つ目の障害は、オクタヴィアさんが認知訴訟を起こす相手がアンジェリ氏の直接の相続人ではないと言うことです。
メンギーニ達はアンジェリ氏の相続人オルガ・メンギーニの相続人ですから、相続人の相続人と言うことになります。イタリアの法律では相続人のひとりがこのような申立を行えるのは相手が直接の相続人であった場合で、レオナルド・メンギーニ達のような代襲相続人にはこうした申立は行えません。
勿論、現在の法律で認められていないというだけで、不可能と言うわけではありません。憲法院に法律の改正を要請し、それが認められれば、勝利することは可能です。しかし結果を得るまでに大変な時間がかかります」
「どれぐらい時間がかかるんですか?」
ロメオが緊張した面持ちで尋ねた。
「運が良くて五年、長ければ十年以上かかる可能性があります」
「十年なんて――早急に修理しなければならない不動産ばかりだと言うのに、そんなに待つことは出来ませんわ」
オクタヴィアは絶望的になった。
「まあ奥さん、落ち着いて下さい。まだ解決策がないとは言っていませんよ」
ディ・マウロがなだめるように言った。
「我々はあくまでも訴訟になった場合に発生しうる問題点を考察し、訴訟のメリットと勝算を計ったまでです。
その結果、我々は訴訟を起こさない方が賢明だと言う結論に達しました」
「それでは――結局、今まで通り普通に遺産分割を行うということですね――」
オクタヴィアが失望したように呟いた。
「いや、違います。正式に訴訟は起こさないだけで、貴女がアンジェリ氏の娘であることを主張することには変わりはありません。つまり我々の計画はこうです。
メンギーニ達に正式な書状で貴女がアンジェリ氏の非嫡出子であり、唯一の相続人であること、死後認知訴訟を起こすつもりであること、従って相続対象の不動産や相続権の売買仮契約などを一切行ってはいけないことを通告するんです。
彼等は慌てて弁護士に相談するでしょう。勿論、彼等にこちらが抱えている問題点を悟られてはいけません。貴女がセーラ氏に正式に認知されていることなど、彼等の知るところではないですからね。近い内に示談を申し入れてくるはずですよ」
ディ・マウロの口調は確信に満ちていた。
「示談と言うと、お金を要求してくると言うことですか?」
ロメオが尋ねた。
「現金、あるいは不動産の一部を要求してくると思います」
今度はライモンディが答えた。
「しかしそれでも何年もかかる訴訟を起こすことを考えれば安いものです」
オクタヴィアの瞳が不安で揺れた。
「でも、もし――彼等が示談に応じなかったら――」
「そんなことはまずないですね」
今度はダヴェーリオが口を挟んだ。
「メンギーニ達はおそらく貴女がロレンツォの娘であることを知っています。知っていて黙っていたんです。
ですから認知訴訟になれば、例え何年かかっても最終的に貴女が勝つことが判っているはずです。ですから高い費用を払って負ける訴訟に挑むより、ここで示談に応じた方が賢明だと考えるはずですよ」
私達は顔を見合わせた。
「その通知と言うのはいつ送れますか?」
ロメオが尋ねた。
「出来るだけ早い方がいいですね。来週か再来週中には送れると思います。書状は私が作成しますが、ダヴェーリオ弁護士の名前で送ってもらいます。私の友人がメンギーニの弁護士を務める可能性がありますので、私は表舞台に立たないほうがいいんですよ」
ディ・マウロが意味ありげな言い方をしてニヤリと笑った。
「まあ彼等にとっては晴天の霹靂でしょうなあ」
ダヴェーリオは笑った。
「奥さん。計画は少々変わりましたが、心配しないで下さい。
春までに片がつくはずですよ」
ライモンディが励ますように言った。
「そう願いますわ」
ライモンディに腹を立てているオクタヴィアは彼から目を逸らした。
ライモンディは訝しげにオクタヴィアを見つめた。
「先ほど言った訴訟になった場合の障害や問題点をまとめた意見書を作成しましたので、よかった目を通して下さい」
ディ・マウロが『オクタヴィア・セーラ/メンギーニ一族の相続問題』と書かれた報告書を私達の前に置いた。
二人の弁護士が挨拶して去り、私達はライモンディの事務所に残された。
「オクタヴィアさん。訴訟には思ったより障害があることが判明しましたが、一年も待たずに数ヶ月以内に示談で片がつけば、かえってこの方がよかったと思いますよ」
ライモンディは上機嫌だった。
「そううまく行くでしょうか。彼等が訴訟を受けて立つと言い出したら――」
ライモンディとは対照的にオクタヴィアの表情は硬かった。
「大丈夫だよ。母さん。彼等だって負けると分かっている訴訟に挑むほど馬鹿じゃないよ」
ロメオも快活な口調で母を励ました。
私は黙ってディ・マウロが作成した意見書に目を通していた。
そこにはディ・マウロが素人の私達に判るようになるべく簡単な言葉を選んで説明してくれた内容が、「憲法二六九条によれば~判決の破棄二〇〇四年の第一三六六五~」と言う風に、具体的な法律や判例を引用して詳しく解説されていた。
「ここで鍵となるのは、メンギーニ側の弁護士です」
ライモンディは続けた。
「前にも言いましたが、メンギーニ一族のうち、ミケーレ、リディア・オルシーニ、それにジルダ・メンギーニの顧問弁護士マルタ・リッカルディはディ・マウロ弁護士の友人です。
メンギーニ達が彼女に今回の件を依頼すれば、事が運びやすくなります。
リッカルディ弁護士に裁判で戦っても勝ち目がないことを彼等に強調して貰い、早めに示談で手を打つ方向で進めることが出来ます。
ただメンギーニ達は親戚同士ですが仲が悪く、お互いに疑心暗鬼になっていますから、各人がそれぞれ別の弁護士に相談に行ったりすると厄介です」
「厄介な事と言うと――」
ロメオが心配そうに尋ねた。
「弁護士にしてみれば、訴訟にした方が儲かりますからね。
特にこのように巨額な遺産を巡る訴訟ともなれば尚更です。中には欲に目が眩んで、負けると判っている訴訟に挑むことを薦める愚かな弁護士がいるかもしれません。
しかし、私の考えではメンギーニ達は資産家ですが、大変な守銭奴です。それぞれ別々の弁護士を雇うより、六人で一人の弁護士に依頼して弁護士にかかる費用を六人で割ることを選ぶと思いますよ」
ライモンディは安心させるように言った。
「ライモンディ公証人――」
先ほどからニコリともせずに黙り込んでいたオクタヴィアが意を決したように口を開いた。
「サン・マモロの物件の件ですけど、わたしは元僧院の建物は売りたくないとお伝えしたはずです。でも貴方がわたしに署名させた契約書には全ての建物が含まれていました。少なくとも僧院の建物だけは契約書から除外して欲しいです」
ライモンディは眉をひそめた。
「あの物件は三棟で一つの物件なんです。二棟だけ購入するなんて意味がありませんよ」
「わたしはあの僧院の建物がとても気に入っているんです。ロレンツォも――とても大切にしていましたわ――」
オクタヴィアは懇願するような口調になった。
「奥さん。貴女はバルベリア通りの建物とヴィラ・マルヴァジーアを修復しなければならないんですよ。サン・マモロの二棟の売却金だけでは、とても不充分ですよ」
ライモンディは咎める様に言った。
「でも――」
ライモンディはもう沢山と言う様に首を振った。
「もうこの話はやめましょう。サン・マモロの一部だけ売却するなんてナンセンスですよ」
そう言ってライモンディは強引に話を終わらせてしまった。
オクタヴィアはライモンディを恨めしそうに上目遣いで見たが、それ以上何も言えずに黙り込んでしまった。
ミラノまでの帰路の間、オクタヴィアは一言も口を利かなかった。私には彼女の心情が痛いほど判った。
サン・マモロの僧院――それはオクタヴィアがこの困難きわまる相続争いの中で払った最初の大きな代償だった。




