売買前提契約書
一月も終わりに近い金曜日、オクタヴィアはライモンディに呼ばれてボローニャに行っていた。ロメオは仕事があり、私も仕事の締め切りに追われて忙しかったのでオクタヴィアに同行することが出来なかった。
その夜、ロメオが暗い顔をしてやってきた。
「母さんがとんでもないことをしでかしてくれたよ」
「いったいどうしたのよ。」
「これを見てご覧」
ロメオは一冊の書類を見せた。
A4サイズの紙の一番上の表題には『売買前提契約書』と書かれていた。
「売買前提契約書?」
私は書類に目を通した。
「これ、サン・マモロの物件の売買仮契約書じゃない?」
「うん。母さんは相続税を払う為に銀行から貸付を受けているんだけど、利息が馬鹿にならないんだ。それに、これから認知訴訟を起こすとなると弁護士にお金がかかるだろう?
それで、ライモンディがサン・マモロの売買の仮契約をすれば、前金で五十万ユーロ支払うから、そうすれば借金を全額返済出来るし、弁護士の費用も出来るだろうって提案してきたんだ」
私は冊子をパラパラとめくった。
「売主がオクタヴィア、買主がウンベルト・ライモンディとマッダレーナ・パヴェーゼってなっているけど、ライモンディの名前は確かロベルトよね?
それにマッダレーナ・パヴェーゼって誰?」
「ウンベルト・ライモンディはライモンディのお兄さん、マッダレーナはライモンディの奥さんだよ。母さんの相談役であるライモンディが直接買主になるのはまずいらしい」
「でもお義母さんは旧僧院の棟は売らないつもりだったんじゃないの?
ここには全部って書いてあるわよ」
「そうなんだよ」
ロメオの顔が沈んだ。
「母さんはよく読みもしないで、署名してしまったらしい」
「よく読みもしないでって!
普通こんな重要な書類にその場ですぐに署名しないでしょう?」
「僕が指摘するまで母さんは僧院も含まれていることに気が付いていなかったぐらいだからね」
私は呆れて言葉を失った。
「契約書を読まなかったってこと?」
「ライモンディのことを信じきっていたからね。それに自分達だけの取り決めで、正式な書類じゃないと思っているらしいよ」
「だってこれ、どう見ても契約書でしょう?」
ロメオは黙った。
ライモンディがサン・マモロの物件を喉から手が出るほど欲しがっていたのは、始めから分かっていた。そもそも彼がオクタヴィアと知り合ったきっかけがサン・マモロの物件だったのだ。
しかし、これから訴訟を起こそうと言うこの微妙な時期に、こんな風にどさくさに紛れて仮契約書に署名させてくるとは予想外だった。
私はライモンディに対して正義感溢れる熱血漢と言う印象を持っていたから、この出来事はかなりショックだった。
だがオクタヴィアはあくまでも内輪の取り決めで、この仮契約書にそれほど効力があるとは思っていないようだった。
しかし翌日、ナーディアに前提契約書を見せたところ、オクタヴィアがサインしたこの証書は通常、不動産業者が使う仮契約書の数倍の効力があることが分かった。
「仮契約と言うのは、違約金さえ払えは契約を破棄出来るけど、前提契約はいくら売主が違約金を払っても、買主側がそれに応じたくなければ契約の強制履行を要求出来るのよ。
だから前提契約書には決して安易に署名するべきではないのよ」
ナーディアは説明した。
「でもこんな時に、こんな重要な書類に署名させるなんてちょっと許せないわねえ。
簡単に署名しちゃう貴方のお母さんもお母さんだけど――」
ナーディアは顔をしかめた。
それでもロメオは楽観的だった。
「母さんは修道院の棟を売るつもりは全くなかったんだ。
ライモンディにきちんと説明すれば、契約書を修正してくれると思うよ」
しかし事はそう簡単には運ばなかった。
「前提契約書を見直して欲しいって言ったら、そんな事を言うなら弁護士と話を進める気が失せるなんて言うんだ」
その夜、ライモンディに電話したロメオは悔しそうに唇を噛んだ。
「母さんはあれほど信頼していたのに裏切られたってかなり怒っているよ」
「でもよく読みもしないでサインしたのはお義母さんでしょう?」
「でも母さんは世間知らずで、ライモンディに頼りきっていたんだよ。
そんな母さんに署名させるなんて、赤子の手を捻るより簡単なことだ。
ライモンディだってそのくらい分かっていたはずだよ。よりによって彼女が一人の時に署名させるなんて」
「そうね。フェアじゃないわね」
「母さんはライモンディをすっかり悪人扱いしているよ。騙されたってね」
「ロメオはどう思っているの?」
ロメオは複雑な顔をした。
「うーん。僕は母さんが言うようにライモンディが目的のためだけに母さんに近づいて来た悪人にはどうしても思えないんだ。
確かにライモンディが最初からサン・マモロの物件を熱望していたのは事実だし、そもそもそのために僕達に近づいてきたよ。
でも彼がこの相続問題に注ぐ情熱は、単なる不動産への興味だけとは思えない。母さんのために最良の解決策を見つけようと本気で奮闘している。
確かに最初の目的はサン・マモロだったかもしれないけど、今はこの相続問題に――なんと言うか取り憑かれたように夢中になっているような気がするんだ。
ただし、このサン・マモロの件はショックだよ。こんな方法で母さんに署名させるのはフェアじゃない」
「そうね。」
私は頷いた。
「このサン・マモロのやり方は私も気に入らない。
でもライモンディの目的がただ単に不動産だけだったら、ロメオ達のためにここまでしないと思うし――だって銀行の融資の世話までしてくれたんでしょう?
でも全くの下心なしに赤の他人を助けてくれるほど世の中は甘くないってことね」
残念なことだが事実である。
「同感だよ。僕もこの件は悔しいよ。でも今の僕達の命運はライモンディの手中にあると言っても過言じゃない。彼は僕らの全てを握っているからね。母さんは彼のことをものすごく怒っているけど、ここで彼を怒らせて放り出されたらって怯えてもいるんだ」
「でもまだ正式な売買契約を済ませた訳じゃないんだし、相続問題が解決してから、改めて話し合えばいいじゃない?」
私は慰めるように言った。
しかしライモンディが一度署名した書類を簡単に撤回するとは思えなかった。
そして、オクタヴィアのこの無防備さが今後、更なる災難を招くことになるのだ。




