ロレンツォの家
クリスマスも間近に迫った十二月二十日、ファルネーゼによるアンジェリ家資産の鑑定評価報告書が完成したと言うので、朝からボローニャのライモンディの事務所に向かった。
「その後、バルベリア通りのアパートメントで遺産管理人と待ち合わせをしたよ」
ハンドルを握りながらロメオは言った。
「どうして?」
「ロレンツォの住居を見せてもらう事になっているんだよ」
「ロレンツォの住居?」
「髪の毛を探すためにね」
ロメオは後部座席の私を振り返って悪戯っぽく笑った。
「ええっ!」
「他にも、何か手掛かりになるものが残っているかもしれないからね」
「でも遺産管理人って、レオナルド・メンギーニが雇った人でしょう?
部屋の中をうろうろ探し回っていたら怪しまれるんじゃない?」
「大丈夫。わたしが適当な世間話をして、彼女を入口付近に引き付けておくから、その間にあなた達が奥のロレンツォの寝室を探してちょうだい」
オクタヴィアが言った。
「彼女?遺産管理人って女性なの?」
「うん。何でもレオナルドの娘エリーザの知り合いの会計士らしいよ」
ロメオが答えた。
――まさに映画か推理小説のような展開である。
しかし、内気で口下手なオクタヴィアに、遺産管理人を「世間話」で長時間引き止めておくと言う大役が果たして務まるのだろうか?
朝から凍るような風が頬を刺す寒さだったが、パルマを過ぎた辺りから白い薄片がちらほら舞い始めた。
ボローニャに到着すると、私達は車をサン・マモロ通りに駐車し、徒歩で旧市街中心にあるライモンディの事務所に向かった。
雪はますます激しくなり、高速道路では黒い路面に吸い込まれるように消えていた雪が、建物の屋根や路地をうっすらと白く染め始めた。
こんな日も柱廊のおかげで濡れずに済む。ボローニャの街を華やかに飾る柱廊は目を楽しませてくれるだけでなく、冷たい雨や夏の日差しから、行き交う人を守ってくれるのだ。
ライモンディの事務所に着くと、土地測量技師のファルネーゼが既に到着していた。
ファルネーゼは熱血漢タイプのライモンディとは対照的な四十代半ばの知的で落ち着いた感じの男性だった。
ファルネーゼは革の鞄から鑑定評価報告書を取り出すと早速、説明を始めた。
「アンジェリ家の不動産は興味深いものばかりですが、特にゴベッティ通りの三区画の土地には隠された価値があることが判明しました」
「隠された価値?」
ロメオが聞き返した。
「そうです。ゴベッティ通り一帯はボローニャ市が計画している新しい都市開発事業の施行区域なんです。この一帯に緑地、市街地、公共施設、大型商業施設が建設される予定です。予定地となっている土地のほとんどが市の所有地なのですが、その中にロレンツォ・アンジェリ氏所有の私有地が含まれています。
このことは建設業界では既に有名で、大手の建設会社や不動産業者が早くもアンジェリ家の土地に目をつけ、かなり以前から買収しようと水面下で動いているらしいですよ。
都市開発が進めば、地価も数倍に跳ね上がりますからね」
私の脳裏にカイロリの顔が浮かんだ。
カイロリは不動産業者だから、当然この都市開発のことを知っていたに違いない。だから何とかこの土地を手に入れようと、ロレンツォの生前から画策を練っていたのだ。
「勿論、今はまだ計画段階ですから、この都市開発の事を知っているのは市の開発事業部の人間や開発計画に直接関与している専門家、それに建設業界、不動産業界の人間など、ごく一部の人間に限られています」
ここでライモンディが口を挟んだ。
「奥さん、覚えていますか?貴女がファルネーゼ君に鑑定評価を依頼することを躊躇されていた事を。
メンギーニ側の鑑定家のポリーニが、ゴベッティ通りの土地に付けた評価額をご存知ですか?
三区画合わせて二百五十万ユーロです。同じ土地がファルネーゼ君の評価では五百十五万ユーロですよ。鑑定料を惜しんでポリーニなどに評価を任せていたら、貴女は大損する所だったんですよ」
オクタヴィアは目を丸くした。
「五百十五万ユーロ?」
「ええ」
ファルネーゼが相槌を打った。
「ポリーニ氏はこの区域が建築可能地区であることも無視した評価を行なっています。市の都市計画については、一部の人間しか知らないことですから、ポリーニ氏が知らないのも無理ないですが、建築可能区域であることを見落とす訳がありません」
「つまり、メンギーニに買収された可能性があると言うことですか?」
ロメオが身を乗り出した。
「そう考えるのが妥当でしょう」
ファルネーゼは頷いた。
「裁判所選任鑑定人も務めるポリーニ氏が、そんな鑑定ミスを犯すわけがありませんからね」
「では、故意に低く評価したと言うんですか」
オクタヴィアが目をみはった。
「おそらくそうだと思います。
それからもうひとつ。私がこの区域の都市開発のことをもっと詳しく知るために、市役所の開発事業部に話を聞きに行きました。
すると、数週間前に同じ事を訊きに来た人間がいたと、そこの責任者が言っていました」
「まさか、メンギーニの誰かが!」
私とロメオは同時に叫んだ。
「レオナルド・メンギーニは以前、旧市街の建物には興味はない。自分はゴベッティ通りの土地を希望するつもりだと言っていました。彼はゴベッティ通りの価値に気が付いていたんだ」
ロメオは思い出したように言った。
「これで分かったでしょう?メンギーニ達がいかに狡猾な人間か」
ライモンディがはっきりと言った。
「連中は、自分たちが少しでも多く相続するために、貴方方を何度も欺こうとしました。まず遺言状を無視しようとしました。それに失敗すると、こんどは鑑定評価額を操作して自分達の相続分が多くなるように画策しようとしているんです」
ファルネーゼが去ると、ライモンディは相続争いの現在の状況などを説明した。
「メンギーニ達の鑑定評価はもう終わっていますから、こちらの鑑定評価がいつ終わるのか、彼等は何度も催促して来ています。彼等としては、年明け早々に親族会を開いて遺産分割協議を済ませてしまいたいようです。
こちらの出方としては、遺言状の見解書を盾にバルベリア通りとサン・マモロ通りの物件、それにもし可能ならヴィラ・マルヴァジアを希望しようと思っていますが、異存はありますか?」
「いいえ。その三つの物件が相続出来れば私は満足ですわ。どれもロレンツォが特に大切にしていた物件ですもの」
「しかしどの物件をひどく傷んでいて、早急な修復を必要とする物件ばかりですよ。アンジェリ氏の住居があるバルベリア通りの物件を保持したいなら、サン・マモロ通りの物件は全部売って、修復費に当てるべきです」
「サン・マモロの物件を売るなら、二棟だけです。元僧院の建物を売る気はありません」
オクタヴィアが珍しく強い口調で言った。
「勿論、売る、売らないは貴女の自由ですよ。しかしヴィラ・マルヴァジアも希望する気なら、あのヴィラは早急に修復する必要があります。サン・マモロ通りの二棟の売却金だけでは、とてもヴィラの修復代まで出ませんよ」
ライモンディは諭すように言った。
「そうですけど――サン・マモロの古い僧院はロレンツォがとても大切にしていましたから――売りたくないんです」
オクタヴィアがきっぱり言うと、ライモンディはそれ以上、もう何も言わなかった。
「それよりも、ライモンディ公証人、貴方にお伝えしなければならないことがあります」
オクタヴィアはジルダ・メンギーニの電話の件と、エンツォ・ベルナールとの電話の内容をライモンディに伝えた。
ライモンディは彼女の話に真剣な面持ちで耳を傾けた後、こう訊ねた。
「でも貴女は相続争いにこの話を持ち込むことは、躊躇されているんですよね」
「ええ――今はまだ気持ちの整理が付きません。わたしを育ててくれた父が、実の父親ではなかったことははっきりしました。
でもまだ、ロレンツォがわたしの父と言う確証はありません」
オクタヴィアは辛そうにうつむいた。
「これからロレンツォが住んでいたアパートメントに行ってみようと思っています。もしかしたら――髪の毛か何か残っているかもしれませんし――」
ライモンディは頷いた。
「オクタヴィアさん。前にもいいましたが、私は正義を重んじる人間です。
もし、これが事実なら、何らかの方法で立証されるべきだと思っています」
ライモンディはそう言うと手を差し伸べた。
「ありがとうございます。
わたし、貴方に助けて頂かなかったら、何も判らずどうなっていたか――」
オクタヴィアは大きな瞳に感謝を込めてライモンディの手を握った。
ライモンディの事務所を出た私達は、そのままバルベリア通りのロレンツォのアパートメントに向かった。
「じゃあ、母さんは適当な話をして、遺産管理人を入口付近に引き止めておいてよ。
その間に僕達が奥の寝室を調べるから」
ロメオとオクタヴィアが打ち合わせをしている。
――本当に映画みたい。
私は不意に可笑しさがこみ上げてきて一人で微笑んだ。
遺産管理人のマリアンナ・コソットは明るいブラウンのショートヘアにメガネをかけた如何にも優等生然とした、三十代後半の小柄な女性だった。
「よろしく。マリアンナ・コソットよ」
マリアンナは溢れんばかりの人懐っこい笑顔で私の手を握り締め、身構えていた私の警戒心を一瞬にして消し去った。
ロレンツォの住居の入口には扉にある二つの錠の他に、太い鎖と南京錠が二つ取り付けられていた。
「この扉は装甲ドアではない普通の扉で、下の階の住民や専属会計士のアンジョーニも合鍵を持っています。ですからレオナルド・メンギーニさんが無用心だからと、こうやって鍵を二重に掛けたんです」
マリアンナ・コソットは南京錠を外しながら説明した。
「このアパートメントにはロレンツォの生前に何度か来たことがあります」
オクタヴィアが早速、マリアンナ・コソットを掴まえて話し始めるのを聞きながら、私とロメオは真っ直ぐ奥の寝室に向かった。
シャッター式雨戸の下りたロレンツォの寝室は薄暗く、数ヶ月前と全く変わっていないようだった。
私はまず剥き出しのマットレスを注意深く点検した。
――まるで私立探偵だ。
マットレスに顔を近づけながら念入りに調べる。
「何も残っていないようよ」
ロメオは懐中時計やレシートなどの細々とした物が乱雑に散らばった箪笥の上を調べている。
「部屋が暗くてよく見えないよ」
「でも雨戸を上げたら怪しまれるでしょう?
目で見える範囲では、何もないみたいよ。箒で掃いてみたら何か出てくるかもしれないけど――」
「でも、ロレンツォは猫を何匹も飼っていたからなあ。床を掃いてもほとんどが猫の毛なんじゃないかな。取り敢えずバスルームに行ってみよう」
私達は突き当たりのバスルームに入った。
私は洗面台とバスタブの排水溝を調べたが、髪の毛は引っかかっていなかった。
これが映画ならここで髪の毛の一本でも見つかるのだろうが、現実はそう都合よく行かない。
「そう言えば、ロレンツォは禿げていて、髪の毛はもうほとんど無かったよ。だから髪の毛が落ちているはずがないんだ――」
悲痛な声でそう言ったロメオの情けない顔を見て、私は思わず吹き出してしまった。
「ごめんごめん!
でも私は一体何をやっているんだろうと思ったら、急に可笑しくなっちゃって」
「本当だ。僕らは一体何をしているんだろうね」
ロメオもつられて笑い出した。
「髪の毛は無いみたいだ。ロレンツォは禿げていたし、プロの鑑識でもない僕らが探すのは無理みたいだね」
私達は改めて周りを見渡した。寝室には聖人や聖母の絵姿が至る所に飾ってあった。
「ロレンツォは信仰深かったからね」
ロメオはそう言ってその中のひとつ、額縁に入った聖母マリアの肖像画に歩み寄った。
額縁の隅にセピア色に変色した中年女性の写真が挟まっていた。
「これはロレンツォの母ジュリア・メンギーニの写真だと思うよ」
その写真を手に取ったロメオの手が止まった。
「これは――」
ジュリア・メンギーニの写真の下に、もう一枚、写真があった。
膝に幼い少年を抱きかかえた若い女性の写真――それは紛れも無く、若き日のオクタヴィアと幼いロメオの写真だった。
「僕と――母さんだよ。」
ロメオは懐かしそうに写真を撫でた。
その写真を見た瞬間、私は鳥肌が立つような感動を覚えた。
オクタヴィアはロレンツォの娘なんだわ――
私はこの時、そう確信した。
結局、この写真以外、ロレンツォのアパートメントから得た収穫はなかった。
アパートメントを出るとボローニャの街はすっかり雪化粧が施され、何処も彼処も真っ白に染まっていた。
私達は雪の中をザクザク歩いて何とか車を停めたサン・マモロ通りに辿りついた。雪は止むどころか更に激しさを増して白い薄片を撒き散らした。私達は吹雪の中、戦々恐々としながらのろのろと帰路についた。




